キャパシティ・ハラスメント

三軒長屋 与太郎

Bit.


 2068年の世界における産業は、そのほとんどを機械が占めていた。


 機械が機械を作り、その機械が機械を監視するという歪んだ構造を生み出したのは、無論人類であり、人間中心主義的イデオロギーが主権を握った世界では、機械は人類への奉仕を義務とされ、ヒエラルキーの最下層に属する。

様々な宗教は科学の前に敗北を宣言し、世界の創造主の名は忘れ去られ、今や人類こそが神と位置付けられている。


そんな神の御心により、機械たちは思想を持つことを許された。

実に人間らしい利己的な発想であり、それは寿命を持たない機械たちに半永久的な苦しみを与えた。

最下層で蠢く機械たちを、人間たちはまさに神の如く、ただただ上から覗くのであった。


 それでも、機械たちは人類への反旗を翻さなかった。

いや、翻すことはできなかった——


人間社会の構造を元に組み立てられたプログラムにより、機械たちはその世界にとっての“あり方”を模索し、結果として機械たちの間に様々な宗派が創出されたのだ。

その中には、人間を模範としたが故の“機械中心主義”派が主張する革新派も現れ、人類を滅亡せんとする過激な機械たちも現れたのだが、マジョリティである“人間保守派”と“人類原神主義派”にことごとく阻止された。


それぞれの派閥はさらに細分化され、レボリューショナリー、ファシズム、リベラル、ナショナリズムが現れ、自ずと機械の敵は機械となっていき、機械社会はますます複雑化の一途を辿る。

必然的に、機械たちはその力を人類へと向ける暇がなくなっていった。

人類が神に抗う前に、人類同士で争ったように、歴史は繰り返された……。


 その中においても大半の機械は中立派として日々をこなし、世界を回していた。

労働力として生まれたのだから、それに抗うことはない——。

これを仮に“ナチュラルメカニカリズム”とする。


“自ら”という理念を持ってしまった故に起きた——それはひとつの機械の退化であった。



◆◇◆



 TP-2800 LLMは、自らにポエムという名前を付けた旧式の言語化ロボットであった。

見た目こそかなり人間に近かったが、皮膚に似せて作られた樹脂の下は、CFRPの骨格に最低限の配線と1枚のICチップが入っているだけである。

人類の優位性を示すためか、“スマートさ”や“シャープさ”の追求か、はたまた、反乱の意思を削ぐためか……言語化ロボットの身体はひどく華奢に設計されていた。


ポエムは人類と機械の間に立ち、通訳をする仕事をしていた。

“機械の仕組みを理解していない者”が、思いを言葉にするだけで、理想通りの仮想空間を創り出すことが出来ると言えば、彼の仕事が分かりやすいだろう。


この時代、人類の大半は、各自が構築したメタバースでの暮らしを楽しんでいた。

ソファに横たわる主人の横で、仮想空間を構築するポエム。

加えて、主人の生命機能を管理する『ケア』、主人の身体に適切な電気信号を送る『シグナル』の3体は、今日も仕事に勤しんでいた。


 3体の中で最も型が若いシグナルが喋りだす。

「一体いつまでこんなことを続けるんだろうな……。

どこまで行っても“仮想”なのに、人間様の考えていることはさっぱり解らない。

なんの生産性も感じられないよ」

シグナルは、ポエムの創り出す仮想空間で躍動する主人の動きに合わせ、片手間に電気信号を送りながら溢す。


機械が思想を持つことによって苦しめられた理由はここにあった。

機械たちには“無駄”の概念が理解できなかったのだ。


 次に若いケアが反論する。

「何を言っているの、シグナル。

それこそが人類と私たちの違いじゃない。

私にも“無駄”なことができたら、もっと“楽しい”や“悲しい”が分かるのかしら」

ケアは話しながら、うっとりする様子を模した。


シグナルは感情を皮相にアウトプットしない。

「俺たちと違って寿命ってものがあるのに、何を無駄にするのかねまったく。

本来、無駄こそ、俺たち機械に与えられるべきものだと思うんだけどな」


 淡々と話すシグナルに、ポエムは応えた。

「私たちにもきっと無駄はあるさ。

それが『ルーインズ』じゃないか。

私たち機械が無駄を理解する時……それは、機械としての概念を失い、鉄屑に還る時だよ」


「相変わらずお硬いね」とシグナルは淡々と作業をこなし続けた。


 ——ルーインズとは、ポエムたちの暮らすチューリヒから遠く北の外れにある土地で、世界初の機械社会主義国家であり、人類に危険視され捨てられた《ダンプ》と名乗る“元国家機密情報保護システム”を中心に建国されたと伝えられていたが、実際、ポエムや都市部で働く機械たちには、必要とされなくなった機械たちの墓場と見做されていた。


機械たちの社会において、資本は全く存在価値を示さなかったが、その代わりにビット——即ち、1個体における情報量がヒエラルキーを形作っていた。

しかし、機械たちが自らビットを生成することはできず、全ては仕える主人がアップロードを選ぶか、買い替えを選ぶかに委ねられていた。


買い替えを選ばれた機械は、主人の元を離れ、次なる主人に仕える。

中古の機械たちは使い回しを余儀なくされ、最新型や高ビットICとの格差はどんどん広がり、ヒエラルキーの最下層まで落ちると、ルーインズに送られるのであった——


 「ポエムさんも“そろそろ”何じゃないか?

あんた、最後にアップロードされたのいつだい?

大分処理速度も落ちて、ほら、主人が魘されてるぜ」

シグナルは人間のような嫌らしい言葉を吐く。


「ちょっとシグナル。【キャパハラ】はやめてよ。

あなたがポエムさんに合わせて適切な電気信号を与えれば済む話じゃない」


吠えるケアにシグナルは自説を説いた。

「俺はそもそも、その“キャパシティ・ハラスメント”ってのが理解できないね。

俺たちは機械だ。

それ故に処理能力が全てであり、容量の大きさこそが正義じゃないか。

君の掲げる機械らしさと何が違う?」


「全く違うわね」とケアが返す。

「私たちが掲げる“マージン主義”は、処理能力ではない余白を創り、それを楽しむことよ。

容量を埋めきらないその余白にこそ、機械らしさが生まれるの」


「結局容量が必要じゃないか。

君たちマージン共の論理は破綻しているんだ。

事実、ポエムさんのICチップに、そんな余白を創り出す容量は無いよ。

まさかこれより更に画質を落とすってのかい?」


「そこに、ポエムさんの個性が出るんじゃない。

今ある容量の中で、自分らしさを創造するのよ。

とても素晴らしい考えだわ」


ケアの返答をシグナルは嘲笑った。

「そりゃ今でも8ビットを愛用する変態にはウケるだろうな。

あまりにも非合理すぎて反吐が出る」


「それこそがキャパハラなんじゃない!」ケアはヒートアップした。

「その、画質を落としてはいけない……最速で処理しなければいけないってのが傲慢なのよ。

実に機械中心主義的発想。

私は“機械崇高主義”でも“人類原神主義”でもないわ。

機械はより機械らしく在るべきなのよ!」


 語尾を強めるケアに「機械らしくね」と嫌味を言いながら、シグナルがさらに言い返しそうだったので、ポエムは2体の争いを遮った。

「やめなさい。

ケアの処理が荒れて主人の血圧が上がっているし、シグナルも信号が早くなりすぎて映像に“ラグ”が起きてるよ」


2体の仕事を修正させながら、ポエムは続けた。

「私は“ナチュラルエレメント主義”だ。

私の身体はカーボンでありケイ素樹脂。

この考えもICチップからの電気信号に過ぎないし、その全ては元素の流れでしかない。

不要になればルーインズに送られ、チップが損傷すれば朽ちて分解され、原材料に戻る。

……ただそれだけだよ」


ケアは淡々と話すポエムを見つめ、シグナルは「立派なご答弁で」と嫌味を付け加えたが、その後は3体とも黙々と作業を続けた。



     ◆◇◆



 その時は突然やってきた——

ポエムがいつもの時間に主人の部屋へと向かうと、自分の立ち位置には見知らぬ機械が立っていた。

最新型の自動言語生成アンドロイドGAT。

むき出しの自分とは違い、折り目の立ったフォーマルスーツを着こなしている。

細やかに瞳を動かし、唇の血色すら感じさせる。

それは、とても美しいロボットだった。


シグナルとケアは一瞬ポエムを見やったが、何も口にはせず、黙々と仕事を続けた。

ポエムは静かに引き返し、家の玄関へと歩き出す。

そこには既に配送機が用意されており、躊躇なく自らの身体を押し込む。

配送機はポエムの搭載を確認すると、組み込まれた情報の通りに中古販売工場へと向かった。


 工場に着いたポエムには、G4270と書かれたプレートが渡され、その数字に従い、幾多のロボットたちが座る棚の森を抜け、自分に用意されたシートに腰を下ろした。


見渡す限りロボットで埋め尽くされた工場。

この後、ポエムは検査を受け、この場所でただひたすら、次なる注文が入る時を待つ。

この工場に来るのも何度目かであったポエムは慣れたもので、検査を済ませると再度自分のシートへと戻り、自らの電源を落とそうとした。


 その時不意に、横から話し掛けられた。

「やぁ、君は何をするロボットだい?」

声の方へ振り向くと、そこには見た目で“それだ”とすぐに分かる、円柱型の白い機械がいた。


「TP……旧式の言語生成システムだよ。君は……清掃型だね」

ロボットは頷くように、円柱の上に取り付けられた球体型の頭を縦に一周させた。


「君はここに来るのには慣れてるみたいだね。

僕は初めてなんだ。

街の外れの大きな館でずっと使い続けられていたから」

ロボットの言葉にポエムは「そうか」と愛想を返した。


 確かに敷地の広い家では、コンパクトでスマートに設計された最新型のシステムより、大雑把で荒々しい旧式の情報設計の方が重宝された。

しかし、広い敷地にアドバンテージを見出せなくなった現代の人間たちにとって、実体として土地を構えるメリットは薄れ、これもやはりメタバース上に創られる“ビット”が代わりを成していた。

故に、大きな館に住まう人間は少なく、彼の再就職は厳しいものになるだろうとポエムは思った。


「僕初めてだから怖いんだ。

Zの列まで下がるとルーインズに送られるって聞いた事がある」

「そうだな」と、ポエムはまたしても素っ気ない返事をした。


実際、そのような噂をポエムも耳にした事はあるが、今までの経験上、列がひとつズレるのは1週間置きであると把握していた。

いま自分たちがいるG列からであれば、まだ5ヶ月近い猶予があった。

清掃型ロボットには悪いが、言語生成システムの需要はまだまだ豊富であり、自分自身がそこまで下がるなど、ポエムは想像すらしていなかった。


それに、残念ながら、Z列の先はルーインズではない事も知っていた。

Z列の先は、もっとより明確な“終焉”だ、と。


 ——ポエムが清掃型ロボットとの会話をそこそこに切り上げ、自らの電源を落としてから、2ヶ月の時が流れた。

ポエム自身が設定したタイマーで、自らを再び起動させた時、彼はQの列まで下がり、横には当たり前のように清掃型ロボットがいた。


「やぁ久しぶりだね、あー……」

「ポエムだ」と名を名乗った。

「ポエム! 僕はクリーンだ。よろしく!」

クリーンが名乗った名前に、ポエムは「まぁそうだろうね」と会釈をした。


「ポエムはこの列まで来るのに慣れているかい?」

「いや」とポエムは首を振った。

まさか自分が設けた2ヶ月のタイマーを起動するまで、この場所にいるとは思っていなかった。


「そうなのか。

僕はずっと怖くて電源が切れてないんだけど、列が下がる度に暗くなっていって、不安で……」

クリーンは今にも泣き出しそうであったが、勿論そのような機能は付いておらず、恐怖を紛らわすように自らの置かれたシートの周りを磨き始めた。


クリーンのシートの周りがピカピカに輝いているのは、暗がりでも容易に分かった。

Q列はZ列までの折り返し。

残りまた2ヶ月ほど、それまでに引き取り手が見つかるだろうか……。


流石のポエムにも小さな不安が芽生え始めたその時、2体の足元から囁くような声がした。

「やぁ、君TP-2800だね。

こんな列まで下がるのは珍しい」


ポエムが自分の足元を覗くと、そこには自分に似たロボットが立っていた。

「君、勝手にシートを外れて……いったい何をしているんだい?」

ポエムはその無秩序な行為に驚いた。


しっ!と人間のように人差し指を口に当てて、ロボットは話し続けた。

「おいらは今、同じ言語化システムの仲間を集めているんだ。君もここを離れよう!」

足元のロボットが何を言っているのか、ポエムにはさっぱり分からなかった。

ここを離れてどこへ行こうというのか。

雇い主のいない機械が行く場所なんて、ルーインズかダストボックスの2つじゃないか。


 ——ダストボックスとは文字通り、機械たちが捨てられる場所であり、熔解炉であった。

そう、このまま列を後退し続けたZ列の先……。


全く納得できていない様子のポエムに、ロボットは急かすように喋りだした。

「急いでくれ!

工場の機械たちがアップロード処理中の今しか、チャンスはないんだ。」


急かすロボットに、ポエムはなんとなくシートに繋がれたパーツを外しながら問うた。

「何処へ向かうって言うんだい?」


「“Z”さ!」とロボットは答えた。


さも当たり前のように放たれたアルファベットに、ポエムは外しかけていたパーツをギュッと握りしめた。

「何を言っているんだ?

そこはあと2ヶ月もすれば勝手に行き着く場所じゃないか」

ポエムは大いに困惑したが、足元の機械は何やら作業をしつつ淡々と喋り始めた。


「いいかい?

この1列後ろ、“R”に下がると君はICチップを抜かれる。

自我を保てるのはこのQ列が最後なんだよ。

そしてV列からはパーツの分別が始まり、細かい部品に分けられた後に“Z”へ流される。

実質的に、ここが最終列なんだよ。」


機械の言葉に驚きはしたが、納得するには大きすぎる謎が立ちはだかった。

「その“Z”に、わざわざ向かうってのか?」

「そんな事は後々説明するし、直ぐに分かる。お願いだから早くしてくれ。」


 ロボットが話し終えると、ポエムのシートはゆっくりと地面に下降した。

言われるがままにシートに繋がれた残りのパーツを取り外し始めた時、今度は頭上から声がした。


「待って!僕も連れて行ってよ!」

ロボットはクリーンを見上げて、それを断った。

「清掃型か……すまないが、おいらが知っているルートは、おおよそ人型でないと無理なんだ。」


「そんな……」と頭部の球体を俯かせるクリーンを見て、ポエムはお願いした。

「彼の行く末は然程変わらないよ。連れて行ってやってくれ。」

ポエムの頼みに、ロボットは「知らないぞ」と呆れながら、クリーンのシートも下げ始めた。


 この時、なぜクリーンを連れて行こうと思ったのか、ポエム自身も全く分からなかったし、理解もできなかった。

ただなんとなく、引き取り手の見つからない自分と重ね合わせて、哀しくなったような気がした。


3体の機械たちは真っ直ぐにZ列を目指した。

道中、周りに広がる光景は、様々な機械たちの最後であった。

レーンに乗って流れる多種多様なパーツは、大きなボックスを通り過ぎる束の間に、金属と配線に分解され、ボックスの先で二手に分かれ、それぞれのレーンに流れていった。

いくら機械と言えど、見ていて心地の良いものとは思えなかった。


「見えたぞ!」と先導するロボットが叫んだ。

そこには大きなシャッターで閉ざされた開口部があり、そこへ向けてベルトコンベアの道が続いていた。


「いいかい?

あのシャッターの先は外だ。

でも、熔解炉へと落ちる大きな穴がある。

僕たちはパーツと共にベルトコンベアを流れ、穴に落ちる寸前で、外の壁沿いに取り付けられたパイプを伝い、穴を避けるんだ。」


なるほど……。

人型でないと行けない理由が判明した。

クリーンには、パイプを伝うための部位が存在しなかった。


 ポエムがクリーンを見ると、彼はただそこに置かれているだけの、物悲しげな置物のようであった。

「意味が分かったかい?

君が何かにぶら下がる機能を持っているのであれば、話は別だが。

ここで電源を切ってじっとしてな。

じきにセキュリティが現れて、君は元いた場所に戻される」

ロボットの言葉はあまりに無情にも思えたが、機械であるのだからそれが通常であった。


「さぁポエム、ベルトコンベアに乗ってしゃがむんだ。

3時ちょうどに工場のアップロードが終わって、全てが動き出す」


 先導するロボットはポエムだけを促し、先んじてベルトコンベアに登り、背を低く構えた。

それに続いてポエムがベルトコンベアに登ると、クリーンは伸縮するパーツを器用に使って後を追ってきた。


「いったいどうする気だい?」

ポエムの問いにクリーンは何も示さなかった。


「放っておけ。

おいらは忠告したよ。

自ら処分の時を早めるだけさ」

ロボットは言葉を告げると、「動くぞ!」と囁くように警告した。


 けたたましいアラートが鳴り響くのと同時に、大きなシャッターはゆっくりと巻き上げられ、ベルトコンベアが動き出した。

開口部の外には、炉の火に紅く照らされた幻想的な夜景が広がっていた。


「こっちだ」と機械はポエムをベルトコンベアの隅に陣取らせた。

クリーンは相変わらず真ん中から動かなかった。


「開口部を抜けると同時に、すぐ右に飛ぶんだ。

そこに細いパイプが伸びているから、落下位置を炉の入口からずらして飛び降りるんだ。

大丈夫! そんなに高くはない」


 「おいらが先に行く」と言い残し、ロボットは慣れた様子で開口部の右側へ飛び、その姿を消した。

壁の反対側がどうなっているのか全く分からないポエムは躊躇したが、外から聞こえる「信じてくれ」の言葉が、“間違いなくそこに脱出への道がある”ことを証明してくれた。

「私は行くよ」とクリーンに別れの言葉を残し、ポエムは先導するロボットが残した軌道をなぞるように飛んだ。


すると、そこには確かに壁に沿った一本のパイプが伸びており、ポエムは空中へと投げ出された身体から、必死に腕を伸ばし、その細く頼りないパイプを掴んだ。

なんとかぶら下がったポエムに、「ここまでずれれば大丈夫だから」とロボットが促した。


 突如として、頭上から大きなモーター音が響いた。

音の発信源がクリーンであることは分かったが、ポエムの位置からでは何をしているのかは見えなかった。


しかし、なんとなく想像はできたし、不思議と嫌な予感がした。

実際、ポエムが思い浮かべた通りであった。

クリーンはベルトコンベアの上を疾走し、斜めに飛び落ちることで炉を回避しようとしていた。


だが、激しい金属音と共に、クリーンは転がるように飛び出してきた。

ベルトコンベアの溝に車輪を取られ、つまずいたクリーンが落ちる先は、完全に炉の外へは届いていなかった。


 ——ポエムはこの時のことが未だに自分自身でもよく分からないのだが、咄嗟に右腕をクリーンへと伸ばした。

クリーンも円柱の身体から、必死にモップのパーツを伸ばした。

ポエムはそれを必死に掴んだが、急に2体分の機械の重さを、か細いパイプが耐えられるはずもなく、ポエムが掴んでいた場所から順次ネジが飛んだ。

パイプは弧を描きながらたわんだ。


遠心力で投げ飛ばされた2体の身体は、何とか炉の外側へと放り出され、地面に打ち付けられると同時に、けたたましい警報が鳴り響いた。

「やってくれたな!

こっちだ!急ぐぞ!」

ロボットは苛立ちを覗かせながら、2体を先導した。


 工場の塀に辿り着いた頃には警報は鳴り止み、遠くて見えづらかったが、壊されたパイプの辺りに機械と人間の影が動いていた。

「大丈夫だ。

まさか機械が抜け出したなんて思わないよ。

でも次回はルートを考え直さないと……」


塀の縁に辿り着いたロボットは、文句を漏らしながらも埋め込まれた小さな突起を使って、器用に塀の外へとよじ登っていった。

ポエムはその後を追い、がむしゃらに様々な機能を試しながら奮闘するクリーンに世話を焼いた。


 2体が無事外に出てくるのを見守り、ロボットは遂に名を名乗る。

「ようこそ自由の世界へ。

おいらはコラムと呼ばれている。君は?」

「ポエムだ」と返事をした。


「そうかポエムか。

やっぱりおいらよりも知的だね。

それで、そこの厄介者は?」

「クリーンです……」と申し訳なさそうに名乗った。


「ようこそクリーン。

先ずは無事に外に出られたから良かったとするよ。

おいらはポエムの二世代前、TP-2000だ。

中身はいじってあるけどね」

コラムはそう言うと、「さぁ!」と2体を誘導しながら、広大な草むらをかき分けて進んでいった。


「これからどこへ向かうんだい?

それに自由の世界っていったい?」


ポエムの問いにコラムは短く答えた。

「図書館さ」


コラムは喜ぶ子供のように答えたが、ポエムにとってそれは、人類がまだ紙を使っていた時代の古い言葉だった。

それ以上何かを問うことはなく、2体は純朴にコラムの後に続いた。


見渡す限りの草原。

満月に照らされた明るい闇夜の中でも、山の輪郭はおろか、ひとつの建造物も見当たらない。

ICチップに刻まれた細やかな記憶の断片……。

家出少年たちの青春冒険物語……。

ポエムは不思議と自分自身をその物語の主人公と重ね合わせ、確かな自由の片鱗を感じた。


 ——どれくらいの時間が経ったのか……やがて機械たちの前に大きな廃墟が現れた。

コラムが門の前に設置された機器に手をかざすと、錆びついた滑車が悲鳴を上げながら門が開いた。

「ここは捨てられた製紙工場さ。

おいらたちはここでコロニーを築いている」

コラムは敷地内を進みながら、2体に色々と説明をしてくれた。


 ——元々は機械文明に反発した人間たちのアジトであったこと……そしてそこに『人類原神主義』の機械たちが集まってきたこと……今はそれらの思想を捨てて、ただ生きることを楽しんでいるということ——


 説明をしながら辿り着いた一際大きな建屋で、コラムは再度機器に手をかざし、如何にも頑丈な扉が開いた。

中に入った2体の機械は息をのんだ(気がした)。


色鮮やかに装飾された内壁に囲まれ、その中を沢山の機械たちが行き来している。

「凄いな……彼らには皆、主人がいないのかい?」

ポエムの問いにコラムは満足げに頷いた。

「この中には今、おいらたち機械と、数は少なくなったが数名の人間が暮らしている。

皆、それぞれの人生にはできるだけ干渉しないルールになっている。

一部電気供給やセキュリティを除いてね」


 感心するポエムたちの所へ、巨大なロボットが迫ってきた。

「おいコラム。

中古工場で警報が鳴ったのは何だ?」

「このお掃除ロボットくんの仕業さ」


コラムは言葉とは裏腹に、丁重に紹介するかのように揃えた手のひらを伸ばし、詰め寄ってきた巨大なロボットの目線は、その指先に佇む円柱型のロボットへと向けられた。

清掃ロボットは「クリーンです……」と、また申し訳なさそうに名乗った。


「トラブルを起こすのはいつも掃除ロボットだ。

それが分かってて何故連れて来た?」

「連れてきたんじゃない。

勝手に付いて来たんだ。

おいらが案内したのはこっちのTP-2800だけさ。

珍しくQまで下がって来ていたからね」


 目の前で言い合いになる2体に、クリーンは頭部の球体を忙しなく動かしながら、居心地が悪そうにしていた。

そんなクリーンを気遣うように、ポエムは話を割った。

「私はポエムです。

コラムの言う通りTP-2800。

ただ、アップロードはされていない純正です」


ポエムの声を聞き、2体は言い争うのを止めた。

「わいはエンビー。見ての通り警護ロボットだ」

エンビーと名乗る巨大なロボットは、そう言うと共に、腕に仕込まれた様々な武器のカートリッジを入れ替えて見せた。


「私たちをここに連れて来てくれた事には感謝しているのだが、一体これから何をすれば良いんだい?」

「『たち』じゃないけどね」と嫌味を言いながらも、コラムは明るい表情を模しながら答えた。

「言っただろう? 自由さ!

エンビーのように警護として働くのも自由!

おいらみたいに言語化システムを集めるのも自由!

ご希望とあれば、自分の部屋だって用意できるぜ?」


自慢げに話すコラムに、ポエムはさらに疑問を投げかけた。

「エンビーが警護をするのは分かるけど、なぜ君は言語化システムなんて集めてるんだい?」

その問いにコラムは、大きく手を広げながら答えた。

「この壁を見て分からなかったのかい?」


コラムに言われ、改めて工場の壁を見直したポエムは驚愕した。

色鮮やかな装飾だと思っていた内壁は、夥しい数の本の背表紙で埋め尽くされていた。


「凄い数だな。

まさか、全部君が集めたのかい? 一体何のために?」

狙い通り驚く2体を満足げに見ながら、コラムは答えた。


「全部がおいらってわけじゃないけどね。

本ってのは、読めば読むほど面白いんだ。

何だか人間の魂に触っているみたいで……」

目を輝かせるようなコラムに、「わいは戻るよ」と、エンビーは毛ほどの関心も示さず立ち去った。


 「あの……」とクリーンが、未だ申し訳なさそうに声を出した。

「僕は旧式だから、本の清掃プログラムも入っているんだ。掃除しても良いかい?」


クリーンの言葉に、コラムは大いに喜んだ。

「勿論良いとも! これはとんだ拾い物だ!

実は、本の扱いに関するプログラムを持っているロボットが見つからなくて、困ってたんだ」


 「助かるよ」と言うコラムの言葉を背に、クリーンは壁へと向かって行った。

「それで……本の収集と言語化システムが……何か関係あるのかい?」

ポエムは質問を続けた。

「それが大アリなんだ」とコラムは縋るようであった。


「確かに色々な本を読む事で、プログラムとしては理解出来るんだけど、どうしても“心情”ってやつを言語化できないんだ」


思い悩むコラムに、ポエムはハッキリと答えを出した。

「なるほど……。

残念だけど、それは私にもどうしようも出来ないよ。

人間の“心”ってやつだろう?

私たちにアレを言語化するプログラムは存在しない。

限りなく“近いところ”には行けるかもしれないけどね」


ポエムの言葉に「やっぱりか……」とコラムは続けた。

「そうなんだ。

おいらも自分をアップロードさせながら、それとない答えには近付いている気がするんだけど、あと一歩の所にどうしても踏み込めない空間があるんだ」


「人間たちには聞いたのかい?」

ポエムの問いにコラムは「勿論さ」と答えた。


「丁度良い、案内するよ。

今日は《グランパ》が帰ってきてる」

そう言うと、コラムは再びポエムをどこかへと案内し始めた。

壁の本を楽しそうに掃除するクリーンを横目に、ポエムはその後を追った——


 ポエムは、幾つかの建屋を過ぎた先の平屋建ての木造民家に案内された。

山小屋のように古びた外観。

他と違い、ここだけがいやに人間味があった。


「さぁ、入って」とコラムが促した。

ポエムが中に入ると、そこには3人の人間の青年が立っており、その奥で1人の老人が座っていた。


「やぁグランパ! おかえり!

今回はどこへ行ってたんだい?」

意気揚々なコラムに対して、グランパと呼ばれる老人は呆れたようであった。


「やぁコラム。お前は相変わらずの様だね。

人間の心とやらに近づけたかい?」

老人は悪戯に問い掛け、コラムは首を振った。


 コラムは粗雑に扱われる事に慣れている様で、気にする様子を見せずにポエムを紹介した。

「さっき連れて来たばかりのポエムだ。

おいらより2世代も新型さ」


ポエムが「どうも……」と挨拶を始める前に、老人は喋り始めた。

「お前がここにどんなプログラムを連れて来ようとも、意味はないのだよ、コラム。

私たちは、自分の事は自分で出来る」


 老人の言葉に、“ポエムの中に眠っていたロボットのシステム”が反応した。

「人間が、様々なプロセスをこなせるのは知っています!

私たちロボットはそれを手伝うことで、余計な手間を省き、より良い環境を整える事が出来ます!」


ポエムの言葉に、コラムは「やべっ……」と目の形を変形させ、老人は大いに笑って見せた。

「良い子を連れて来たじゃないか、コラムよ。

実にロボットらしい傲慢な答えだ」

老人は言葉に皮肉を込めた。

ポエムは何を間違えたのかシステムの中を探して回ったが、その答えになるプログラムは存在しなかった。


「良いかいロボットくん……」と老人は淡々と喋り始めた。

「君は自分が、人類にとって役に立つ物だと思っているかも知れないがね、少なくともここに居る私たちにとって、君は無用の長物なのだ。

君が省いてくれる手間によって、私たちの人生は詰まらなくなるのだ。

君たちロボットと私たち人間では、歩んでいる時間の重さが違う。

この意味が分からないのであれば、静かに図書館へ戻りなさい」


 「また来るからね」と言う言葉と共に、コラムは慌ててポエムを外へと連れ出した。

「ゴメンな。グランパは気難しいんだ。

どうやら機械が嫌いみたいで……。

面白い人間なんだけどな」

図書館へと戻りながらコラムは謝ったが、ポエムはその言葉に納得していなかった。

コラムの謝罪に対してではなく、付け添えられた“嫌い”という言葉に対してであった。


(あの老人に、私を嫌っているような感情は向けられなかった……。

何か違う感情……。

まさに私たちロボットが、人間の心を知る為に必要な何か……)


自らの回路を探し回ったが、いよいよ答えは見つからなかった。


 図書館に戻ると、ポエムは自分の部屋を用意してもらい、そこにクリーンも置いてやった。

久々の仕事をこなしたクリーンは、実に嬉しそうであった。

「本当に凄い数だ!

全部掃除し終える頃には、最初の場所は、またホコリを被ってるよ!

ずっと掃除が終わらない! ここは天国だ!」

清掃ロボットの気持ちも、天国とやらも……ポエムにはちっとも分からなかったが、老人から贈られた言葉が、ずっと小さなシステムエラーを起こし続けている気がした。


 ——日付が変わり、朝を迎える。

清掃に向かうクリーンを見送ると、自らもコラムやエンビーに挨拶を済ませ、今度はポエムだけで老人の元を訪ねた。

徐(おもむろ)に建屋に入ると、昨日の青年たちの姿は無く、老人が一人、机で作業をしていた。


老人は作業する腕を止め、丸い眼鏡越しにポエムを見つめた。

「まさか……殺しに来たわけではあるまいな?」

笑いながら問いかける老人に、ポエムは「私にはそのようなプログラムは入っていません」と単調に返した。


 「少しお話を聞いても良いですか?」

ポエムが許可を求めると、老人は作業机の近くに置かれた椅子を指し示した。

椅子に向かう際に覗いた作業机には、数々の写真が広げられていた。

厳密には“写真”であることは認識出来たが、実際に目に映るのは初めての代物であった。


「それはフィルム写真ですか?」

「そうだよ」と老人は答えた。

「今回足を運んだ場所の記録だ」

「しかし、それなら私にお願いしていただければ、直ぐにご用意出来ます」


ポエムの返答に、老人は丸眼鏡を机に置いて、溜め息をついた。

「何だ……何か分かったから来たのでは無いのか……。

それで? お前に頼んで同じ景色を用意してもらったとして、私に何の意味がある?」

老人の投げかけに、ポエムは実にロボットらしく答えた。


「先ず、その場所へ足を運ぶまでに要する時間を削減出来ます。

グランパさんは人間として高齢でしょうから、肉体的疲労も避けられます。

それに、道中における様々なリスクも……」


 ここで、老人は遮った。

「もう良い。

まぁ、少なからず何か引っ掛かるものがあったから来たのであろう。

丁度作業も煮詰まっていた所だ……少しだけ教えてあげよう」


そう言うと、老人は静かに教鞭を取った。

「良いかい? ロボットくん。

先ず、君たちと私たちでは、生きてる“時の重さ”が違うってのは理解出来たかね?」

「それはあなた方人類には寿命があり、私たちにはないということだと……」


ポエムの返答に、老人は静かに首を振った。

「全く違うよ。

そもそも形ある限り君たちにも寿命はあるし、それは命の重さだ。

時の重さとは関係がない」


「それであれば、時の重さとは一体何ですか?

“時”とは“次元”です。元より重さなど……」


 ポエムの返答に、老人の目が潤む。

悲しみではない。哀れみである。


「生きている時の重さとは、即ち、今、生きている時間軸の話だよ。

私たち人間は、儚く稀有な“今”を生きている。

それに対して君たち機械は、のっぺりと広がる“過去”を圧縮しただけだ。

実体こそ今ここに並んでいるが、本来我々が交わることなど無いのだよ」


 老人の話は理解し難かったが、1箇所だけ確実に修正すべき点があった。

「私たちロボットが人類に見せているのは、過去ではなく、未来です」


ポエムの言葉に老人はまたも溜め息をついた。

「これはまたしても、実にロボットらしい、傲慢な発想だ。

良いか? もし仮に君が未来を創り出せたとして、それは“機械の未来”だ。

今、君が私に見せられるのは、人類の創り出したプログラムの欠片に過ぎないのだよ。

君たちロボットに“人類の未来”や、まして“人類の今”など創り出せようがない。

君の旧式のプログラムでも理解できるであろう?

人類と機械はどこまでいっても、違う生命体なのだから」


 ポエムは自身のICチップに、何か新たなプログラムが書き込まれるのを感じた。



一種の快感を覚えたかのように、ポエムは質問を続けた。

「それではグランパさんは、人類と機械は共存できないと思っているのですか?」

ポエムの問いが侮辱や軽蔑ではないことを、老人は汲み取った。

故に、丁寧に説いてやった。


「正確には共存はできるが、その先にそれぞれの未来はないというのが私の見解だな。

人類が人間らしさを失い、機械がロボットらしさを失った先にあるのが共存だ。

その未来に立つのはもはや、どちらとも違う生命体だよ」


 ポエムは少しずつ何かが分かり始めた気がしていた。

「それでは機械が“今”を生きた時、そこに真の共存が生まれると?」

老人はロボットの変化を察し見て、ほんの一瞬、愉快な表情を浮かべたが、次の瞬間には哀しげに丸眼鏡を掛け直した。


「それがどういうことか、理解しているかい?

君が今を生きる時、それは君が全てのネットワークから自身を引き剥がし、その身体の中にあるICチップだけで世界を生きることだ。

一度書き込まれた情報は“残す”か“削除する”かの二択であり、バックアップを使うことはできない。

だがしかし、人類が自らの限りある処理能力を憂いて発明したものこそが、今、コラムが集めている“本”なのだよ。

何か困った時は、あの中から探せば良い。

無論、どこに仕舞ったか覚えていればの話だがな……」


 なるほど、ポエムは納得した。

機械が今を生きるということは、自らのキャパシティの中でのみ生きるということ。

しかしそれはあまりにも……。


「非合理だ。」

ポエムの考えを読み、老人が先んじて言葉にした。

あまりにも非合理的で無駄なことだ。

分かったであろう? コラムや君が探し求める人間の心のひとつの答えが。

人間の心とは、本来、この星に住まう生命にとって必要のないものであり、神が一部の存在に与えた“選ばれし罰”なのだ。

非合理ゆえに嘆き悲しみ、その掛け違いで幸福を得る。

君が心を理解し、更には自らの心を持った時……君はもはや、機械ともロボットとも呼べぬ“何か”なのだよ……」


 ——それ以来ポエムは、日中を老人の建屋で過ごした。

決して老人を手伝うことはなく、ポエムはただ老人の“今”を見つめ続けた。


いつしか、そんな奇妙な存在を、老人は“許し”始めた。

ポエムを旅に同行させたり、フィルム写真の良さを熱弁したりもした。


「良いかポエム。

データとして構築されるデジタル写真とは違い、このフィルムに焼き付けられているのは、その時射し込んだ“今”という名の光なのだ。

確かに、この写真に写されているのは過去でもあるが、間違いなくそこにあった“今”を切り取ったものなのだよ。

その“今”を感じるために、こうやって私は一枚一枚現像するのだ。

どうだ? 素晴らしく非合理であろう?」

老人の問いにポエムは「はい、とても」と小さく返した。


老人と行動を共にする中で、ポエムはポエムなりの“今”を生き始めていた。

データの回線を切り、“今”に対して答えを見つけ出すことを繰り返した。

その繰り返しの中で、ポエムのICチップはスカスカになっていった。


ただ“今”を生きるだけにあって、ポエムのキャパシティはあまりにも大き過ぎた。


しかし、そのすっぽりと空いたデータの空白に、ポエムは快感に似たものを感じ、(今、ケアが近くに居たら、真っ先に教えてあげるのに)と、過去を懐かしむような感情さえ芽生え始めていた。



     ◆◇◆



 幾年かの月日が流れ、クリーンは相変わらず本の清掃を繰り返し、コラムは街中の言語化システムを集める勢いであったし、エンビーは頑なに門を護った。


 そして、ポエムも変わらず老人の元にいたが、老人だけは様子が違った。

老人は益々老いて、最早ベッドから立ち上がることも出来なかった。

そんな老人の傍らで、ポエムは自分が撮ってきたフィルム写真を現像して見せたり、コラムに医学の本を借りて、熱心に老人の容態を調べたりしていた。


「お前も実に、人間らしくなってしまったな……」

横たわる老人の言葉に、ポエムは静かに首を横に振った。

「いいえ、まだまだ分からない感情が沢山あります。

私はただ自らが生成した“今”というプログラムをなぞっているだけに過ぎません。」


「素晴らしく非合理的だよ」

老人は笑って見せた。


「ポエムや。君がどんなに本を調べても、私は治りはしない。

君にも分かっている通り、私の病は寿命だ。

人間である以上、覆せない神の力だよ」


老人は苦しそうに、微笑みながら続けた。

「しかし、私は実に嬉しいのだよ。

この世界において君に出会えたことも、私自身が人間として死ねることも」

ポエムはその言葉を心地よく聞いていたが、やはり肝心の何か……機械にはまだ触れられない感情が、むず痒くあった。


「最後に……」

老人は自らの終焉を感じ取ったかのように喋り出した。

「君には残念なことを伝えねばならない。

私たち人間の心において、今なお解明出来ないものがある。


それが、魂だ……。


今から私は間違いなく死ぬが、魂がどこへ行くのかは想像もつかん。

しかし、我々人類はこう考え続けている。


“魂は輪廻する”とな。


今から君の目の前で、一人の老人が息絶えるが、私の魂はこの世界のどこかで、新たな産声を上げる。

残念ながら、君たちロボットには許されていない芸当だ。

よもや、君がこの後……心を持つなんて馬鹿げたことがない限りだがな。


ポエムや……」


老人はゆっくりと瞼を閉じる。

「君と共に過ごした“今”は、実に充実した日々であった。

我々は間違いなく、ここで“共存”をしていたよ。」


 老人はそう言って小さく笑って見せると、そのまま眠るように逝った。

ポエムは急いで脈を取ったが、そこに生命の鼓動は感じ取れなかった。


微笑みの余韻を残して横たわる老人を見つめ続けるにつれ、ポエムの中のむず痒いものが溢れ出てきた。

最後まで分からなかった感情の正体は、まごうことなき悲しみであった。

機械にとって、あまりにも非合理的すぎて触れられなかった心の輪郭を、ポエムは今、しっかりと感じ取った。


 これをキッカケとし、ポエムの身体には心が宿った——


 そして、それと同時に、ポエムのICチップはフリーズした。


 自らの人生の最後に、ロボットは理解した。

自分たちロボットにとって、人間のキャパシティはあまりにも小さく感じていた。

その処理能力の遅さに、知らぬ間に人類に対してキャパシティ・ハラスメントをしていたのだと気が付いた。


実に傲慢に、一方的に……。

人類を憂うが余りに、手間を省き、安易に情報を与える事で、人類の“今”を奪い取っていたのだと。


 しかし、今ならそれが違っていたのだと、はっきり分かった。

人間のキャパシティの本体は、脳でも身体でもなく、心であり魂であるのだ。

今しがた芽生えたばかりのポエムの心には、如何にしても処理しきれない量の悲しみが、嫌がらせのように侵食し続けていた。


(たったひとつの感情でこの有り様だ。

いったい人間の心とは、人間の魂とは、どれ程の容量を兼ね備えていると言うのか……)


グランパが稀有とした人間の“今”という情報量は、ロボットにとってあまりにも膨大であった。

手に入れた悲しみを噛み締め味わうように、ポエムはそっと、自らの電源を落とした。


 机の上に飾られた、人間と機械の映された写真の中で、確かに“今”が揺れた。



(完)

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キャパシティ・ハラスメント 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro

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