ボクの狂い魔
@tamakki
第1話 僕の日常
父の恐怖の顔とユウキのほほ笑む顔が交互にフラッシュバックする。
僕はどこで間違えたんだ? 何が悪かったんだ?
分からない。それが僕の一番の罪。
ゆっくりと思い出す。僕の人生の転機。その一日は鮮明に僕の頭に染みついている。確かその日の朝もいつもと変わらない単調な目覚ましから始まった。
日常が非日常に変わったのはあの時だっただろう。
目覚ましが鳴った。心臓に悪いほどうるさい音は、いつものように僕の頭を覚醒してくれるはずだ。
でもいつものようにはうまく頭がすっきりしない。それでも5月には少し寒い薄いブランケットをめくって体を起こす。自分の体に鞭を撃って、タンスの引き出しを開ける。
長袖長ズボンが1セット。同じ柄で同じサイズの服はあと2つある。急いで着替えようとする意識と反対に、体はさびたようにぎこちなく動く。
着替えが終われば、リビングに足を運ぶ。僕の机の上にはパンが1つ置いてある。自分のコップをだして水をつぎ、席に着く。
パンは多分小学校の時の給食に出てきたパンだ。いつの物だろうか? くしゃくしゃになって不格好なそれは哀れだと思った。このパンは普通のパンの人生を知らない。くしゃくしゃになるまで保管されて、数か月後に食べられることがどれだけ異常かを知らない。
同じような哀れなパンたちはキッチンの床下に保管されている。昨日のパンも数か月後の自分に喰われるのだろうか。
「おい、さっさと喰え」
そう言って殴られたのは小学校低学年の時までだ。今は仕事をやめたせいで起きてこなくなった。起こすとどうなるか分からない。僕は音をたてないように玄関の扉を閉めた。
学校は歩いて行ける距離だ。
学校というのは無視され、暴言を吐かれ、物を隠され、暴力をされる場所だ。
「お前臭くて本当に死んだほうがいい」
殴られる。
「お前勉強まともにできてないじゃん。宿題も提出しないし、なんのために学校来てるの?」
殴られる。
「そんなんだったらこれいらないよね?」
鉛筆を折られる。
何も感じなかった。虚無だ。もう殴られても痛いと感じないし、折られても適当に落ちている鉛筆を拾って使えばいい。そうすると「泥棒だ」と言われてまた殴られる。じゃあみんなはどうやって鉛筆を手に入れているんだろう?
そんな生活が普通だと思っていた。中学校に入る前までは。
「ねぇ、君。名前なんていうの?」
中学校に入ると、小学校からの同級生はほとんどいなくなった。入学式の日、隣の人に話しかけられた僕は、ただ目を見開いて見つめることしかできなかった。こんな話し方をされるのは初めてだったから。
「俺はユウキっていうんだ。よろしくね」
なんでこの子は僕に向かってほほ笑むのだろう。少し長いサラサラとした黒い前髪の合間から見える笑顔は何かとっても暖かかった。
それからユウキとはよく話すようになった。僕は話し慣れていないから、ユウキが話すのがほとんどだった。
「君の名前はなんていうの?」
「カナタっていうんだ。漢字は?」
「奏多……。へぇーこう書くんだ」
「なんでいつも給食のパンを持ち帰っているの?」
「鉛筆ちっちゃいの使ってるね。これあげるよ」
なんでだろう? ユウキが笑っているのを見ると僕もつられて笑ってしまう。小学校の時はそんなこと一度もなかったのに。僕のことを「バカ」と言わないのは何でなんだろう?
一か月もするとそれが当たり前に感じるようになっていた。何年も罵倒され続けていたのにたった一か月で人の価値観は変わってしまうのだろうか。それは時に僕の心を癒し、時に僕の過去をえぐる。
今日も同じように登校する。僕のバックはきれいだった。ランドセルは落書きいっぱいでボロボロだったのに。
席に着く。机にも落書きはないし、椅子に画びょうもない。クラスメイトは僕にかまうことなくそれぞれで話している。
「おはよう」
そう僕に言って席に座ったのはユウキだった。僕の顔は自然に緩んでいた。
四限まで終わり、給食を受け取ると僕はいつものようにパンをバックにしまう。
「なぁ、ずっと思っていたんだけどさ、奏多の家庭ってヤバい感じ?」
「ヤバいって?」
「いやだってパンいつも持って帰っているじゃん。」
僕は眉をひそめる。
「いや、お父さんにそうしろって言われているから。それがうちのやり方って」
「それを朝食にしているんだろ? 朝食作っていないのか?」
「朝食を……作る?」
ユウキは呆れたようにため息をつく。
「お前お風呂も入ってないし、洗濯もしていないでしょ?」
オフロ? センタク? 聞きなれない言葉が脳裏に響く。
「やっぱお前の家ヤバいって」
どうやらユウキによると「普通の家」ではオフロというものに入り、センタクもするらしい。そしてそれをしない僕の家は「ヤバい家」らしい。初耳だ。
どうして僕の家ではしないのだろう。みんなと違うのはなぜなのだろう。今まで普通だと思っていたのに。まるで背後から刺された気分だった。
僕はオフロというものに入ってみたかった。家に帰ってもその気持ちは変わらず僕の心に染みついていた。でも父親の指示に従わなければどうなるか分かっていた。
バチン!
僕の頬は真っ赤に腫れていた。ジンジンする。お父さんは何か言っていたが、何も頭に入ってこなかった。
痛い。
いつもは痛みなんて感じないはずなのに。どうしてなんだろう。
お父さんの顔を見ると目を細めたまま無表情だ。そのまま手を上げると、僕の体は縮こまって動かせなくなる。
「おい、お前誰が泣いていいと言った?」
バチン!
いつの間にか涙が出てきていた。なんだこれ、止まらない。いつもみたいに虚無でいればいいのに。なんで?
あぁ。もう耐えられない。
気づいたらドアを開けて玄関を飛び出し、ただ闇雲に走っていた。
何も考えず裸足で飛び出してしまった。もう何もなかったようには帰れない。なんで僕は泣いてしまったのだろう。取り返しがつかなくなってしまった。
日は暮れて足元が見えない。裸足に石が食い込む。もう踏んだり蹴ったりだ。
怖い。帰ったらまた殴られる。痛い。まだ頬が痛む。そもそもなんで僕はオフロに入りたいなんて言ってしまったのだろう。
今までこの生活が普通だと思っていた。学校では虐げられ、家では殴られ、脅され。でも虚無でいられた。普通だと思えていたからだ。みんなも同じように苦しんでいると心のどこかで信じていたからだ。
でも違った。僕が不運なだけだった。
当たり前の人は僕の不運の苦しみを一ミリも知らない。感じない。興味がない。僕が不運で苦しんでいる間ものんきに「普通の生活」を送っているんだ。
僕が生まれながらにして手に入れられなかった普通を、当たり前のように思っているんだろう。なんで僕だけ苦しまなくちゃならない。
なんで?
明白だ。父親のせいだ。僕が幼くして亡くなった母親のせいだ。虐めた小学校の頃の同級生のせいだ。僕に普通の生活を教えたユウキのせいだ。
こんな感情は初めてだ。頭がかっと熱くなる。はらわたが煮えくり返っていた。
僕はただ当たり前の生活をしたかった。その楽しさを知った。でもほど遠く感じる。みんなのスタートラインは、僕には一生かけても届かないようなあるかも分からない宇宙の彼方に感じる。
「あぁ。死んでくれないかな……」
心の中、ずっと胸の奥からすっと何かが飛び出てくるような感覚がした。
『そう思うなら殺せばいいじゃないか』
頭の中で声が響いた。
「……!」
幻聴か? いや、もっと生々しい。
『消えてしまえばいいんだよ。何もかも』
「……は?」
遂に僕の頭はいかれてしまったのだろうか。怖くなる。
『そうすればきっと楽になる』
「そういう問題じゃない。それは常軌を逸しているじゃないか」
『僕の言う常軌ってなんだい? 僕はもともと普通じゃないじゃないか?』
確かに僕は普通じゃない生活を送ってきたかもしれない。でも「そういうことじゃない」と僕の本能は訴えている。
『かわいそうに。君は自分を肯定できないんだ』
違う。これは僕じゃない。
『それならボクが代わりに殺してあげるよ』
瞬間、背筋が凍る。とっさに後ろを振り返る。何もいない。でも何かがいた気がする。何か嫌な予感がする。
息が早くなる。頭の中で危険信号が鳴り響く。
僕は怖くなった。家に向かって走り出した。
きっと僕は疲れているんだ。早く帰らなくちゃ。僕が僕でなくなる気がする。
きっと何もなかったんだ。家に帰ればまたお父さんがいて僕を殴るだろう。朝になればまた学校に行って、ユウキと話して……。
家の前に立つ。なぜだろう。人気を感じない。
ゆっくりと扉を開ける。ギーっと耳障りな音が鳴る。
電気が奥でチカチカしているのが、すりガラス越しで見える。
暗い玄関。僕はただ、立っていた。
ゴトン! コロン、コロン……
何か音がして何かが僕の足元に転がった。足元がひんやりする。ゆっくりと視線を下げて足元を見る。
それは恐怖で満ちた父の顔だった。
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