第3話📙 第6巻 第一部|前魂 第二章 痕(あと)――記憶以前の残り方
(神話語本文)
魂が生まれる前に、 世界にはすでに「残り方」があった。
それは記憶ではない。 記憶とは、誰かが覚えることだ。 だがこの時代、 覚える者はまだいない。 「私」という器がまだ立っていない。
それでも、世界は残った。 残ったのは言葉ではなく、 意味でもなく、 ただの**痕(あと)**である。
痕とは、傷のことではない。 痕とは、出来事のことでもない。 痕とは、世界が何かを経験したという証明ではなく、 世界が同じ形をもう一度なぞったという、 構造の癖である。
一度続いたものは、続きやすい。 一度折れなかった箇所は、次も折れにくい。 一度裂けかけた縁は、次も裂けやすい。
この「やすさ/にくさ」こそが、痕である。
痕は、刻む者がいないのに刻まれる。 刻まれるというより、 “薄くなりきらずに残る”。 世界が薄め、散らし、遅らせても、 なお消えきらない微差として残る。
痕の最初の仕事は、差をつくることだ。
差とは、優劣ではない。 差とは、内と外を分ける刃でもない。 差とは、 「同じではない」という、 ただの輪郭である。
輪郭が生まれると、 世界は初めて 「ここ」と「そこ」を区別できる。
まだ名はない。 まだ言葉もない。 だが、区別だけが生まれる。
区別が生まれると、 世界は次に 「戻る」を持ち始める。
戻るとは、時間を逆にすることではない。 戻るとは、 同じ形へ再び触れられるということだ。
痕は、 未来へ進むための道ではない。 痕は、 帰還点の予告である。
この時代、生命はまだ 世界の自律神経として働いている。 心も、意志も、選択もない。
だが、痕が生まれると、 自律神経は少しだけ変質する。
反射は、反射のままでは終わらない。 反射が繰り返されると、 反射は習慣になる。 習慣が積み重なると、 習慣は癖になる。
その癖が、痕となる。
痕があるということは、 世界がすでに 「同じ形をもう一度できる」 という性質を得たということだ。
これは小さな奇跡だ。 しかしそれは、魔法ではない。 拍が漏れ出た現象でもない。 ただ、構造が 少しだけ折り畳まれたに過ぎない。
痕には、二つの顔がある。
一つは、守りの痕。 裂けそうだったのに裂けなかった箇所。 崩れそうだったのに崩れなかった支え。 それは世界に 「ここは保てる」という自信を与える。
もう一つは、危うさの痕。 裂けかけた縁。 過熱した拍。 行き過ぎた火の名残。 それは世界に 「ここは再び危ない」という警告を残す。
世界は、まだ言葉を持たない。 だから痕は、言葉の代わりに働く。 痕は、世界の最初の注釈である。
だが、痕はまだ記憶ではない。
記憶は、物語を生む。 物語は、意味を生む。 意味は、名を求める。
痕は、その前段だ。 痕は、意味を持たないまま残る。 だから痕は、 誰にとっても同じではない。
同じ痕を踏んでも、 受け取る者がいなければ、 それはただの痕として残る。
そして受け取る者が現れたとき、 痕は初めて 「記憶」へ変わる。
受け取る者とは、 まだ生まれていない「中心」である。 次章で語る、帰還点の原型である。
この章の末尾に、もう一つだけ置く。
痕があるから覚えるのではない。 覚える者が生まれるから、痕は記憶へ変わる。
世界はまだ、 自分を語らない。 だが世界は、 自分の歩幅を 薄い痕として残し始めた。
――次章「中心(ちゅうしん)――帰還点の原型」へ。
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