神代X年のベースボール

阿部2

本文

「人は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉だが私はこうも言いたい。人は石を投げ、放火する猿である。訓練を積んだ空手家でさえ、動物園でだらだらしてる獅子に勝つことは難しい。人間は斯様かようにか弱い存在である。か弱い人間が先史時代にどのように狩りをしてきたか? その解は放火と投石にある。火の恐ろしさは言うに及ばず、投石の恐ろしさはあまりにプリミティブであるために見落とされているかもしれない。しかし集団で石を投げながら追いかけてくる猿を想像すればその脅威は明らかであろう。物を投げることは原初のテクノロジーであり、原初のテクノロジーは呪術とも未分化であった。生活は技術であり、同時に祈りだった。これから語るのはそのような時代のお話だ。


ところで野球はベースボールの訳語である。英語の《base》に野という意味はない。ではなぜベースボールが野球と訳されることになったのか。それを知るためには日本国の野の起源を探らねばならない。これから語るのはそのようなお話だ。


イザナミは国を産んだ。これがすなわち野である。イザナミはカグツチを産んで死んだ。これがすなわち火である。イザナギはイザナミの後を追うことになるが、この頃はまだ死者の国と生者の国は地続きだったので、イザナギは黄泉に徒歩で向かった。


ウヒジニの神とその妹スヒジニの神。ツノグイの神とその妹のイクグイの神。オオトノジの神とその妹のオオトノベの神。オモダルの神とその妹アヤカシコネの神。そしてイザナギの神と妹イザナミの神。高天原たかまがはらの神と異なり、地の神は男女の組であった。ここには二項対立の思想がある。光があれば陰が、朝があれば夕が、絶望があれば希望が、表があれば裏が、攻めがあれば守りが、追うものがいれば逃げるものが、投げる球があれば打つ棒がなくてはならなかった。これがすなわち野球であった。


黄泉の国でイザナギは変わり果てた姿のイザナミに再会した。(死んでいるのだから醜いのは仕方ないのだが)イザナミの醜さに恐怖したイザナギは逃げ出してしまった。逃げるものがいれば追うものがいなくてはなかった。


「点を取られることを恐れるな! 相手より多く点を取ったほうが勝つだけだ。攻めっ気を捨てるんじゃあない。食らいついていけ!」

一回の表が終わって裏、イザナミはイザナギを追いかけるチームメイトの黄泉醜女よもつしこめたちを叱咤した。イザナギは振りかぶって桃を投げた。黄泉醜女たちはそれを捕まえて食べはじめた。まさにナイスキャッチであった。イザナギはその隙にまた逃げた。


逃げた先で杖を突き立てた。こっちに来なという願いを込めたものでこれが久那土神くなどのかみとなった。黄泉醜女は久那土を引き抜いてイザナギの投げる栗を打ち返した。これがバットである。


こうして一回の表があり、裏があった。黄泉は昼も夜も同時にあったので、イザナミはここであかりのために篝火かがりびを焚いた。ナイターの始まりであった。


杖を失ったイザナギは逃げた先々で石を置いていった。これが塞の神、道祖神ともいうが、とにかくベースであった。ホームベースから一塁、二塁、三塁をまわるとまたホームに戻る。


イザナギは雄叫びをあげた。

「俺は盗塁でこのまま一周してやるゼーッ!」

予告ホームランならぬ予告ホームスチールであった。


この頃、英語は敵性語であったのでセーフは生きた、アウトは死んだと呼ばれていた。イザナミが「お前の国の人間を一日千人殺してやる」と言うと、イザナギは「それならば私は産屋を建て、一日千五百の子を産ませよう」と言い返した。


イザナギとイザナミの追いかけっこはまだ続いている。黄泉の国は我々が近づこうとすると同じオーダーで遠ざかるのだ。地続きだったはずがいつのまにか海の向こうへ、地球の外へ、宇宙の外へ。しかし逆説的にも、グラウンドを駆け回るとき、我々はイザナギとイザナミの世界に漸近する。それがどうやら、我々が野球を愛してやまない理由である。

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