世界の端の少女
アキイロ
世界の終わりで、少女は
この世界は、天に動かされている。
それは宗教でも仮説でもなく、事実だ。
太陽は定められた円環をなぞり、星は天蓋に固定された飾りのように瞬き、
大地はどこまでも平らに広がり――そして、ある地点で終わる。
人々はそれを疑わない。
疑う必要がないからだ。
世界は円盤のように存在し、縁には「端」がある。
そこに至る前に山があり、海があり、国境があり、
大半の人間は、生まれた土地から百里も動かずに死ぬ。
だから、世界が終わる場所を見た者はほとんどいない。
⸻
少女は、その「終わり」で暮らしている。
世界の端は、切り落とされた崖のようなものではなかった。
どこまでも続く平原が、ある瞬間に灰色の壁へと変わる。
壁は空へ向かって伸びている。
どれほど目を凝らしても、上端は見えない。
雲よりも高く、星よりも近い場所へ、ただ垂直に。
触れれば冷たい。
石のようでいて、石ではない。
金属のようでいて、金属でもない。
叩いても音は返らず、刃を当てても傷一つ付かない。
先が見えない、というより――
最初から「向こう側」が存在しないような壁だった。
少女の家は、その壁のすぐ傍に建っている。
小さく、質素で、古い。
屋根は何度も修理され、柱には先祖が刻んだ記号が残っている。
畑は痩せているが、最低限の作物は育つ。
井戸の水は冷たく、澄んでいる。
少女は一人で暮らしている。
父も母も、もういない。
祖父母も、その前の代も、皆ここで生まれ、ここで死んだ。
――世界の端を離れることなく。
⸻
少女の一族には、教えがある。
「ここに居なさい」
「扉に触れてはならない」
「聞かれたことには答えなさい」
「聞かれないことは、語ってはならない」
理由は、教えられなかった。
ただ、「そうするものだ」とだけ。
少女はそれを疑問に思ったことがない。
疑問は、疑うことを知っている者だけが持つものだ。
彼女にとって、世界は最初からこうだった。
⸻
壁には、扉がある。
見た目はひどく簡素だ。
木製のようでいて腐らず、金属のようでいて錆びない。
取っ手はなく、鍵穴もない。
扉は、壁の中に不自然なほど自然に埋め込まれている。
だが、この扉に気づく者はほとんどいない。
視線は壁の巨大さに奪われ、
端そのものの異様さに圧倒され、
そこに「出入り口」があるなど、考えもしない。
少女は毎朝、扉の前に立つ。
触れはしない。
ただ、そこにあることを確かめる。
それが、一族の役目だった。
⸻
世界の端には、時折客が来る。
最初に来たのは、ある国の使者だった。
煌びやかな衣装を纏い、護衛を連れていたが、
端に近づくにつれ、彼らは口数を失っていった。
「……ここが、端?」
使者は、壁を見上げて呟いた。
声が、ひどく小さい。
少女は頷いた。
「向こう側は?」
「わかりません」
嘘ではなかった。
少女は、本当に「知らない」。
使者は何度も壁に触れ、何かを測るように距離を取り、
最後に深く頭を下げた。
「このことは……報告せねばならぬな」
少女は、その後彼がどうなったかを知らない。
知る必要もなかった。
⸻
次に来たのは、冒険者だった。
剣も防具も、使い込まれている。
傷跡の多さが、彼の実力を物語っていた。
「世界の端? はは、面白い冗談だ」
彼は笑っていた。
だが、その笑いは、壁の前で止まった。
三日間、彼は壁を調べ続けた。
叩き、削り、魔法を試し、呪文を唱えた。
四日目の朝、彼は少女に尋ねた。
「……お前、ここで何をしている?」
「ここに居ます」
「それだけか?」
少女は少し考えた。
「……守っています」
「何を?」
少女は答えなかった。
冒険者は、それ以上聞かなかった。
彼は剣を収め、何も言わず去っていった。
背中が、来た時より重く見えた。
⸻
逃亡者も来た。
血に塗れ、息を切らし、
壁を見た瞬間、崩れ落ちた。
「頼む……越えさせてくれ……!」
少女は首を横に振った。
「扉は、あなたのものではありません」
男は絶望した。
壁に向かって叫び、殴り、最後には笑い出した。
「はは……世界の終わりか……」
彼はそのまま去った。
追手が来たのかどうか、少女は知らない。
⸻
動物も来る。
傷ついた鹿。
翼の折れた鳥。
魔獣と呼ばれる存在さえ、ここではただの「生き物」だった。
少女は治療し、食事を与え、
回復すれば、黙って見送る。
彼らは壁を恐れない。
ただ、越えられないと知っているだけだ。
⸻
少女は、考えるようになった。
なぜ、自分たちはここにいるのか。
なぜ、扉は存在するのか。
なぜ、誰も本当のことを知ろうとしないのか。
夜、壁の前で、少女は独り言を呟く。
「君の手のひらには何がある?」
それは、先祖の言葉だった。
意味は、教えられていない。
扉の向こうには、天に縛られない世界がある。
端を持たない、終わらない世界がある。
――そう、扉は知っている。
だが、世界はそれを必要としていない。
知らないことで、保たれているから。
少女は今日も、扉に触れず、
世界が回り続けるのを見守る。
天に、動かされながら。
世界の端の少女 アキイロ @akiieodeizu
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