娘が告発した日

秋津 深

第1話 娘が告発した日

「あたしと仕事、どっちが大事なの?」

 真剣な眼差しで、美咲が言う。まるでテレビドラマの安い台詞だが、状況は切迫していて、ぼくは返答に窮した。

「黙ってちゃ、わからないでしょ。なんとか言ったらどうなの」

 リビングのテーブルに肘をつき、冷ややかな目でぼくを見下ろしている。ぼくはと言えば、3月とはいえ、まだまだ寒い夜の、冷え切った床に正座をして、頭を垂れている。

「ねえ」

「はい」

 恐る恐る、頭を上げると、美咲とまともに目が合った。いたたまれず、思わず目をそらす。

「今回の件、どう落とし前つけてくれるの」

 まるでヤクザだ。いい加減、膝も痛くなってきた。明日も朝早くから会議がある。

「これから、今日のようなことがないよう、十分気をつけます」

「気をつけます?」

「絶対に、いたしません。ここに、誓います」

 美咲は、無表情にぼくを見ている。

「もし、破ったら?」

「謝ります」

 どんっと音がする。美咲がテーブルを叩いたのだ。

「美咲が欲しがっていた、新しい靴を買います」

「鞄と帽子もね」

 全く抜け目ない。が、我が家にそんな潤沢にお金があるはずもない。

「それはちょっと…」

 途端に、美咲は大きな声で悲鳴を上げた。慌てて、立ち上がり、口をふさぐ。

「わかった、わかりました」

 児童相談所にでも通報されたらたまらない。美咲は不適に笑い、

「分かればいいのよ。靴は、ミキハウスだからね」

 まったく、5歳児とはとても思えない悪賢さだ。誰に似たのか。美咲は椅子から飛び降りると、さっさと自分の部屋に行ってしまった。おやすみ、の一言もない。保育園のお迎えの時間に遅れたのは、確かにぼくが悪かったが、日増しに美咲のぼくに対する態度が悪くなっているのは気のせいではないはずだ。

 ビールでも飲んで寝よう、と思って冷蔵庫を開けると、買い置きはすでになく、代わりとなるようなものは何もなかった。一日の疲れが、どっと押し寄せる。蘭が生きていれば、と思わずにはいられない。戸棚の上にある、家具調の仏壇の中で、蘭は幸福そうに微笑んでいた。

 

 

 蘭が亡くなったのは、半年前の9月のことだった。残暑が続いていたが、その日は、雨が降り、めっきり冷え込んで、秋の訪れを感じたのを覚えている。

 蘭は、第二子となる陽介を産み、育児休暇中だった。実家に行こうと、湘南の、海岸沿いを車で走っている時に、カーブを曲がり切れずに崖下に転落。即死だった。同乗していた陽介も亡くなり、美咲は奇跡的に一命を取り留めた。

 以来、父と娘の二人暮らし。美咲は、事故後しばらくはショックのせいか、口も利けない状態が続いたが、退院後は、家事なども手伝うようになった。母親の代わりを務めようというつもりなのか、日増しに蘭に似てきている。母親と弟を失った寂しさがあるのだろう、不満を抱えているようで、いらだちをぼくにぶつけることが多くなっている。特に、ぼくの仕事が忙しくて、保育園のお迎えに遅れたりすると、怒りを爆発させた。蘭が生きていた頃は、そんなことはなかったと思うのだが、短気になり、ぼくへの態度が悪化しているのを感じてはいたが、仕事と育児に追われる毎日で、美咲の気持ちにどう寄り添えばいいのかも分からず、またぼく自身も愛する家族二人を失ったショックから立ち直れておらず、途方に暮れている、というのが正直なところだった。

 その日の営業先をまわり終えて、近くの公園に入り缶コーヒーで一服しているところに、係長の桐生から電話があった。大口の取引先の案件の、進捗確認だった。オフィス機器などの販売を手がけている中堅規模の会社としては、働き方改革の流れを受けた、大企業の本社レイアウト変更に関する今回の業務は、最優先して取り組むべき重要案件だ。桐生がやきもきするのも分かるが、あと数時間すれば、職場で顔を合わせるというのに、まったく余裕というものがない。信用されていないのかもしれない。着任の挨拶を交わした時から、合わないと直感したが、一年経ってその思いは強くなるばかりだ。こちらの苦手意識が伝わるのか、距離は広がるばかりで、気がつけば、しなければならない報連相をぎりぎりまで引き延ばし、それもできるだけまとめて持って行くようになっていた。主任の自分と係長がそんな状態では、係の業務が円滑にまわるはずもなく、法人営業課の花形であるべきはずの営業1係が、ほかの2係、3係の後塵を拝する状況になりつつあった。主任の自分が数字を稼がねば、と外回りの件数を増やしているが、内心、職場に帰って上司の陰鬱な顔を見たくないという思いもあった。そのため、通常は職場で作成する報告書や経理上の書類なども、喫茶店やファミレスで仕上げてしまうことも少なくなかった。嫌な上司から逃れる術があるのが、営業職のいいところでもある。

 

 

 山下公園は、桜の花が見頃だった。横浜市が花と緑に関するイベントを開催しており、公園の各地できれいな花が咲いていた。晴天の影響もあってか、普段よりも多くの人で賑わっていた。美咲は白いワンピースに花柄の帽子をかぶり、時折鼻歌を歌うなど、機嫌も良さそうだった。赤レンガ倉庫でランチを済ませ、大桟橋で対岸に見える観覧車を眺めているときだった。風に目を細めながら、美咲が言った。

「わたし、殺される」

 思わずぎょっとして、美咲を見る。「なんだって?」

「わたし、殺されるって言ったの」

 どうやら、聞き間違いではないようだった。こちらを見ずに、遠くを見たまま、美咲はそう言った。

「何を言ってるんだ。いったい、何の話…」

 美咲がこちらを振り向き、まっすぐにぼくの目を見て言った。

「わたしじゃない。ママが、死ぬ前に、そう言ったの」

 何の話をしているのか、すぐには理解できなかった。蘭は、交通事故で亡くなった。追突されたわけでもなく、居眠り運転をしていたわけでもない。警察が現場検証し、ブレーキ痕から、スピードの出し過ぎで、カーブを曲がり切れなかったことが原因だったと判明している。

「事故に遭う何日か前、ママがそう言ってたの」

 美咲は真剣な眼差しで、挑むようにぼくを見ている。冗談で言っているのではないようだった。

「ママは、事故に遭って亡くなったんだ。誰が悪いわけでもない。あれは、不幸な事故だった」

「誰が悪いわけでもない?」

 美咲の目が、鋭さを増した。「ママは、殺されたんだよ。死にたくて、死んだわけじゃない」

「そんなことを言ったって、誰に殺されたって言うんだ」

 美咲はぼくを見て、不適に笑った。

「パパが、調べてみたら、いいじゃない。なんでママが死ななければならなかったのか」

「ブレーキに細工がしてあったとか、睡眠薬を飲まされたとか、そういう話なら、警察が調べて、なかったと言っているよ。殺人だなんて、馬鹿げてる」

 美咲はじっと、ぼくを見ている。風が、二人の間を吹き抜けていった。日が落ち、少し寒くなってきた。

「たしかにそうね。馬鹿げてるかもしれない。でも、ママは確かにそう言ったのよ。わたしは、ママを信じる。パパは、ママが言ったことを信じないの? 警察の言うことは、信じるのに」

「いや…」

「調べて」

 有無を言わさぬ、きっぱりとした口調だった。

「調べて、わたしに教えて。ママを殺した犯人が、誰だったのか」

 美咲の強い口調に、ぼくはただ、うなずくことしかできなかった。

 


 蘭を殺した犯人捜し。突拍子もない話だった。あれは、交通事故だった。それは間違いない。司法解剖をしたわけではないが、現場検証の結果、スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れなかったことが原因、とされている。

 美咲の言うとおり、蘭が殺されたのだとしたら、どんな可能性があるのだろうか。睡眠薬のようなものを飲まされていた。ブレーキに細工がされていた。考えられるのは、そんなところだろう。

 仮にそうだったとしても、もう火葬は済んでいるし、車も処分してしまった。確認のしようがない。警察に聞くという方法もあるが、「事件性なし」として、事故として処理された事件だ。確たる証拠もなしに、動いてくれるはずもない。

 とはいえ、美咲から聞いた蘭の「殺される」という言葉は、気にかからないといえば嘘になる。聞かなかったことにするには、重い話だ。美咲も気にしているし、ぼく自身も、このまま平然と日々を過ごしていける自信はない。仕事中も、気がつけば、ああでもない、こうでもない、とこのことについて考えている自分がいる。仕事が手につかない、というほどではないが、意識が散漫になっているのは確かだった。

 調べてみよう、と思う。結婚して8年が経つが、蘭のことで知らないことも多い。恋愛結婚で、時に喧嘩はしたにせよ、基本的に夫婦仲は円満だったが、何もかもを知っているわけではない。ぼくに言えない、秘密だってあったはずだ。

 殺される、という言葉は、本人に思い当たる節があったから、出てくる言葉だ。まず考えられるのは、怨恨、ということだ。恨まれている、死ぬほど憎まれている、だから、殺されると考える…。男女関係のもつれなどで、よほど思いが深くないと、そこまでの憎悪には至らないのではないか。あとは、身近な近親者を殺された恨みとか…。いずれにせよ、かなり近い関係にあった者でないと、そこまでの憎しみは持てないのではないかと思う。

 蘭に、そこまでの恨みを持つ者がいたのだろうか。にわかには、信じがたい。蘭は、どこにでもいる、普通の妻だった。二児の母であり、家事育児をこなしながら、仕事もできる、すばらしい女性だった。人から恨みを買う、なんてやはり信じられない。

 まず、調べてみることだ。そうしないと、逡巡するばかりで前に進めない。調べて、何も出てこなければ、「殺される」発言は、何かの間違いだったと思うことができる。そもそもが、5歳児の言葉なのだ。美咲がそんな嘘をつくとは思えないが、聞き間違いだった可能性もある。考えていても、仕方がない。納得するまで、調べてみよう。

 蘭の部屋は、生前のままにしてある。故人を偲ぶため、というよりは、家事と育児、仕事に追われる毎日で、忙しさにかまけて、そのままにしてある、というのが真相だ。

 部屋に入るのは、久しぶりだった。きれいに整理されている。蘭は、几帳面な性格だった。亡くなっているとはいえ、本人のいない時に勝手に部屋に入り、あれこれ触るのは、あまり気持ちのいいものではない。後ろめたさを感じながら、机の引き出しを開けたりして、中身を物色していたときだった。携帯が鳴っていて、見ると、蘭の母親からの着信があった。思わず、眉をしかめる。数回鳴動すると、静かになった。蘭の母親は、蘭と陽介が亡くなったのは、夫であるぼくの責任、と考えている節があり、精神状態も不安定で、最初の頃こそ丁寧に応対をしていたが、ヒステリックな詰問を受け続けるのもつらく、最近では対応に苦慮していて、着信があっても出ないことが増えていた。それで解決する訳もないが、休日の昼間から、延々と恨み言を言われるのは、正直勘弁してほしかった。義母も娘を亡くしたかもしれないが、ぼくも妻を亡くしている。ぼくだって同じ被害者なのだ。

 気を取り直して、捜索を再開する。机の一番下の引き出しの、昔の写真アルバムをめくっていた時だった。一通の封書が床に落ちた。拾ってみると、表にも裏にも、何も書いていない。中を開けてみると、一枚の便箋が入っていた。どうやら、手紙のようだった。勝手にみるのは良くない、という思いより、好奇心の方が勝っていた。梅雨前だというのに部屋の中は蒸し暑く、流れ落ちる汗が便箋に染みをつくる。カーテンを閉め切った部屋は薄暗いが、文字が読めないほどではない。

 中身は、恋文だった。字体からして、蘭が書いたものではない。無骨な字は、男が書いたものだろう。どれだけ、自分が蘭を愛しているかを、連綿とつづっている。最後には、「自分と一緒になってほしい」とまで書いてあった。一番下には、作者の名前が記されており、「犬飼 毅」の文字が濃い筆跡で書かれていた。日付は、6月とある。蘭が亡くなる三ヶ月前だ。

「何をしているの」

 驚いて振り返ると、美咲がドアのところに立っていた。廊下の灯りが影となり、表情は見えない。全くの不意打ちで、動悸がしていたが、

「いや、別に」

 と平静を装ったつもりが、やや声が裏返ってしまった。最近の美咲は、表情が乏しく、感情も不安定で、どう対応してよいのか分からない。心療内科の先生からは、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」と言われており、今も月に一度、通院をしている。

 美咲は両腕を組み、ドアの枠に身体をもたせかけている。目を細め、ぼくをじっと観察している。脇の下に汗が流れる。ぼくは、自分が緊張しているのを自覚した。

「パパ、その、手に持っているものは何?」

 さりげなく、美咲の視線から外れるようにしていたつもりだが、美咲は目ざとく見つけた。

「何でもないよ。ちょっと、ママの部屋を掃除していたんだ」

 捜索を打ち切り、いったん引き上げようと腰を上げる。

「手がかりを、探していたの?」

 美咲の横をすり抜けようとした瞬間、そう言われた。

「え?」

「ママを殺した犯人を、探そうとしているんでしょう?」

 美咲がまっすぐにぼくを見てくる。いったい、どう答えるべきか。美咲は、そんなぼくの胸のうちを見透かしたように笑い、左手で髪をかき上げた。その仕草が蘭によく似ていて、どきりとした。

「ありがとう、パパ。わたしが言ったこと、ちゃんと信じてくれて」

 つぶらな瞳に見つめられ、胸がいっぱいになり、何も言えなくなる。この子は、まだ5歳なのだ。ぼくがしっかりとしなければならない。美咲を抱き寄せ、背中を軽く叩きながら、「パパに任せておけばいいよ。美咲は、何も心配しなくていいから」

「パパ、しっかりね。信じてるから」

 美咲の小さい身体を抱きながら、ぼくは恋文の作者、「犬飼 毅」のことを考えていた。

 


 犬飼毅は、ぼくの会社の同期だった。入社した当時は就職氷河期で、特にぼくらの就職する年は厳しかった。大半の企業が採用人数を絞ったせいで、限られたパイを多くの学生が死にもの狂いで奪い合うという状況だった。何十社にもエントリーシートを送ったが、筆記試験すら通らない状況が続き、就職浪人も頭にちらつき始めた頃、奇跡的に二次、三次と試験に通り、合格へとこぎつけたのが、今の会社だった。正直に言えば、ぼくの大学のレベルからすれば、もっと大手の企業に就職をしている先輩がたくさんいた。採用担当者からも、「君の大学から、うちの会社に入ったのは、君が初めてだよ」とうれしそうに言われた時は、苦笑いをするしかなかった。誰も名前を知らないような、地方の中小企業に就職する、ということで、親もあまりいい顔はしなかった。それでも、ぼくにしてみれば、激戦を戦いつづけ、死に損ない、ほうほうの体で逃げ帰ろうとしたところを、かろうじて救ってもらったような思いだった。愛社精神、というほどのものではないが、救ってもらった恩義のようなものは感じていた。同期の人数は十数名しかいなかったが、いずれもぼくと同じく、超氷河期を傷だらけで生き残った者たちで、それ故か絆も深かった。切れ者で行動力もあった犬飼は、研修の時から頭角を現し、配属前の泊まりがけの合宿が終わる頃には、実質的なリーダーとして活躍していた。その後も順調に出世の階段を上り、同期トップで係長に昇任し、会長付の秘書となった。ぼくの会社では、会長の鞄持ちをする秘書は、出世街道の一番の王道と目されていた。会長が気にいった若手を抜擢し、自ら現地で帝王学を学ばせ、幹部育成をしようとしている、ともっぱらの噂だった。犬飼が会長とともに廊下を颯爽と歩く姿を見て、同期として誇らしく思うと同時に、二十代にして早くも差がついてしまったことを感じないわけにはいかなかった。

そんな、同期で一番の出世頭だった犬飼が、会社を辞めてもう大分経つ。退職から二、三年の間は、同期の集まりの時に犬飼の消息について話題になることもあったが、時の経過とともに、口の端に上ることもなくなっていった。犬飼がなぜ辞めたのかも、様々な憶測が飛び交い、中には良からぬ噂もあったが、依願退職であったということ以外、本当のところは分からなかった。また、犬飼自身も、同期に退職の挨拶をすることなく去っていったため、ぼくらとしては、犬飼のことをどう扱ってよいのか分からず、自然と話題にすることを避けるようになったのだ。

 既に会社を退職し、疎遠となっていた同期が、妻が亡くなる前に恋文を出していた。この事実を、どう考えればよいのだろう。

 蘭は、結婚するまで、ぼくらと同じ会社で働いていた。犬飼と、同じフロアで働いていたこともある。当時、蘭は広報課勤務で、会長の秘書である犬飼とは、会話をする機会も多かったはずだ。実際のところ、蘭に気があったぼくは、二人が仲むつまじげに話をする場面に出くわし、嫉妬にかられたことも一度ならずある。二人ができているのではと勘繰り、犬飼にそれとなく探りを入れたことさえあった。犬飼は否定していたが、素直に認めるはずもない。二人がみなとみらいで食事をしていた、という目撃情報も耳にしていた。実際、出世街道をひた走る、エリート社員の犬飼を見つめる蘭の眼は、ただの好意以上のものがあると思わないわけにはいかなかった。仕事はできるし、背も高く、学生時代水泳で鍛えた身体は引き締まっていて容姿も端麗とくれば、蘭が惚れたとしても無理はなかった。蘭も、朗らかな美人で若い男性社員から人気があり、二人が付き合えば、お似合いのカップルと誰もが思うに違いなかった。ぼくはといえば、一営業社員として、まだこれといった実績も上げられずにいた頃で、まるでぱっとせず、犬飼がライバルなら、到底勝ち目はないと、そう思っていた。情けない話だが、仕事上でミスがあり、課長から叱られている姿を、通りかかった蘭に見られたことさえあった。その頃、蘭とは多少の会話を交わすようになっていた。課長から叱責を受けた後、自販機の側で落ち込んでいると、蘭が通りかかり、話を聞いてくれて慰められた時に感じた惨めさといったらなかった。もっと、仕事ができる、かっこいい男になりたい、とその時に思ったものだ。犬飼と当時のぼくを比べれば、差は歴然としていて、ぼくが女性だとしても、犬飼を選んだろうと思う。

 結果として、犬飼は何らかの事情で会社を去り、蘭はぼくと結婚をした。奇跡、というものが起こりうることを、ぼくはその時知った。犬飼の突然の退職がなければ、結果は違っていたかもしれないが、幸運がぼくに味方したとしか言いようがない。蘭と犬飼の関係は、そこで終わっている。少なくとも、ぼくの認識ではそうだ。だが、そうではなかったのだろうか。

 実際、二人が付き合っている、という噂だってあった。結婚前に、気になって蘭に聞いた時、本人は否定していたが、本当のところは分からない。正直なところ、ぼくと犬飼を天秤にかけていて、犬飼が姿を消したから、残ったぼくの方を選んだのでは、という思いは、結婚してからもずっとぼくの中に消えずにある。そんなことを聞くことはとてもできず、努めて考えないようにしてきた。ぼくとしては、例えそうであっても構わない、蘭がぼくを選んでくれた、それだけで満足だと無理にでも考えるようにしてきた。だが、犬飼とのことは、過去のことではなく、二人の関係は続いていたのだろうか。関係が続いていて、何かトラブルがあり、犬飼が蘭を殺した…?

 ばかばかしい、と思いながら、ベッドに寝転ぶ。美咲を寝かしつけた後なので、部屋は静かだ。気持ちが高ぶっているので、焼酎をロックで流し込む。くだらない、と自分に言い聞かせるように呟きながらも、気がつけば犬飼のことを考えている自分がいる。特に気になるのは、手紙の日付だ。蘭が亡くなる三ヶ月前、というのはやはり気になる。犬飼が辞めてからもう大分経つのに、手紙を寄越す、ということは、何らかの関係が続いていた、ということではないのか。今の時代、わざわざ手紙を寄越す、というのは、メール等を蘭が受信拒否したため、とは考えられないか。それまでの手紙が残っていないのは、その期間は携帯でやり取りしていたからではないか…。

 蘭と犬飼が、仲睦まじげに話していた姿が、強烈な嫉妬とともに、昨日のことのように思い出される。犬飼の退職と同時に、二人の関係も終わったと思っていたが、ぼくは蘭に騙されていたのだろうか。痴情のもつれ、で蘭は殺されたのだろうか。

ベッドに寝転びながら、手紙や封筒をいじっていても、何も名案は浮かんでこなかった。ふと、封筒の消印を見れば、犬飼がどこから投函したか分かることに思い至り、見てみると、消印は押印されていなかった。ということは、つまり、郵便局を介さず、郵便受けに直接投函された、ということだ。思わず、背筋が寒くなった。犬飼は、蘭が亡くなる三ヶ月前、我が家の玄関先まで来ていたのだ。

 このままでは、美咲にも危険が及ぶかもしれない、という考えに思い至り、いても立ってもいられない気持ちになった。警察。いや、警察に話をしたところで、こんな憶測にすぎない話、まともに取り合ってくれるはずがない。事実だけを見れば、妻が亡くなる三ヶ月前に恋文が来ていた、というだけなのだ。

 いったいどうすればいいのか。答えが出ないまま、いつしか眠りに落ちていた。

 


 みなとみらいでの打ち合わせを終えて、会社まで戻る途中、喫茶店に寄ったのは、6月だというのに耐えがたい暑さだったからだ。例年になく梅雨明けが早く、身体がまだ夏モードに切り替えられていないのを感じる。

 店内は涼しく、アイスコーヒーを頼む。後輩の宮崎も同じ物を注文していた。

「いやあ、生き返りますね」

 宮崎は眼をしばたたかせながら、うまそうにアイスコーヒーをすすっている。4月に配属されたばかりの新人で、今はまだ営業見習いとして、主任のぼくの訪問に同行して、勉強をしてもらっている身だ。私大の文系出身で、飲み込みはあまり良い方ではないが、素直で一生懸命なところがあり、ぼくは好感を持っていた。

「こんな風に、仕事中にさぼったりしてもいいんですか」

 まじめな顔でそう聞かれ、思わずむせそうになる。

「これはさぼりじゃない。休憩だよ。営業だからって、休みなしに外回りしてたら、熱中症で倒れちゃうよ」

「そうですね。そうすると、これって経費で落ちるんですかね」

「落ちないよ」

 ぼくは呆れながら、そう言った。新採用は、本当に一から教えなくてはならない。時計を見ると、まだ14時で、次の約束まで少し時間がある。携帯で、電車の乗り換え時間などを検索していると、

「木山さん、イクメン大賞を前に取られたって、本当ですか」

 宮崎が額の汗を拭き取りながら、そう言った。太っているせいなのか、よく汗が出る。

 イクメン大賞。過去、2年だけ実施された、幻の賞だ。会長の思いつきで始まり、思いつきで終わった。噂では、企業イメージの向上を意図して始めてみたものの、他の企業もこぞってワークライフバランス向上に取り組んでいる昨今、思ったようなインパクトを社会に示せず、「会長が飽きた」という理由で終わったと言われている。

「ああ、まあね」

 苦笑いして答えたのを、宮崎は謙遜と取ったのか、

「すごいですね。過去に、二人しか取っていないっていうのに、その一人が木山さんなんて」

 同期から、イクメン王子などとネタにされたことが嫌でも思い起こされる。いったい誰が吹き込んだのか。宮崎に伝えた者が恨めしくなる。

「育休を、一ヶ月取っただけなんだよ。あとはまあ、共働きだから、保育園の送迎とか、家事を手伝ったりとか、多少したくらいで」

「いや、うちの会社、いまだに男社会で、古いじゃないですか。役付きなんて、みんな男だし。育児も、今の時代、男もやらなきゃいけないと思うんですよね」

 感心しきり、といった感じで宮崎はそう言った。

「たいしたことをしたわけじゃないんだよ。うちの会社が遅れてるから、なんだか目立ってしまっただけで」

「いやいや、そういう環境の中で、先陣を切ってやった、というのがすごいと思いますよ。自分なんか、まわりを見て、おんなじような行動しちゃいますもん」

 実際には、イクメン大賞が創設され、功名心に駆られた上司に焚きつけられ、育休を取得し、目論見通り受賞した、というのが本当のところだった。ぼくの職場は、働きやすい職場環境づくりができている、ということで、上司の評価も高まり、栄転していったのはそう昔の話でもない。そんな裏事情を新人に話すわけにもいかず、「まあ、運が良かったんだよ」などと適当に流し、「最近、調子はどう。仕事には慣れた?」と話をそらした。

「慣れたと言えば、慣れたんですけど」

 心なしか、宮崎の表情は暗い。「来月から、一人立ちじゃないですか。それが、ちょっと不安です」

 営業の新人は、6月までは見習いとして、先輩の同行をしたり研修を受けたりして仕事の基礎を身につけるが、7月からは担当地区を持たされ、ノルマも一人前に課せられる。

「前任の山本からの引継ぎは終わったの?」

「ええ、まあ」

 宮崎の表情は冴えない。「いい地区なんで、それがまた逆にプレッシャーで」

 担当地区には、当たりはずれがある。宮崎の場合、前任の山本が優秀だったので、得意先との関係もうまく構築できており、よほどへまをしない限りは、それなりの数字が稼げそうな、当たりの地区だった。正直、ぼくが受け持ちたいくらいのものだった。

「山本は確かに優秀な営業マンだったけど、気にすることはないよ。誰も、一係のエースだった山本と新人の君を比べたりしない」

 気休めにすぎないな、と思いながらそんなことを言った。宮崎もそう思っているのか、心に響いていないことは明らかだった。実際のところ、異動の内示が社内に知らされた時、係長の桐生が、「山本が企画部に引っこ抜かれた後に、新採用をあてがうなんて、人事は何を考えてるんだ」と、眉間にしわを寄せながら言っていたことを思い出さずにはいられなかった。

「ぼく、営業って柄じゃないんですよね。そんなパワーないっていうか」

 宮崎の表情がさらに曇っていく。「ノルマとか、考えただけで憂鬱です」最後は消え入りそうな声だった。

 個人の営業成績は、課の壁に、大きく貼り出されている。新規開拓案件の金額に応じて、シールを貼っていく、単純な仕組みだ。単純な仕組みだが、効果は絶大だ。互いの数字、つまりは能力が公のもとにさらされるのだ。嫌でも意識せざるを得ない。上下関係も、数字によって決定される。営業は、実力主義なのだ。先輩も後輩も関係ない。一番の古株であったとしても、数字が稼げなければ、下に見られる。新人だったとしても、成績優秀であれば、先輩からも一目置かれる。そういう世界だった。

 宮崎は、入社してこの数ヶ月で、そうした現実を目の当たりにしてきたのだ。大学でのんびり過ごしてきた身としては、完全なる競争社会の入り口に立ち、呆然としてしまっても無理からぬことだった。新人であっても、自ら望んできた者や、体育会系で熾烈な競争に免疫があったり、適性のある者は、自然と適応していくが、そうでない者も少なからずいることは事実だった。

「営業は嫌い、なのかな」

 時間を気にしながら、それを宮崎に悟られないようテーブルの下で腕時計を確認しながら、ぼくはそう言った。

「嫌いというわけじゃないんですけど、できればやりたくはないです」

 それは嫌い、とは違うのかという言葉が喉元まで出かかったが、我慢する。

「なんで、やりたくないの?」

「なんでって…」

 宮崎は、そんなことも分からないのか、といったような顔をした。

「押し売りみたいな、相手が嫌がるところを、ぐいぐい押していくようなことをしたくないからです」

「つまり君は、相手が嫌がるようなものを、売りにいくわけだ」

 宮崎は、ぎょっとしたような顔をして、「いや、そんなつもりで言ったわけじゃないんです」大げさに手を振り、否定した。

「売ることばかり、考えたらそうなるだろうね。何がなんでも売らなきゃいけない。相手が嫌がっても、なんとか売って、数字を取らなきゃって」

「でも、そうでしょう?」

「いや、売ることが大事なのはそうなんだけど、まず考えるのは、売上のことじゃない。相手のことだよ。お客さんが何を望んでいるのか、そのことをよく考える。本当によく、考えるんだ。相手が自分の両親だと思うくらいに、真剣に考える。次に、自分の商品で、お客さんのために、何ができるのかを考える。商品知識がある、というだけじゃ十分じゃない。誰よりも知り尽くして、商品に惚れてしまうんだよ。そうすれば、相手の困りごとを親身になって聞いている時に、自分が自信を持って勧められる商品を紹介したい、と自然となるから。そうなれば、結果はついてくる。営業トークとか、どうだっていいんだ。しゃべりが下手でもいい。いやむしろ、下手な方がいい。流暢なしゃべりより、朴訥なしゃべりの方が信用されるから」

 宮崎は、少し考える風だった。お手ふきをいじっていたかと思うと、顔を上げて、

「ぼくには、きれい事にしか聞こえないですね。評価されるのは、いかに相手に寄り添ったか、じゃなくて、どれだけ売ったかで、正直、売ったもん勝ちじゃないですか」

 と言った。

「まあ、そうなんだけどね」

 とぼくは言った。「ただ、ぼくは押し売りみたいなやり方には限界があると思うけどね。一回売れたとしても、後が続かない。悪い評判も流れて客も離れる。大事なのは、商品への愛と、お客さんの気持ちを考えること。それだけだよ。売上のことは、忘れろとは言わないけど、頭の片隅にしまっておく方がいい」

「商品のことを知っておくのが大事だってことは、研修でも習ったし、ぼくだって分かってますよ」

 いや、分かっていない、と思う。

「知っていたって何にもならないよ。いや、もちろん、知らなきゃ説明もできないから、それは大前提として。自分が心から信じてる、良いと思ってる、そういう熱意は、必ず人に伝わるんだよ。逆に、営業マンが、自分のところの商品を信じていないと、いくら知識が豊富でも、何か胡散臭い感じがして、説得力が出ないもんだよ」

「そういうもんですかね」

 宮崎は時計をみると、「もう、時間じゃないですか」と言った。精神論はうんざりだ、と顔に書いてある。確かに、もう出なければまずい時間になっていた。鞄を手に取ると、支払いを済ませ、喫茶店を出て地下鉄に向かう。

 宮崎と連れだって、会話もないまま歩きながら、先輩の偉そうな講釈ほど、面倒なものはないと、いつだったか自分が新人だった頃に考えたことを、思い出していた。



 美咲の保育園のお迎えは、夕方の6時半までに行かなければならないと決まっている。間に合うには、職場を5時半には出ないといけない。ぼくの会社の終業時刻は5時だが、営業はお客さんの都合に合わせて動くので、勤務時間などあってないようなものだ。以前は、仕事があろうがなかろうが、なんとなく8時くらいまでまわりに合わせて働いていたが、今はきっかり5時半までしか働かない。というより、お迎えがあるから、働けない、というのが実情だ。

 勤務時間が制限されても、ノルマが減るわけではない。常に上位をキープしていた成績も、中位にとどまるのがやっと、という状態だった。金額の少ない案件は切り捨て、大型案件で一気に稼ぐ。そんな風にして、効率的に数字を取っていかないと、とてもじゃないがノルマ達成はおぼつかなかった。

 保育園の先生に声をかけられたのは、脱線する話を何度も軌道修正して商談をまとめ上げ、時間ぎりぎりにお迎えに行った時だった。美咲の番号が書かれた布団を探し、シーツを汗だくになって引っぺがしていると、「美咲ちゃんのお父さん」と声をかけられた。

 話を聞くと、最近の美咲の様子についての報告だった。母親の死後、不安定になっていたり、一人でぼうっとしていることが多かった美咲だが、このところは、友達と話したり、遊べたりできてきている、ということだった。少しずつ、娘も立ち直ってきているのだ、と思うと、うれしいと同時に、自分ももっと頑張らなければいけないと強く思うのだった。

 保育園からの帰り道、「今日はどうだった?」と聞くと、「別にふつう」とこっちの顔を見ずに美咲は答えた。

 事故の後は、ずっとこんな調子だった。以前は、違った。もっと、いろんな話ができたし、甘えてきたりもした。あるいは、父親が嫌いという年頃なのかもしれないが、正直なところ、娘の気持ちはよく分からなかった。自分でも気づかぬうちに、腫れ物を触るような扱いになっていて、そうしたぼくの態度もまた、娘をいらだたせているようでもあった。

 信号待ちの際、危ないからと手をつなごうとする手を、美咲は巧みに外してくる。これもまた、いつものことだ。

「そっちはどうなのよ」

 と美咲が言った。最近はいつも、早足だ。ぼくと張り合おうとしているかのように。

「別にふつうだよ」

 意趣返しをしようと思ったわけでもないが、そんな言葉が自然と出た。美咲がこちらをにらみつけてくるのを感じるが、気がつかないふりをする。

「ママを殺した犯人は、見つかったの?」

 黙って横断歩道を渡りきる。以前は、ベビーカーに美咲を乗せて歩いた道。花を見つけては、取ってくれとせがんでいたことが、遠い昔のことのようだ。

「いや、まだだよ」

 とぼくは言った。「でも、探そうとはしてる」

「当てはあるの?」

「あるよ」

 と答えると、美咲は少し驚いたようだった。そんな美咲の表情を見るのは、久しぶりだった。

「誰なの、それは」

 ママの浮気相手だったかもしれない男。などと5歳児に言えるはずもない。

「まだ、決まったわけじゃないんだ。ちょっと気になることがあるっていうだけなんだ。少し、調べてみようと思っている」

 犬飼の顔が目に浮かぶ。はたして、今、どこで何をしているのか。美咲は、気になるようで、じっとこちらを見てくる。ふと、犬飼と蘭が会っている姿を、美咲が見ていたかもしれないことに思い至る。

「美咲は、見ていないかな。パパがうちにいない時、誰か男の人がママに会いにうちに来たりすることはなかったかな」

 美咲はきょとんとした顔をしている。いくらなんでも、娘の前で会ったりはしないか。我ながら、ばかなことを聞いたものだ、と思いながら、ふと横を見ると美咲がいない。後ろを振り返ると、立ち止まっている美咲がいた。駆け寄ると、ものすごい形相でぼくをにらみつけている。

「それって、何。ママが、浮気してたってこと?」

 浮気、なんて言葉が出てくることに驚く。子供だからどうせ分からないと思って探りを入れたことが、どうやらまずかったようだ。女の子はませていると言うが、いったいどこでそんな知識を仕入れたのか。

「いや、違うんだよ。全然、違う」

「何が違うの」

「そういうつもりで言ったわけじゃないんだよ」

「じゃ、どういうつもりなの」

「それは…」

 まるでぼくが浮気をしたかのような責められ方だ。5歳児にしてこの迫力、と思うと、末恐ろしくなってくる。

「ママを殺した犯人が、うちに来たんじゃないかと思って」

「犯人が?」

「そう、犯人が」

「何しに?」

「下見、とか…」

「ママを殺す下見に、ママに会いに来るわけ?」

「……」

「最低!」

 美咲のこぶしが、ぼくの太ももに直撃した。「浮気なんてするわけないじゃない! このばかっ」 反対の手で、もう一発。痛い。とても、痛い。

 美咲は走り去っていった。自宅のマンションまではもうすぐだ。急いで向かうと、入り口のオートロックのドアの前に美咲はしゃがみこんでいた。はたして、こんな時、なんて言ったらいいのか、困惑していると、

「早く開けなさいよ。お腹すいた」

 もう怒りは収まったようだった。かっとなりやすく、冷めやすいのは、蘭と同じだな、と変なところに感心をする。オートロックを解除しようとした時、夕飯の買い物に行っていなかったことに気づいて、二人でスーパーに向かう。周囲はもう、薄暗くなっていた。

「美咲は、犯人が見つかったら、どうしたいんだい」

 美咲は何も言わず、しばらく黙って歩いていた。ぼくが何か言おうと口を開きかけた時、

「やっぱり、殺してやりたい」

 と静かに言った。「ママと陽ちゃんが死んだのは、そいつのせいだから、殺したいほど憎いよ。二人の人生を返してって言いたい。自分が何をしたのか分からせて、苦しませて、同じ目にあわせてやりたい」

 ぎらぎらした眼で、美咲はそう言うのだった。

 

 

 犬飼の連絡先は、思わぬところに残っていた。蘭への恋文だ。そこに、携帯の電話番号、メールアドレス、ご丁寧に住所まで書かれている。いずれも、同期として把握していた連絡先とは異なるものだ。電話、メール、手紙…どの手段でアプローチするか、悩んだが、電話をすることにした。電話が一番、取り繕うことができず、素の反応を見られると思ったからだ。

 外回りの途中で立ち寄った公園で、犬飼に電話をかけた。鈍色の空からは今にも雨が降りそうだったが、なんとか持ちこたえていた。昼時の、遊具も少ない小さな公園には、ぼく以外誰もいなかった。

 犬飼は、3コールで出た。

「はい、犬飼です」

 番号を非通知にしているせいか、少し警戒しているような声だったが、紛れもなく犬飼の声だった。犯人かもしれない男の声を聞き、ぼくの胸は否応なしに高鳴った。

「もしもし、木山ですけど。白楊社の木山です」

 落ち着け、と自分に言い聞かせながらも、少し声が上ずってしまった。若干の間があった後、「……木山か。久しぶりだな」と犬飼は言った。注意深く聞いていたが、抑揚のない声で、感情は読み取れなかった。「どうしたんだ、急に」

 元気か、の一言もなく、要件に入る。犬飼らしい、といえば犬飼らしい反応だった。もともと、同期ではあっても、特に親しい間柄でもない。

「同期で、今度、飲むことになってね。良かったら、久しぶりに犬飼もどうかな」

 用意していた話題を振る。同期と飲むというのは嘘で、話の糸口に考えただけだった。少し、間が空いた。「それはいいね。久しぶりに、みんなに会いたいな」

 相変わらず、トーンの変わらない声。ただ、前向きな返事は予想していなかった。同期に何の連絡もなく、姿を消した男の台詞とも思えない。完全なる想定外の反応だ。

「そう。それじゃ、なんだ。みんなの都合も聞いて、また連絡するよ」

 思わず、しどろもどろになってしまった。

「よろしく頼むよ」

 と犬飼は言った。「そうそう、ちなみに、奥さんは元気かい」

 思わぬ言葉に、反応が遅れた。奥さんは元気かい? 

「……どうして、そんなことを」

 声がかすれる。

「東城 蘭さんだろう、木山の奥さんは。今は、木山 蘭さんか」

「そうだけど」

 頭が整理できない。犬飼から蘭のことに触れるとは、思っていなかった。

「木山が東城さんと結婚したことは、噂で聞いたよ」

「そう」

 会社を辞めた犬飼は、式に呼んでいない。

「おめでとう」

 と犬飼は言った。感情のこもらない声で。「だいぶ遅いけどな」自嘲的に笑った。

 結婚からだいぶ日が経っているから遅い、という意味なのか、既に蘭が亡くなっているからもう遅いという意味なのか、分からず、ぼくはさらに混乱した。

「蘭は、もういないんだよ」

 とぼくは言った。「死んだんだ」

「死んだ?」

 と犬飼は言った。「亡くなったのか?」

「亡くなったんだよ」

 とぼくは言った。「この世には、もういない」

 しばらく、沈黙があった。

「……そうか、亡くなったのか」

 と犬飼は言った。途方に暮れているような声で。演技か本音かは、分からなかった。

「いつ、亡くなったんだ」

「昨年の9月だよ」

「9月……」

 犬飼から蘭に手紙が来ていたのは、その三ヶ月前だ。

「また、連絡する」

 とぼくは言って、唐突に電話を切った。これ以上、電話越しに蘭を殺したかもしれない男と話をするのは限界だった。感情を爆発させれば、犬飼の尻尾を捕まえることはできないだろう。冷静に、対処しなければならない。そのためには、会って、顔を見て、話すことだ。電話では、感情が読めず、疑心暗鬼になるばかりだ。犬飼は、このまま逃げてしまうかもしれなかったが、ぼくの中には、彼はきっとぼくと会うだろうという確信めいた思いがあった。

 

 

 7月になり、新卒の宮崎が一人立ちすることになった。ここ数ヶ月、行動を共にしていたので、少し寂しいような気もしたが、それ以上に肩の荷が下りた、といった思いの方が強かった。一から教えることは本当に大変で、それだけにこちらも勉強になるのだが、育児中の、勤務時間が限られた身としては、かなりの重荷であったことは確かだった。

 7月も終わる頃、本社の食堂でカツ丼を食べていると、宮崎に声をかけられた。

「ここ、いいですか」

 と言って、返事をする前に座っていた。ハンバーグ定食を乗せた盆をテーブルに置くと、コップの水を一息で飲んだ。

「調子はどうだい」

 とぼくは言った。苦戦している、というのは聞いていて、アドバイスもしていたのだが、顔を見るかぎり、状況は変わっていないようだった。

「最悪です」

 と宮崎は言った。「毎日、胃が痛いです。この一ヶ月で、3キロも痩せました」

 もともとが太っているので、痩せたと言われてもよく分からなかったが、そんなことを言えるはずもなく、神妙そうに頷いてみせた。

「今日、桐生係長に、問い詰められました。この一ヶ月、まるで売り上げがないが、どういうことだって」

 桐生のいらだった神経質そうな顔が眼に浮かぶようだった。この様子では、近々、育成責任者として、ぼくの方にも矢が飛んでくるのは時間の問題だろう。

「売り上げはないとしても、見込みのある案件くらいあるんだろう。見積もりを出しているとか」

「いえ、それもないんです」

 と宮崎は言った。「個人情報のリストをどこかでなくして、トラブルになって、その対応に追われていたら、催促されていたB社の契約依頼に手がまわらなくて、放っておいたら、期限が過ぎていて、電話したら、もう他社に決めたからって…。そんなのばっかりです」

 泣きそうな声で、そう言うのだった。個人情報漏洩の件は、桐生がフォローに入り、何とか事なきを得たものだが、他の案件を放置していたとは知らなかった。しかも、B社はうちのかなり大事な取引先だ。今回の件が原因で、B社内にうちの悪い評判が立ち、もう二度と声がかからなくなってしまうことだってあり得る。非常にまずい状況だ、と思ったが、これ以上宮崎を追い詰めるのもまずいと思い、努めて平静な声で言った。

「B社の件、とりあえず係長に話して、善後策を考えようか」

「係長に、言うんですか」

 宮崎は露骨に嫌そうな顔をした。「それはちょっと…」

「嫌なのは分かるけど、悪い話ほど早く上げないと。対応が遅くなればなるほど、手遅れになるよ。トラブル対応は時間との勝負だよ」

「……分かりました。戻ったら、係長に話します」

 宮崎は、真面目な顔で、そう言った。「そろそろ、職場にもどります」

 暗い顔のまま、宮崎は立ち上がった。食欲がなさそうな顔をしていたわりに、ハンバーグ定食はきれいに平らげていた。

 遅れて職場に戻ると、宮崎の姿はもうなかった。行動予定表のボードを見ると、出張中となっている。B社の件で、係長と謝罪にでも行ったんだろう、と思っていたら、桐生は自席に座っていた。昼休憩の時間ではあるが、呑気にコーヒーなど飲んでいる。もしや、と思い、桐生に確認すると、宮崎は桐生に何も言わず出かけたことが判明した。

「何かあったのか」

 と桐生は言った。表情が険しい。勘のよい桐生のことだから、ぼくのこわばった顔を見て、何かを察知したのだろう。ぼくは手短にB社の件を伝えると、案の定、桐生は激怒した。お前の指導に問題があるからだ、と息巻いていたが、そんなことをしている場合ではないとすぐに悟り、二人で記録を調べると、前任の山本が契約までの段取りをつけていた案件で、金額も少なからぬものであることが分かった。情報をまとめ、桐生とぼくで、課長の山下のところに行って報告すると、課長の山下も顔色を変えた。取り急ぎ三人でB社に出向き、先方に揃って頭を下げ、若い担当者にネチネチと皮肉を言われたりもしたが、粘り強く謝罪し、担当を変えるということを条件に、今後も付き合いを続けてもらう、ということで話をつけてきた。

 職場に戻ると、宮崎は帰っていて、間の悪いことに隣席の女子社員と談笑しているところだった。桐生は自席に戻らずまっすぐ宮崎のもとへ行った。突然鬼の形相で駆け寄ってきた桐生に、宮崎は状況が分からず、呆然としていた。周囲が何事かと見守る中、桐生は厳しく宮崎を叱責した。宮崎は羞恥に顔を赤らめ、少し眼には涙が浮かんでいたが、ぼくの姿を眼の端にとらえると、恨めしそうに睨むのだった。


 

 犬飼が我が家を突然訪れたのは、よく晴れた日の、日曜の夕方だった。美容院で美咲の髪を切ってもらい、ついてに自分の髪も切り、夕飯の支度をしていたときだった。

「突然に来て、すまない。ちょうど、近くに用事があったものでね。この前、電話をもらったこともあって、ついふらっと寄ってみる気になったんだ」

 と犬飼は言った。用件が分からず、混乱していたが、無理に帰すのも不自然だし、話すべきことがあるのはこちらも同じだった。玄関で応対するのも何なので、リビングに通すと、犬飼は家具調の仏壇に眼をやり、たまたま気がついた、といった風に、「東城さん、亡くなったというのは本当だったんだな」と呟いた。線香を上げたい、というので、言われるがままに案内をする。両手を合わせて、しばらく、動かなかった。その背中を見ていて、犬飼は、蘭に会いにきたのだ、ということに気がついた。犬飼は振り返ると、ぼくの後ろを見て、「ああ」と小さく声を上げた。「そうか。子どもがいたんだな。こんにちは」

 見ると、リビングのドアのところに美咲がいた。一瞬、美咲の眼が大きく見開かれ、息を飲んだのが見えた。突然の来客で驚いたのだろう、顔がひどくこわばっている。数秒遅れて、「……こんにちは」とかすれた声を出した。犬飼にはいろいろと聞きたいことがあったが、美咲の前で話すのはためらわれたので、美咲に留守番を頼み近所の喫茶店に場所を変えた。

 駅前の商店街の一角にあるレトロな喫茶店は、客がいつもまばらで、妻と因縁のあるかもしれない元同期と話す場所としてはうってつけだった。夕方とはいえ日差しは強く、蒸し暑い日だったため、二人ともアイスコーヒーを頼んだ。席についても、お互いにしばらくは無言だったが、犬飼が先に口を開いた。

「しかし、本当に久しぶりだな。もう十年くらい経つんじゃないか」

「たぶんそれくらいだろうね。会社もずいぶんと変わったよ」

 犬飼が辞めてからの会社の状況をかいつまんで伝えると、犬飼は興味深そうに聞いていた。どうやら、他の同期とも接触はしていないようだった。

「犬飼が辞めた時は驚いたよ。みんな、びっくりしてた」

「だろうな。そうだと思う」

 犬飼は表情を変えずに、そう言った。アイスコーヒーが運ばれても、犬飼は口をつけなかった。よく見ると、容貌は以前とはだいぶ違っていた。かつては、いかにも仕事ができる男然として、仕立てのよいスーツを着こなして常に自信に満ちあふれてみえたものだが、今、目の前にいる男は、髭面にTシャツに短パン姿で、目にはかつての輝きはなく、下腹も出ていて、歳月がこうまで人を変えてしまうものかと思わせるに十分なものがあった。犬飼は、うつむけていた顔を上げたかと思うと、陰鬱な目をこちらに向け、

「俺が業者からリベートを取っていたことを人事部にリークしたのはお前だろう?」

 と言った。唐突な質問で、何を言われたか理解するのに少し時間がかかった。

「業者からリベート?」

 とぼくは聞き返した。

「うちと長い付き合いの、大山文具だよ。知ってるだろう。かつては会長同士が仲が良かったが、代替わりして、事業見直しプロジェクトで切られそうになっていたのを、俺が社長にお願いをして首をつないでもらった。その見返りに、リベートを取っていたという話さ」

 店内は冷房がきいていたが、なかなか汗がひかなかった。

「俺は、この話を、同期で親友だった山田にだけ、酒の席で話したことがある。ただ、あいつは信頼がおける奴だから、言うはずがない。その時、俺たちの席の背中合わせの席にいたのが、お前だ」

 犬飼は両手を組み、じっとぼくを見つめた。

「この話が人事部に漏れたと知ったとき、すぐにお前のことが頭に浮かんだよ。ただ、怪しいと思いながらも、確証がない。問い詰めるのも、みっともなくて、俺のプライドが許さなかった。それに、なぜお前がそんなことをするのか、理由が分からなかった。俺たちは同期だし、恨みを買っている覚えはなかった。正直、そんなに深い付き合いをしていたわけでもなかったしな」

 犬飼の顔は、心なしか上気しているように見えた。怒りのためか、表情にも生気が戻ってきており、かつての輝いていた頃の犬飼と重なってみえた。

「今さら、どうこう言うつもりはない。俺が辞めたのも、この話とは無関係だ。父親が死んで、家業を継ぐ必要に迫られて、辞めたっていうだけの話だ」

「……この件で、辞めたんじゃなかったのか」

 自分の声とは思えない、弱々しくかすれた声が出た。犬飼はアイスコーヒーを一口飲んだ。

「リベートを取っていたくらいでクビにはならない。俺は、俺の都合で辞めたんだ」

 犬飼は顔を歪めて自嘲的に笑った。

「十年も前の話だ。気にしてないと言ったら嘘になるが、今さらお前を責めるつもりもない。悪いことをしたのは俺なんだしな。ただ、誰が、なぜ密告したのか、というのは、心の片隅にずっとひっかかっていて、それをすっきりさせたいんだ」

 それだけ言うと、犬飼は黙った。とぼけることもできたが、今回は、蘭とのことを聞き出す必要があった。

「……ぼくだよ。ぼくが人事に言った」

 とぼくは言った。「申し訳ない。犬飼には、済まないことをしたと本当に思っている」

 それは本心だった。このことは、ぼく自身の中でも、消化しきれないしこりとなって、ずっと残っていた。長いこと蓋をして、見ないようにしてきた事実だった。

「どうして、そんなことを」

 と犬飼は言った。予想していたこととは言え、ショックがあるようだった。「俺に恨みでもあったのか?」

「恨みがあったわけじゃない。さっき犬飼が言ったように、ぼくらはもともと、そんなに深い付き合いをしていたわけじゃなかったしね」

 とぼくは言った。一度、大きく息を吸った。言わなければならない。蘭とのことを聞くためにも。「ぼくは犬飼に嫉妬していたんだ。蘭が、犬飼のものになるのを、阻止したかった」

 犬飼は驚いた顔をしていた。ぼくはテーブルの上のコースターをいじりながら、言葉が犬飼に浸透するのを待った。喫茶店の外の通りから、蝉の声だけが聞こえた。

 うーん、と犬飼はうなると、腕組みをして、難しい顔をしていた。何事か、考えているようだった。

「蘭と犬飼が付き合っている、という噂も当時はあった」

 あまり聞きたくはない話だ。だが、進まなければならない。付き合っていたかはともかく、二人はよい関係にあって、それが犬飼の突然の退職により崩れた、というのがぼくの見立てだった。ぼくの密告により、犬飼は出世レースからも、蘭の争奪戦からも脱落し、敗北者として姿を消したと、ずっとぼくは信じてきた。心の奥底に密告の事実を封印し、幾重にも蓋をし、まるでなかったことのようにしてきた。たまに、ふとした弾みで蓋が開きそうになると、必死で押さえたものだ。年月とともに、蓋が動くこともなくなり、何もなかったと、自分でも思いそうになるほどだった。ただ、蘭は本当は犬飼のことが好きだったのではないか、失脚したからぼくを選んだのではないか、という思いは消えずにずっとぼくの中に残っていた。そうした思いがあるから、犬飼のように仕事ができる男になって成功しなければならない、うだつが上がらない中年男になると捨てられるという恐れがあって、がむしゃらに働いてきたのだ。

 うーん、とまた犬飼がうなった。言うべき言葉の塊を、頭の中でこねくり回しているようだった。

「俺と東城さんは、当時、付き合っていた」

 申し訳なさそうな顔をして、犬飼は言った。「お前には、あまり言うべきじゃないかもしれないが」

 予想していたこととは言え、その事実は、ぼくをうろたえさせるのに十分な衝撃を持っていた。犬飼は、路上で死んだ蝉でも見るような眼で、黙ってぼくを見ていた。

「でも、俺たちは別れて、東城さんはお前と結婚をした」

 ぼくは黙っていた。犬飼の退職が自ら望んだものであり、失脚ではなかったとすれば、なぜ二人は別れたのか。気にはなったが、聞くことはさすがにためらわれた。

「俺たちは別れるべきじゃなかった」

 犬飼は沈んだ声でそう言った。この男は、まだ蘭を愛しているのだと思った。本題に入らなければならない。

「手紙が出てきたんだ」

 とぼくは言った。

「手紙?」

「そう。犬飼が蘭に出した手紙だよ。悪いが中身は見させてもらった。君は、ぼくらが結婚した後も、蘭と会っていたのか?」

 とぼくは言った。パンドラの箱を開けようとしている。これから飛び出す事実に脅えながらも、真相を知らなくてはならないという思いの方が強かった。

 うーん、と犬飼はまたうなった。腕組みをして、天井を仰いだ。まるでそこに答えるべき正解の言葉が書いてあるとでも言うように。もちろんそこには、言葉なんて書かれてはいない。年季の入った格子天井があるだけだ。店内にはぼくらの他に老夫婦と思われる一組がいるだけで、静かだった。

「故人を中傷するようなことは言いたくない」

 と犬飼は言った。その言葉の意味するところを理解し、呆然とするぼくとは目を合わせずに、そそくさと犬飼は立ち上がった。

「用事があって、もう行かなきゃいけない。今日は会えてよかった。これからも、何かあったら、ここに連絡してくれ」

 と言って、名刺を置いて出て行ってしまった。後ろも振り向かずに。

 名刺には、「ピッタリハウス株式会社 代表取締役社長 犬飼 毅」と書いてあった。ラフな服装と、過去の経緯から勝手に落ちぶれたものと思い込んでいたが、どうやらそうではないようだった。下腹が出ているのも、みっともないという印象だったが、社長という肩書きを見ると、貫禄に思えてくるから不思議だった。犬飼には電話をしているから、ぼくが彼の番号を知っていることは理解しているはずで、名刺を渡す必要なんかないわけで、あえて渡したのは、成功した自分を見せつけたいからだろう、とぼくは思った。そうしてまた、「下」にいると思っていた犬飼が、実は「上」にいたことに、少なからぬショックを受けている自分がいることもまた事実だった。蘭は、仕事ができる男が好きだったはずで、大成した犬飼は魅力があったはずだ。二人はずっと、ぼくに隠れて会っていたのだろうか。だったら、なぜ蘭は犬飼を選ばず、ぼくと結婚をしたのか。跡継ぎとして成功が約束されている、犬飼の方が魅力があったはずで、密会なんかせず、犬飼と結婚すれば良かったのではないか。……

 うーん、と今度はぼくがうなった。新しく判明した事実が、ぼくの心を大きく揺さぶり、その揺れは収まるどころか、どんどん大きくなっていくようだった。



 家に帰ると、美咲はソファに寝そべって子供用のアニメを見ていた。遅くなったことを詫び、急いで夕食をつくる。酢豚をつくっている最中に、犬飼の突然の来訪があったため、料理を中断せざるを得なかったが、ほとんどできていたので、火を通して温めるだけでよかった。食器の用意などをしているとき、ふと視線を感じて振り返ると、美咲が側に来て、じっとこちらを見ていた。

「さっきの人、誰?」

 と美咲は言った。なんと説明をしたものか迷ったが、

「パパの会社の人だよ」

 とぼくは言った。フライパンから皿に盛りつけ、コップに水をそそぐ。美咲はそれで戻るかと思いきや、

「何しに来たの?」

 と言った。見知らぬ男が急に来て、父親が慌てて出て行ったのだから、不安になるのも無理はない。

「ちょっと、仕事の話でね。トラブルがあって。もう片付いたから、美咲は心配しなくても大丈夫だよ」

 リビングに料理を運び、向かい合って座る。美咲の表情は硬いままだ。気の強い美咲だが、案外臆病なところもあるんだと思うと、ほほえましくもあった。一人で留守番をすることなんてあまりないし、よほど不安だったのだろう。

「そんなに心配することはないよ。でも、遅くなったのは、パパが悪かった。今日は一緒の布団で寝るか?」

「それは結構です」

 間髪入れず、断られてしまった。美咲はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、時間も遅かったので、食事を終えるとすぐに寝かしつけをした。

 ベッドに入ってから、犬飼との話を改めて考えてみる。

 ぼく自身の思い違いが明らかになり、更新された事実がいくつかあった。密告が犬飼の退職の原因ではないことが判明し、犬飼への罪悪感は薄れたが、代わりに、蘭の浮気疑惑という厄介なものを背負う羽目になってしまった。そう思って振り返ると、蘭が夜中に遊びに出かけたり、休日に終日家を空けたりしたことが思い起こされた。風呂に入る時は、いつも携帯電話を手放さなかった。怪しい行動はないわけでなかったのだ。ただ、ぼくは、自分の妻がそのようなことをするはずがないと安心しきっていて、まったく警戒をしていなかった。

 犬飼が、痴情のもつれで、蘭を殺したのだろうか。

 蘭の浮気という思わぬ爆弾が飛び出してきたため、動揺してしまい、まったく確認ができなかった。ただ、ぼくの心証としては、犬飼は犯人ではないような気がした。犯人だとすれば、ぼくとの接触は極力避けるだろうし、仮に会ったとしても、不倫関係にあったことを匂わすような発言はしないだろう。犬飼は頭のいい男だ。墓穴を掘るような真似はしないだろう。おそらく犯人ではないだろうが、浮気をしていた可能性は、ある。

 犬飼と蘭。二人は、どういう関係だったのだろうか。蘭は、なぜ犬飼と別れて、ぼくと結婚し、犬飼と不倫をしていたのか。意味が分からない。犬飼と結婚していれば良かったではないか。ぼくを間に挟む意味が、まるで分からない。……

 その夜、犬飼と蘭、そして美咲が仲睦まじげに歩いているのを、遠くから石像のようになって、黙って見ているだけの夢を見た。



 美咲の浮気疑惑。妻が不貞を働く、ということを、これまでぼくは全く考えたことがなかった。それは、空から星が落ちて来ないのと同じくらい当然のこととして、可能性ゼロの事柄に分類されていた。だから、事実かどうか分からないとしても、浮気疑惑が持ち上がったというその事実が、ぼくを激しく揺さぶっていた。

 その日は、熊谷市で40度を超える猛暑日だった。いろいろと考えた結果、ぼくは仕事を休み、犬飼のところに行くことにした。美咲は保育園に預けた。ともかく、当事者に直接話を聞かないことには何も分からない。そして、その当事者は、今や犬飼一人しか、この世に存在しないのだ。あれから何度か、犬飼の携帯に電話をかけたが、まるで繋がらない。犬飼としては、これ以上もうぼくと話すことはない、ということなのかもしれなかったが、犬飼になくとも、ぼくにはある。であれば、直接出向いて聞くしかない、と考えたのだった。

 犬飼が社長を務めるピッタリハウス株式会社は、横浜スタジアムの近くにあった。商業ビルの1階に店舗を構えていた。地域密着の、町の不動産屋、といった印象で、さほど大きな店でないことに安堵する。「社長」とは言え、小さな店ならアポなしでも店にいて、話くらいはできるだろう。

 中に入ると店内は狭く、カウンターの奥にはパソコンに向かっている中年の女性と犬飼しかいなかった。営業スマイルで出てきた犬飼の顔が、ぼくの顔を見てこわばるのが見てとれた。それでも、すぐに態勢を立て直し、「いらっしゃいませ」と笑顔で言ったのはさすがだった。案内された席に座る。

「今日はどのようなご用件でしょうか」

 まるでぼくだと分かっていないかのような口ぶりだった。室内にいるのが犬飼だけであればよいのだが、お茶の用意をはじめた女性の従業員の手前、単刀直入に用件を切り出すことはためらわれた。

「先日の件なんですけどね」

 とぼくは言った。女性従業員がカウンターにお茶を置き、ぼくは軽く頭を下げた。彼女は再びパソコンのところに戻っていったが、聞き耳を立てているのは明らかだった。

「先日の件、と言いますと」

 犬飼は、あくまでとぼけるつもりなのかもしれなかった。

「年数も経っているし、先日おっしゃっていた話、何かの間違いなんじゃないかと」

 とぼくは言った。犬飼は渋い顔をして、腕を組んだ。何をどう言ったものか、思案しているようだった。

「まぁ、そう思うのも無理はないでしょう」

 と犬飼は言った。「おっしゃるとおり、年数も経っています。そのように思われても、仕方がないと思います」

 やはりと言うべきか、犬飼は浮気を否定しなかった。二人が愛し合う場面が頭をよぎり、身体中の血が一気に沸騰するような感覚があったが、呼吸を整え、必死にマグマが吹き出すのを押さえ込む。

「あの文書は、無効だったと思います」

 努めて冷静に、ぼくは言った。犬飼が出した恋文のことだ。蘭は、浮気をしていたかもしれないが、犬飼の恋文は無視をし、最後のところでは踏みとどまったはずだった。

「あの文書?」

「あなたが作成した文書です」

 犬飼の眼に動揺が走ったのが見て取れた。

「ああ、あれですか」

 と犬飼は言った。少し声が震えている。

「あれはそう、確かに無効でした」 

 犬飼の額に汗が光っている。室内は冷房が効いており、暑くはない。そわそわとして、明らかに落ち着きを失っている。なんでこんな男と。二人が愛し合う場面がまた、フラッシュバックする。沸騰した血が全身を駆け巡る。

「……だから、消したんですか」

 とぼくは言った。

「消した?」

 犬飼は、意味が分からない、という顔をしている。

「そうだ。お前が、浮気をして、うまくいかなくなって、蘭を殺したんじゃないのか」

 理性の蓋が消し飛び、怒りが全身を熱くする。犬飼は、呆然とした顔をして、口をぱくぱくとさせている。従業員の女性が、何事かとこちらを見た。

「……俺が、殺した、だって?」

 犬飼の顔が見る見る赤く染まっていく。「ふざけるのも大概にしろ」

 怒りを押し殺しているのか、声がふるえている。

「ふざけているのは、そっちだろう。警察も動いている。自首するのなら、今のうちだぞ」

「お前、本気で言っているのか」

 犬飼の眼が血走っている。

「お前の出したラブレターも、警察に提出してやる」

「……この野郎!」

 犬飼が叫んで立ち上がり、ぼくの胸ぐらをつかんだ。従業員の女性が悲鳴を上げて、どこかに電話をかけている。警察かもしれなかった。

 ぼくは立ち上がると、犬飼を力任せに突き飛ばし、店を出た。犬飼の怒声が聞こえてきたが、早足にその場を後にした。電車に乗り、家に帰り着いても、しばらくは動悸が治まらなかった。


 

 冷静になって、考えてみる。

蘭と犬飼は、昔、付き合っていた。

 蘭とぼくが結婚した後も、二人は付き合いを続けていた。

 二人は別れたが、犬飼がしつこく恋文を出すなどしてつきまとい、蘭を殺した?

 ただ、分からない点もある。なぜ蘭は犬飼と結婚せず、ぼくと結婚したのか。犬飼が犯人だとすると、どうやって蘭を殺したのか。考えてみても、分からないことばかりだ。

 手がかりは、当事者である、蘭と犬飼の二人だ。犬飼には、これ以上証拠もなしに当たるのは無理だろう。お互いに頭に血を上らせるのが関の山だ。となると、あとは、蘭だ。そもそも、蘭の部屋で、犬飼の恋文を見つけたのだ。蘭の周辺を探せば、何かヒントが出てくるかもしれない。

 そう思い立ち、蘭の部屋の前に来た時だった。気配を感じて、振り返ると、寝かしつけたはずの美咲が廊下に立っていた。美咲は一度寝ると、滅多なことでは起きない。夜の十時に起きているのは、珍しいことだった。

「パパ、何をしているの?」

 と美咲は言った。

「ちょっと、探し物をね」

 隠しても仕方がない。最近の美咲は、勘が鋭くて、嘘をついてもすぐ見抜いてしまう。下手な嘘をつくより、正直に話した方がよい。

「何を探しているの?」

「あれだよ。美咲から頼まれていた、ママに関することだよ」

 美咲はじっとぼくを見ている。

「まだ、浮気相手のことを探っているの?」

 美咲の眼が鋭くなる。

「いや、ちがう」

 とぼくは言った。違うわけではないが、母親が浮気をしていて、その相手から逆恨みされて殺されたかもしれない、などと言えるわけがない。「犯人かもしれない男がいてね。手がかりを探しているんだ」

「犯人?」

 と美咲は言った。「誰が犯人なの?」

「犬飼毅という男だよ。こないだ、うちに来ていた男。まだ、決まったわけじゃないけれど」

 美咲の目が大きく見開かれた。「……そう、その人が犯人かもしれないんだ。証拠でもあるの?」

「証拠はない。でも、今日会ってみて、可能性はあると思うんだ」

「今日また会ったの? 犬飼と?」

「ああ、会いに行ったんだ。言い合いになって、ひと悶着あったよ」

 美咲が心配そうな顔をしている。殺人犯かもしれない男と会ってきた、と言われれば、心配になるのも無理はない。ぼくまで殺されれば、美咲は一人になってしまうのだ。

「心配しなくても大丈夫だよ。店の中で会ったから。危ないことはしないよ」

 美咲は何事か考えているようだった。

「警察にも話そうかと思うんだ。相手にしてもらえないとは思うけど、一応ね」

「え、警察に言うの?」

 美咲は動揺しているようだった。「それは、ちょっと、どうかしらね」

「まぁ、あまり意味はないかもしれないけど、やれることはやっておこうかと」

「意味がないと思うし、やめた方がいいと思う」

 美咲はきっぱりと言った。

「いや、しかし…」

「警察がその男を調べたら、その男が怒って、パパに何か悪さをするかもしれないじゃない。そうよ、そうだわ。危険だと思う」

 と美咲は早口で言った。

「それはまぁ、そうかもしれないけれど」

「危ないことはしないで」

 美咲の心配する気持ちも分からないではないが、なんだか、納得のいかない話だった。そもそも、犯人捜しを頼んできたのは美咲なのだ。

「いや、でも犯人を探すためには、」

「犯人は探してほしいけど……そういうことじゃないのよ」

 美咲はいらだたしそうに言うのだった。



12月になって急な寒い日があり、身体が冷えたせいか、美咲が高熱を出した。医者に連れていくと、インフルエンザにかかっていた。一週間、仕事を休まざるを得なくなった。熱はわりとすぐに引いたのだが、周囲に感染させるリスクがあるため、家で安静にする必要があった。こういう時、親が一人しかいないと苦労する。二人いれば、交代で休めばよいが、一人しかいないと全て自分で対応する他ない。休んだ一週間、自分がやるはずだった仕事を、誰かに割り振らなければならない。後回しでよい仕事は放置するが、それでも自分一人で完結し締め切りもない仕事など少なく、大半の仕事は取引先などの相手方がいて、スケジュールが決まって動いている。自分が抜けた穴は、誰かが埋めなくてはならない。

 係長の桐生は独身貴族で、こうしたことに全く理解がない。仕事が趣味のような男で、出世欲の塊であり、部下は自分の目標を達成する道具くらいにしか思っていない。そのため、予定通り仕事が進まないと、それがどんな理由であれ、苛立ち、憎々しげな態度をとる。パワハラ、と言われることを警戒しているのか、露骨に言葉にこそしないが、しかめ面をして舌打ちをしたりする。今回、一週間の休みを電話で申請したときも、「この忙しいときに」と言って、盛大にため息をつかれた。ワークライフバランス、などと会社は言うが、まったくの建前で、特に中年以上の男性社員の意識は何も変わっていないと思う。

 一週間休んだ後、職場に戻り、桐生や仕事を割り振った係のメンバーに謝罪をした。桐生には、ネチネチと嫌味を言われるかと思っていたが、「ここから挽回しろよ」の一言しかなく、目すら合わせなかったのが逆に不気味だった。他の職員は「お互い様だから」と言ってくれるが、今のところ、迷惑をかける一方なので肩身が狭い。

 自分の代わりにやってもらった業務の引継ぎを済ませたあと、通常の業務に戻ったのだが、1件、ある大企業のレイアウト変更に関する案件の資料がなくなっていた。まわりに確認をすると、先方から電話があって、宮崎が対応していたと言う。宮崎、と聞いて、先日、恨めしそうにぼくを睨んでいた目つきを思い出し、なんだか嫌な予感がした。宮崎は外回りで出ていたが、夕方、帰ってきたところを捕まえることができた。

「なんですか、話って」

 ぼくの姿を見つけると、反転してまた外に出ようとするのを無理やり捕まえて、休憩室に押し込んだのだった。「またすぐ行かなきゃなんですけど」

「P社の件、どうなってる?」

「P社の件?」

 と宮崎は言った。目が泳いでいる。

「おい。とぼけるなよ。先方から電話を受けて、お前が資料を持ち出したことは分かってるんだ」

「ああ、そのことですか」

 宮崎は自販機のところに行き、缶コーヒーを買った。ガタン、という音が二人しかいない空間に響く。

「契約しました」

「は?」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

「来月契約の予定だったんですよね。ただ、今月、うちの係の実績が厳しいみたいで、係長からなんでもいいから数字を取ってこいと言われて。でないと、お前はクビだとか言うもんだから。だから、」

「だから、契約を前倒ししたと」

「係長の了解は取りました。ぼくは、どうかと思ったんですけど、係長が契約をしろと言うもんですから」

 電気をつけていない部屋の中は、薄暗く、宮崎の表情はよく見えない。夕陽が差し込んだ部分だけが紅色に染まっていた。

「ぼくが稟議を上げたので、ぼくの契約になりました」

 缶コーヒーを飲みながら、宮崎は早口でそう言った。「初契約が、億を超えましたよ。新人の最高記録みたいです」そう言って、ははは、と乾いた笑い声を上げた。

「係長も、喜んでくれました。よくやったと。これからもこの調子でがんばれと。この間は、木山先輩のせいで、滅茶苦茶怒られましたけど、まぁ、今回のこれで、帳消しってことですかね」

「お前、」

「あ、いけない。約束があるんでした。すみませんが、もう出ます」

 宮崎は時計を見ると、慌てて缶コーヒーを捨て、部屋を出て行った。

 そういえば、今月は12月だったな、とぼくは思った。今年の営業実績の締めの月だ。P社の案件が、来年の実績に乗るか、今年の実績に乗るかの違いは大きい。桐生は今のポストについて4年になる。4月には異動だろう。その手土産として、今年の営業実績は良いに越したことはない。12月で締めて、人事の査定をし、それを踏まえて異動・昇進が決まるのだ。来年にまわせば、次の後任者の手柄となる。それは避けたかったのだろう。先方のスケジュールなどお構いなしで、多少の値引き等の餌をぶら下げて交渉に当たったであろうことは想像に難くない。

 一年近くかけて取り組んできた仕事を横取りされ、宮崎に腹も立ったが、思ったほどではなかった。桐生がかんでいたのだ。宮崎一人が悪いわけではない。それに、この案件がぼくの案件であることはみんなが知っており、それを新人がかすめ取ったとなれば、悪評も立ち、仕事もやりにくくなるだろう。初めての案件が、こんなやり方でいいはずがなかった。自信にもなりはしないだろう。強引に数字を上げて、後には草一本生えない、という営業スタイルもあるが、宮崎がそういうやり方になじめるとは到底思えなかった。

怒りが沸いてくる、というより、ただ空しかった。力が抜けてしまって、側にある椅子に座り、しばらくの間、動けなかった。

 


 美咲が寝ているときに、蘭の部屋で、日記を見つけた。やはり、犬飼とのことが引っかかっていて、何度か、蘭の部屋を物色しているときに、カーペットの下から偶然見つけたのだった。これを開くことで、蘭の浮気が確定し、さらにダメージを受けることも考えられたが、真実が分からず悶々として思い悩むよりは、いっそ、浮気をしていた、と事実を確定させてしまった方が、気が楽になるような気がした。ページをめくることにためらいはなかった。ノートの表紙には、「平成二十二年四月~」とだけ書いてあった。気になったところだけ、飛ばし読みをする。

 

平成二十二年四月一日

 就職をする。本命の会社でも、第二、第三希望の会社でもなかったが、氷河期なのでよしとする。同期は十七名。研修中、ずっと一緒だったので、みんな仲良くなる。


四月二十日

 彼氏と別れる。就職浪人なんて、するものじゃない。無職という立場がそうさせるのか、卑屈になったり、横暴になったりする健斗を見るのはつらかった。一緒に就職できていれば、違ったのだろうか。分からない。


五月一日

 広報課に配属。忙しい。一人二役、三役。意地悪な女の先輩がいる。この女より、私の方が若くてきれいだから、気にいらないのだろう。それを見て、おじさんたちが私に優しくするのが、さらに癪に障るのだろう。面倒なので、まともに取り合わないようにする。


八月十日

 秘書課の犬飼と寝る。あー、最悪。また悪い癖が出た。だから酒はだめなんだ。


十月二十九日

 犬飼がしつこい。俺たちは付き合ってるはずだとかなんとか。一度寝たくらいで、彼氏気取りか。いやマジでしつこい。総務課の三井が、わたしたちの仲を疑っていて、探りを入れてくる。

「犬飼さん、東城さんのこと、好きなんじゃないですかぁ?」

「えー、そんなことないと思うけど」

「だって、通りかかるとき、なんか、じっと見てますよ」

「一度寝てから、つけ回してくるんだよね。マジキモいから、死んでほしい」

 なんて、言えるわけがない!


十二月五日

 犬飼問題。目つきがやばい。最初からこんな眼だったか? そうではない気がする。こじれても嫌だから、冷たくせずにあいまいに距離を取っていたのがよくなかったのだろうか。逆上して、寝たことを言いふらされるのも嫌だ。いったいどうすりゃいいんだ。


一月十八日

 営業にかわいい子発見。なんとなく、前から気になっていたのだが、上司に叱られて、しょんぼりしている姿を見て、つい話しかけてしまった。なんというか、母性本能をくすぐられる。(わたしにそんなものがあったのか?) 自慢ばかりする、俺様の犬飼とは大違い。断り切れず、こないだ、食事に行ってしまった。よくない。どうしたら断ち切れるのか。


二月五日

 玄関の下に手紙。犬飼からだ。なぜ家を知っている? 本格的に気味が悪い。いつ入れたんだろう。帰ってきたときにはなかった。気持ち悪すぎて吐き気がする。


三月四日

 休日に、布団を干しているとき、電信柱の影に犬飼発見。嘘だろ? と思い、二度見したが、間違いない。眼が合った気がする。そしてまた、玄関の下に手紙が。


三月十日

 警察に相談する。手紙を提出。ストーカー規制法に基づき、接近禁止命令を出してもらう。職場の上司にも相談する。職場での犬飼は品行方正、秘書課のエリート社員と目されてたから、上司も驚いていて、にわかには信じられない様子だった。


三月三十日

 犬飼が懲戒処分となり、停職になるらしいと上司に聞く。大ごとになってしまった。報復が怖い。


平成二十三年四月十日

 犬飼が辞職した。これで職場で顔を見ずにすむ。ほっとする反面、不安もある。このまま終わればよいのだが。


七月二十日

 ここ数ヶ月、犬飼からの動きはない。もう、大丈夫だろう。良かった。本当に。


八月一日

 気になっていた、例のかわいい子から、食事に誘われる。やった! 職場の通路で顔を合わせれば、雑談するくらいの関係にはなっていたが、なかなか誘って来なかった。思い切って、有名イタリアンの話題を振って、今度、一緒に行きましょうよ、とまで言った甲斐があったというものだ。ほとんど私が誘ったようなものだが、社交辞令みたいな台詞だし、ちゃんと誘ったのは向こうなのだから、私からは誘っていない、と思うことにする。


十一月十一日

 木山くんと付き合う。デート10回目にしてようやく。遅いぞ、木山! でもよくやった。


十二月五日

 初旅行。箱根。満夫との初体験。無理なく、一緒にいられる、居心地のよさ。性格は対照的だけれど、ぶつかり合うわけではなく、新鮮な刺激となっている。この人の前でなら、気取らずに、素の自分でいられる。おならだってできる。(してないけど) こういう人を、ずっと、私は探していたんだ。


平成二十八年五月三日

 プロポーズされる。何度も急かして待っていたくせに、急にするもんだから、驚いてしまった。街中の階段でするか、フツー。そうか、私、結婚するのか。


平成三十年十月五日

 美咲が産まれる。もう1か月が経つ。眠れない日が続く。


十月十五日

 とにかく夜泣きがひどい。2時間ごとに泣くから、眠れない。慢性的な睡眠不足で、頭がどうにかなりそうだ。

 

十月二十二日

 眠りたい。いらいらして、ちょっとしたことに怒ってしまう。私が神経質に怒鳴り散らすのを、満夫は産後うつだと言う。産後うつだとして、だからなんなんだ。なんでお前は別の部屋でぐっすり寝ているんだ。


十一月十三日

 育児休暇を取っているから、育児は妻の仕事。それはそうかもしれないが、だからといって、全て妻の仕事なのか? 昼間、満夫が働いている時間は、分かる。その時間は、育児担当はわたし。それは分かる。だが、仕事を終えて帰ってきて、満夫がくつろいでいる時間、ゲームしている時間、育児は協力してやるべきではないか。寝かしつけもわたし、夜泣きの対応もわたし。俺は明日仕事があるから。眠れないと差し支えるから。蘭は、昼間寝ればいいだろと言う。美咲は昼寝をほとんどしないのに、どうやって寝ろというのか。そういえば、実家の父と母も、同じような役割分担をしていた。パートとはいえ、共働きなのに、家事全般は全て母がやっていた。そういう姿を見てきているから、私の中にも、家事育児は女がやるもの、という意識が潜んでいるのだろう、満夫に強く反論できずにいて、助けを求められない。助け? そうだ。私は助けてほしいのだ。ちょっとしたことでいらいらして、ものすごく沸点が低くなっている。美咲の夜泣きがひどくて、何時間も抱っこした後、寝たようなので、慎重にそうっと布団に置いたら、ぎゃん泣きされたときの絶望。にらみつけて、ふざけんなよ! いい加減にしろよ!と叫んで、ベビーベッドを蹴飛ばしてしまった。美咲の顔をつねる寸前だった。正直、よく思いとどまったと思う。虐待する人の気持ちが、私には痛いほど分かる。


十一月二十日

 日曜日、満夫は高校時代の仲間とフットサルをしに行った。出産前後は控えていたようだが、最近、もとの生活に戻っている。家に帰れば、スマホゲームをしている。満夫に言わせれば、仕事のストレスがあるから、発散しないとだめなんだ、とのこと。大変なんだよ。分かるだろ、蘭も働いていたんだから。息抜きしないと、持たないんだ。蘭は、家で一日、ゆっくりできるからいいよな。家にいるときくらい、休ませてくれよ。

 手のかかる子供を押しつけてまで出かけるほど、そんなに球蹴りが大事なのか。お前の玉を蹴り上げてやろうか。などと、思っても、言わない。何度も、育児は協力して、一緒にやろうと話をしたが、まるで話が通じない。宇宙人か、と思うくらいの通じなさだ。そのうちに、思いを伝えることに疲れてしまった。蘭は文句ばかりだな。疲れてるんじゃないか。一時保育で預けたりして、レスパイトケアが必要なんじゃないか。美咲を預けて、今度、一緒にうまいものでも食べに行こう。気分転換になるよ。……妻に休息が必要と分かってはいても、その重荷を自分で背負おうという発想がない。ピントのずれたことばかり言うし、そのピントを修正しようとすると、それは蘭の仕事だろ。とうっとうしそうにして、理解しようとしない。あまり言うと、職場の誰それさんはどうだとか、自分の母親はこうだとか、苛立ちを増幅させるようなことを言い募る。疲れた。本当に、疲れた。ワンオペの育児がこんなに大変だとは。


十二月二十二日

 満夫が会社でイクメン大賞を受賞する。何かの悪い冗談としか思えない。本人は、満更でもないご様子。子供を風呂に入れたり、公園に連れて行ったり、オムツ(小の時だけ)を代えたりはしていた。俺もけっこう育児を手伝っていたからな。と言って、どや顔をしている。良かったね、と言ってやった。もうどうでもいい。もはや、怒る気力すら沸いてこない。


令和二年五月一日

 仕事に復帰する。保育園が見つかって、本当に良かった。正直、仕事をしている方が楽だと思う。社会から断絶された、閉鎖空間で、赤子と朝から晩まで二人きり、というのは、かなり精神的に滅入るものがある。仕事をして、誰かと話をして、認められる。そのことが、どれだけ大切なことか、よく分かった。人によるのだろうが、私にはダメだ。向いていない。


七月二日

 なぜ、共働きなのに、家事育児の分担は、半分ずつではないのだろう。おかしくないか。時短勤務だから、その分、家事をやってもらわないと、と満夫は言うが、ちょっと待て。家事をやるために、時短にしているんだろうが。じゃあ、お前が時短を取れ。時短を取って、家事をしろ。喉元まで、出かかる言葉。でも、言わない。これまでの経験から、言ったところで、無駄なことは分かっている。


九月四日

 二人目を妊娠。


六月三日

 犬飼から手紙。もうあれから何年も経っているというのに、どういうつもりなのか。気味の悪いことに、消印がない。手でポストに投函している。独身の頃とは住所が違っているのに、なぜここが分かったのか。破り捨ててしまいたいが、証拠品として役に立つ日が来るかもしれないと思い直す。とりあえず、放っておこう。何かの気まぐれだと思いたい。こっちはそれどころではないのだ。


七月二十日

 陽介が産まれる。昨日、家に帰ってきた。


七月三十日

 夜泣きがひどい。眠れない日が続く。夜、立ち抱っこで3時間、寝かしつけをした日は、さすがに腰が砕けて死ぬかと思った。


八月二日

 眠い。日中、もうろうとした状態で過ごしている。気がつくと意識が飛んでいる。


八月五日

 陽介の世話に加えて、美咲の世話もしなければならない。どんなに眠くても、保育園の送迎は、行かなければならない。二人目の方が大変だ。とにかく、眠れないのがつらい。一晩でいい。ぐっすり寝たい。かわってほしいと言っても、満夫はぜっっったいに対応しない。眠らないと、体調を崩す性分で、大事なお仕事に差し支えるとのこと。


八月十日

 5日、ほとんど、寝ていない。さすがにやばい。頭が働かない。ふらふらだ。化粧もろくにせずに美咲の送迎に行く。まわりの母親が、ぎょっとした顔で私を見ていた。鏡を見たら、眼に隈ができていて、髪がぼさぼさな上、服には陽介の吐いたミルクがこびりついていた。


八月二十九日

 陽介が泣く。私も泣く。助けを求めて、二人で泣いている。


九月三日

 もう限界。もう無理。わたしにはもうできない。


九月五日

 実家の母が、心配して、いったん、帰ってこいと言う。なぜ、私の窮状を知っているのか。号泣して、電話したような気がしなくもない。夢ではなかったのか。最近、あまりにも寝ていないせいか、夢か現実なのか、正直よく分からない。実家には、出戻りの姉がいて、戻りたくはないが、そうも言っていられない。もはや、ここまでだ。私が持たない。帰ろう、うちへ。もう、私にはできない。何もできない。



 日記はここで終わっている。最後の日付は、蘭が実家に帰ろうとして、交通事故を起こした日だった。

 いろいろと、ぼくが知らない事実があった。犬飼の話と、蘭の話は食い違うが、おそらく蘭の話が正しいのだろう。蘭は浮気をしておらず、犬飼がストーカーまがいのことをしていた、というのが真相だろう。そのことに安堵するとともに、過去に二人が一線を越えていた、というくだりには、少なからず傷ついた自分もいた。また、育児と家事の負担について、ここまで蘭が思い悩んでいたとは知らなかった。言い合いになったことは、確かに何度かあったが、ここしばらくはなかったはずだ。ただ、日記の話によれば、それは蘭がぼくに話しても無駄だと思ったからで、不満が解消されたわけでは全くなかったわけだ。ぼくは、蘭が幸せだと思っていた。陽介の産後は不安定だったが、産後はホルモンバランスが崩れるので、そういうものだと思っていたし、ぼくも仕事が激務の時期に当たっており、正直、蘭のことに気を向ける余裕もなかったのだ。ぼくは、対応を間違えたのだろうか。家族のために、もっと気を配り、やるべきことがあったのだろうか。……

「しかし、蘭を殺した犯人は、結局、分からなかったな」

 とぼくは呟いた。時計を見ると、もう0時をまわろうとしていた。眠らないといけない、とぼくは思った。明日も仕事で、早く起きなければいけないのだから。



 桐生から、別室に呼ばれた。使われていない会議室の電気をつけ、向かい合わせに座る。暖房がきいていないから、肌寒い。

「今日はいやに冷えるな」

 と桐生は言った。桐生に呼ばれた時点で、あまりいい話ではないな、という予感はしていたが、切り出しにくそうにしている姿を見ると、予感は確信に変わった。

「最近、子どもの世話はどうだ」

「まだ小さいので、手がかかりますね」

 とぼくは言った。桐生は興味なさそうに、頷いた。

「営業は、就業時間が不規則だ。相手方があっての仕事だからな。急な呼び出しや、相手に合わせて時間外の打ち合わせも多い」

「そうですね」

 声がかすれた。そういうことか、と思った。

「一人での子育ては、営業ではきついだろう。俺たちは、ノルマをこなしてナンボだが、うちの係で昨年の目標未達はお前だけだった」

「……はい」

 美咲のインフルエンザによる、年末の長期休暇が響き、ぎりぎり未達となってしまった。勤務時間が限られるため、営業先を絞り込み、ノルマ達成の最低ラインをクリアする実績を確保していたが、こうした不測の事態は正直想定していなかった。宮崎にかすめ取られなければ、大型案件を抱えていることをアピールできるはずだったが、今となってはそれもない。

「4月からは総務だ」

 こちらの顔を見ずに、桐生は言った。「再雇用の田島さんが退職するから、その後釜だな。在庫品の管理が主だから、仕事の負担は大幅に軽くなる。定時で帰れるし、育児もしやすくなるだろう」

 まるで、お前のための異動だと言わんばかりだ。お荷物を厄介払いできて、せいせいする、といった思いが表情の端々に表われている。

「……田島さんの後任、ですか」

 声がふるえた。屈辱で顔が赤くなる。まさか倉庫係とは。これ以上ないほどの閑職だ。再雇用の仕事をあてがわれるとは、想定外だった。これでもう、出世は望めないだろう。定時で上がれるのは正直助かるが、足下が崩れ落ちて、落下するような思いがして、思わず机を両手でつかんだほどだった。 

「引き継ぎだけは、しっかりやってくれよ」

 うつむいたままのぼくを見て、心配そうに桐生が言ったのがおかしかった。ふてくされて、仕事を放り出されても困る、と考えたのだろう。この上司の考えそうなことだ。もはや次のチームのことしか考えていない。もとより、仕事を放り出したりするつもりはない。最後の意地で、これ以上ないほどの引き継ぎをしてやる。

「これまで、お世話になりました。ありがとうございました」 

 とぼくは言った。声もふるわせず、しっかりと桐生の眼を見て言うことができた。桐生は満更でもなさそうに、ああ、お前を腐らずにがんばれよ、と言って、部屋から出て行った。



 その晩、美咲を寝かしつけた後、どうにも落ちつかず、眠れなかったので、軽く各部屋の掃除をしていると、美咲の部屋のカーペットに妙なふくらみがあることに気がついた。普段なら、気にもとめないが、蘭の部屋に、同じようなふくらみがあって、例の日記が出てきたのだ。めくってみると、一冊のノートが出てきた。「令和二年十一月~」とだけ書いてあった。蘭と陽介が亡くなったのが令和二年九月だから、その二か月後の日付になる。妙な胸騒ぎがした。いったい、誰がこれを書いたのだ? 中身を見てみる。筆跡は、蘭のノートと同じだった。


令和二年三月三十日

 頭の整理のために、日記を書くことにする。いい加減、現実を受け入れなければならない。

 陽介は亡くなった。わたしは、生きている。美咲は……分からない。


四月五日

 思うに、地縛霊のようなものなのだろう。わたしは、死んでいる。この世への、恨みつらみにより、執着により、生かされている。ならば、それをはらす必要がある。そうすれば、きっと、美咲は帰ってくるだろう。

 

四月二十日

 満夫に宿題を出す。犯人捜し。


七月十三日

 犬飼が家に来た。

 満夫は犬飼を、私を殺した犯人と疑っている様子。やはり満夫には無理か。



「ああ、見つかったんだ」

 驚いて振り返ると、後ろに美咲が立っていた。「ま、潮時かもね。あなたは見当違いの方向に進んでいたし、まどろっこしいことはやめて、直接話した方がいいかもとは思っていたんだ」

「美咲、これはいったい、どういうことなんだ」

 思わず、後ずさりする。美咲はしゃがんで、ぼくと目線を合わせる。

「読んだとおりよ。わたしは蘭。美咲じゃないの。ねえ、本当に気がつかなかった? わたしは演技なんて得意じゃないし、性格も大分違っていたと思うんだけど」

 美咲は立ち上がって、大きく伸びをした。「もともと、美咲のこともよく見ていなかったし、分からなかったか。ま、でもしかたがないか。娘の中に、死んだ奥さんの魂が宿ってる、なんて、常識じゃあり得ないもんね」

「……いやいやいや」

 とぼくは言った。「そんなはずがない。蘭のはずがない。蘭は、死んだんだ」

「そう、わたしは死んだのよ。それは、そのとおりよ」

 美咲は立ち上がり、子ども用机の前の椅子に腰かける。「物理的に、わたしの肉体は死んでいる。火葬されて、興福寺のお墓に埋葬されている。納骨のとき、わたしもあなたも立ち会ったから、それは確かよね。自分の納骨に立ち会うのって、不思議な気持ちだったわ。正直、夢か現実か分からないような感じだったけど」

 美咲は饒舌だった。

「美咲が、蘭のはずがない。そんなこと、あり得ない」

 とぼくは言った。

「まだ信じないか。まぁ、無理もないけど」

 美咲はそう言って、椅子から飛び下りた。ぼくの手から、日記を奪い取り、眼の前に突きつける。

「じゃあ、これは? わたしが死んでからの日記。この文章、美咲が書いたとでも言うつもり? 平仮名をやっと覚え始めた5才の女の子が、漢字交じりのこの文章を書いたとでも?」

「……いや、それは」

 漢字なんてまだ書けない。そもそも、筆跡が5才児の字じゃない。「だとすれば、これは、蘭が書いたんだ」

「そうでしょう」

「蘭が、本当は生きていて、これを書いたんだ。君は、美咲だ。蘭に、いろいろと吹き込まれているんだ」

 美咲が吹き出した。「おもしろいことを言うね。そう来るか。それはちょっと、想定外だったな」

「蘭は、生きているんだろう? じゃなきゃ、こんな文章、書けっこない。蘭は、どこにいるんだ?」

「いやいや、あなた、一緒に焼き場に行ったでしょう。泣きながら、骨を拾ってたでしょうが。あれ、誰の骨だっていうのよ」

「取り違えとか……」

「いや、死んでる、死んでる。わたしが言うんだから、間違いないよ。死体を取り違えるとか、普通に考えて、あり得ないでしょ」

「娘が、妻だと言い張る方があり得ない」

 とぼくは言った。ぼくは夢でも見ているのか?

「それは確かに正論だわね」 

 と美咲は言った。腕組みをし、天井の方を見る。デジャヴ。そう言えば、蘭が、考え込むとき、よくこんな仕草をしていた。

「そうか、わたししか知らないことを言えばいいんだ」

 手をぱちんと鳴らして、そう言った。「満夫は、初エッチの時、勃たなかった」

「は!?」

「初旅行の二日目で、ようやくできた。そういえばあれ、緊張してたってこと? わたしに魅力がないのかって、実はちょっと、気にしてたんだよね。聞けなかったけど」

「……緊張してたんだよ。魅力がなかったわけじゃない」

「そう、よかった」

 蘭はにっこりと笑った。心なしか、楽しそうに見えた。

「じゃあ、本題。わたしを殺した犯人は、分かった?」

「犯人なんて、いない。君の日記にも書いてあるじゃないか。君は、育児に疲れて、実家に向かう途中で事故にあったんだ」

「わたしが生きている頃の日記も見たのね。まあ、いいんだけど。ねえ、なんでわたしが育児に疲れていたのか、分かってる?」

「もちろん、よく分かっているよ。君は、出産してまだ日が浅くて、産後鬱だったんだ。ホルモンバランスが崩れて、」

「……産後鬱? そうか、そうかもね。そうかもしれない。だとして、なんでわたしは鬱になったの?」

「それは、ホルモンバランスが、」

「ホルモンバランス関係ない!」

 急に蘭は叫んだ。「知ったような言葉で片付けるな! わたしはワンオペで、一人で戦って、5日眠れなくて、ぼろぼろになって、もうろうとした中で、ぎりぎりのところで生きていたの。そんな時、一晩でも代わってって言ったわたしに、あなた、なんて言ったか覚えてる? 俺は明日、朝早くから大事な会議があるからダメだよ。蘭は、明日も休みだし、昼間、ゆっくり寝られるだろ。本当にうらやましい、俺も休みたいよ。あなたは、そう言ったのよ」

 蘭は、ぼくをにらみつけて、そう言った。

「それは、悪かったよ。ただ、自分が仕切る大事な会議で、居眠りするわけにもいかないだろう? あの時は、大役を任されて大変な時だったし、仕方がなかったんだ」

「男だって、育児休暇を取れるのに、あなたは取らなかった」

「制度上あるだけで、誰も使っていないよ」

「まわりの眼を気にしてただけじゃない。出世したかっただけじゃない」

「女が育休取るみたいに、簡単にはいかないんだよ。ぼくが追い込まれて、失職したら、子どもを養うことだってできない」

「そんな会社、やめてしまえばいいのよ」

「簡単に言うなよ。運良く同じ規模の会社に転職できたとして、労務環境はそんなに変わらないさ」

「わたしは、陽介の世話もまともにできなくなった。ずっと泣いていたし、陽介をぶったり、ベビーベッドを蹴飛ばしたこともある」

「それは……」

「知らなかったでしょう。あなたはずっといなかったし、家にいてもろくに家事をしなかった」

「蘭は育休中で、ぼくは働いているんだから、家事は蘭がやるべきだろう」

「わたしがそんな状態なのに、夕飯にスーパーの出来合のお総菜を出したら、小さく舌打ちして、暇なんだから、料理くらいつくれよ、って言ってたわね」

「疲れて帰ってきて、うまい手料理が食べたいって思うのは普通だろう」

「わたしも一日休みなく育児をして疲れてるんですけど」

「ぼくの母親や、まわりのみんなの奥さんもそれくらいやってる。ぼくが無理なことを言っているわけじゃない」

「出た、ぼくのママ、ぼくの知り合い話。うんざりする。わたしは、この家の話をしてるの! よそはよそ、うちとは状況が違うでしょうが!」

「まわりは普通にやってることだよ。なんでそれができないのかな」

「子どもの手のかかり具合だって違うし、祖父母の協力態勢だって違う。なんでそれが分からないの」

「ぼくは、自分がやるべきことはやっていた。家事だって、君は何もしていないと言うけど、ごみ出しをしたり、子どもをお風呂に入れたり、オムツを替えたりだってしていた」

「ねえ、知ってる? ごみ出しって、ごみを分別して、集めて、まとめておいて、各部屋のごみ箱にまた袋をかぶせてっていう作業があって、出すだけで終わりじゃないんだよ。オムツを替えたっていうけど、おしっこの時だけじゃない。うんちの時は逃げて、一度も替えたことないじゃない」

「男女で向き不向きってものがある。力仕事は男がやるし、女性的な家事は、昔から女がやってきた。そういう風にできてるんだよ」

「女性的な家事って何? 力仕事って、それこそごみ捨てくらいでしょ? 共働きなら、家事育児も等分に負担するのが本当じゃないの?」

「ぼくは君より稼いでいる。収入に応じて、家事分担をするべきだ」

「あ、それを言うんだ。勤務時間が同じでも、低収入な方は、家でも長時間働けと」

「そうは言っていない」

「いや、言ってるでしょ。本当にもう、話にならない」

 蘭はそう言うと、立ち上がり、腕組みをして仁王立ちになった。

「話をもとに戻すわ。わたしを殺した犯人は、分かったの?」

「何度も言うけれど、あれは事故だった」

 とぼくは言った。

「わたしは、もうろうとした意識の中で、運転をしていた。あなたが言うところの、産後鬱、だったのかもしれない。でもそれは、あなたの協力がなかったから。だから、」

「だから?」

「あなたが、わたしを殺したのよ」

 と蘭は言った。

「ちょっと、何を言っているのか、分からないな」

ぼくは立ち上がり、美咲の勉強机の椅子に腰をかけた。笑おうとしたが、頬がひきつり、うまく笑えなかった。「ぼくが殺した、だって? 冗談じゃない。なんで、そういう話になるんだ」

「わたしを追い込んだのは誰?」

「ぼくじゃない」

「じゃあ誰。ホルモンバランスさん?」

 蘭がからかうような口調で言う。

「ぼくが殺しただなんて、冗談じゃない。ばかなことを言うな。そもそも、事故を起こしたのは君じゃないか。君が、自分と陽介を殺したんだ。だいたい、そんな危険な状態で、なんで運転なんかしたんだ。そんなことをしなければ、陽介は死なずにすんだんだ」

 蘭の顔が蒼白になった。

「君を殺したのは、君だ。陽介を殺したのも、君だ」

「わたしは……」

「もういい。もう、十分だ。生きているのは、美咲だけだ。美咲を、返してくれ。君はもう、死んでいるんだ。ぼくを恨んでいるのは、よく分かった。呪うなり、なんなりすればいい。ぼくに取り憑いたっていい。でも、美咲は。美咲は関係ないだろう。自由にしてやってくれ」

 蘭は黙って、うなだれていた。

「わたしが……陽介を、殺した?」

 小さくそう呟いたきり、蘭はしゃべらなかった。陽介を自分の運転で死なせてしまったことを直視できずに、ぼくを犯人として恨むことで、心の安定を図っていたのかもしれない。

「……じゃあ、あなたは無実なの?」

 しばらくして、蘭は言った。「あなたに罪はないの?」低く、押し殺した声だった。うつむいているので、表情は分からない。「車を運転していたのはわたし。だから、全部わたしが悪いの?」

「いや、事故だから、君が悪いっていうわけじゃない。さっきは、すまない、言い過ぎたかもしれない。犯人なんて、いないんだ。あれは不幸な事故だったんだから」

「でも、陽介は死んだ。戻ってこない。それは事実。あなたがわたしを追い詰めて、わたしが事故を起こした。悪いのは、あなたと、わたし」

「追い詰めてなんかいない。ぼくは、何もしていない」

「何もしていない。そう、あなたは何もしなかった。わたしが助けを求めても、何ひとつやろうとしなかった。そうして、わたしは壊れた」

「分かった。分かったよ。悪いのは、ぼくであり、君だ」

「そうよ。わたしたちが陽介を殺したの。でも、死んだのは、わたしだけ。不公平じゃない?」

「いや……」

「不公平じゃない?」

 顔を上げた蘭は、無表情だった。ゆっくりと部屋の隅に行くと、本棚から何かを取り出した。包丁だった。なぜ本棚に包丁が? 鞘を放り投げ、こちらに歩いてくる。

「陽介に、死んでお詫びしよう」

 瞳孔が開いている。蘭が手を振り上げる。「ぼくが死んだら、美咲はどうなるんだ!」大声で叫ぶと、一瞬、蘭の動きが止まった。その隙に、思い切り体当たりをする。蘭は吹き飛び、本棚に激しくぶつかった。そのまま、床に崩れ落ち、動かなくなった。床に落ちた包丁を遠くに蹴飛ばし、蘭に駆け寄る。意識はないが、呼吸はしている。ぼくは、大きくため息をついた。まったく、なんて日だ。桐生から戦力外通告をされたのが、つい半日前の出来事だったとは、とても思えない。力が抜けてしまい、思わずその場に座り込んだ。



 6月2日は、横浜の開港記念日だ。横浜港の開港を祝い、臨港パークで開港祭が開かれる。ぼくらは会場に向かおうと、横浜駅を下りて、アンパンマンミュージアムの前を歩いていた。日差しの強さが、春の終わりを感じさせ、長袖のシャツの背中がじっとりと汗ばむのが不快だった。

「パパ、今日は仕事ないの?」

 と美咲が言った。

「今日は休みなんだ」

 とぼくは言った。4月から、営業から総務に異動し、休みも自由に取れるようになった。左遷と思い桐生の仕打ちを初めのうちこそ恨んだものだが、男手一つで子育てをする身にとっては、時間が自由に使えるメリットが大きいのも確かだった。

「今日はお祭りなの? 花火あるの?」

 と美咲は言った。浴衣を着るのは今日が初めてだ。蘭にも見せたかった、と思う。

「花火もあるよ。ドローンも飛ぶらしい」

「どろーんって?」

「空を飛ぶ機械だよ。たくさん光って、きれいだよ」

 ふうん、と言って、美咲は両腕を組んで、空を見上げた。……

「どうしたの、パパ?」

「……え」

「わたしの顔に何かついてる?」

「ああ、いや、なんでもない」

 どうやら、じっと見つめてしまっていたらしい。

「お腹すいたね」

 と美咲。

「そうだね」

 とぼく。

 あれ以来、蘭は出て来ていない。あの日記も、次の日には消えていた。

 ぼくは、夢でも見ていたのだろうか。

 あの晩の奇妙な出来事を真実と考えるより、その方がよっぽどまともな気がした。

 ただ、あの晩を境に、美咲に朗らかさが返ってきて、もとの美咲らしくなった、のもまた確かだった。取り憑いていた蘭が抜けて、美咲が戻ってきた、と考えるべきなのだろうか。

 ぼくの中でも、その辺りをどう考えたらよいのか、答えは出ていなかった。他の可能性だって、考えられる。……

 高島中央公園には、たくさんの出店が出ていた。何やらおいしそうな匂いがする。ぼくはティッシュを取り出して、思い切り鼻をかんで、ごみ箱に捨てた。

「やきそば、食べようか」

 そう言って、前を向いたまま、ぼくは美咲と手をつないだ。

「じゃがバターがいい」

 と言って、美咲もぼくの方を見ずに、手を握り返した。

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娘が告発した日 秋津 深 @akitsu1129

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