最終話:好転反応と平和条約
「グゥ、オォ……ッ!!」
大統領のうめき声が、寝室の防音壁に吸い込まれていく。 俺の拇指(ぼし)は今、彼の腰椎の深層、多裂筋のさらに奥にある「しこり」を捉えていた。
「貴様……何をした……! 核ミサイルのスイッチは……どこだ……!」 「探す必要はない。あんたの脳が発している『攻撃指令』を、今キャンセルしているところだ」
俺は体重を乗せ、圧を一定に保つ。 筋肉が悲鳴を上げ、抵抗する。それはまるで、長年彼が抱え込んできた猜疑心そのものだった。 ボルトフは隣国を恐れ、部下を疑い、自分以外を信じられなくなっていた。その精神的緊張が、この背中を鋼鉄の鎧に変えていたのだ。
「痛い、痛いぞ……! これは拷問だ……!」 「これは『響き』だ。痛みが悪いんじゃない。血が巡り始めた証拠だ」
俺は指の角度を変えた。 凝りの中心核、トリガーポイントを一点突破する。 その瞬間、ボルトフの全身が大きく痙攣した。
「あ――」
彼の脳裏に、走馬灯のような幻覚が溢れ出す。 それは少年時代、故郷の草原で風に吹かれた記憶。 母親に抱きしめられた時の、温かい体温の記憶。 VRゴーグルの冷たいプラスチックの感触ではない。生身の人間が持つ、圧倒的な熱量。
「……暖かい……」 ボルトフの口から、呪詛ではなく、寝言のような言葉が漏れた。 強張っていた肩が、雪解けのように沈み込んでいく。 呼吸が深くなる。酸素が脳に行き渡り、神経伝達物質が正常に分泌され始める。
怒りのホルモンであるアドレナリンが引き、幸福物質セロトニンが満ちていく。 世界を滅ぼそうとしていた殺意が、ただの「眠気」へと変換されていく。
「……私は……何を……怒っていたのだ……?」
ボルトフは虚ろな目で呟いた。 俺は最後に、彼の首筋を軽く牽引し、仕上げのストレッチを行った。 ポキリ、と軽快な音が鳴る。 歪んでいた骨格が、あるべき場所へと収まった音だ。
「終わりましたよ、大統領。視界が明るくなったはずだ」
ボルトフはゆっくりと上半身を起こした。 その表情からは、鬼のような険しさが消え失せていた。彼は自分の肩を不思議そうに回し、窓の外を見た。 夜明けの光が差し込んでいる。
「……体が、軽い。まるで羽が生えたようだ」 「羽じゃない。それが本来のあなたの重さだ」 「私は……電話をかけねばならん。西側の首脳に。今すぐ」
彼はベッドサイドの通信機に手を伸ばした。 核攻撃の命令ではない。平和会談の打診のために。
任務完了だ。 俺は道具を片付け、音もなくバルコニーへと向かった。
「待て。君は……名前は?」
背後から呼び止められる。 俺は振り返らずに答えた。
「ただの整体師だ。……それと、風呂にはゆっくり浸かれよ。今日の交渉は長くなるぞ」
数日後。 地下の店で、俺はニュース映像を眺めていた。 画面の中では、ボルトフ大統領と西側の首脳が、歴史的な握手を交わしていた。 『ゼロ・タッチ条約』の一部改正。外交儀礼における身体的接触の解禁。 世界は少しだけ、温かさを取り戻したようだ。
「……ふん」
俺はテレビを消し、自分の親指を揉んだ。 世界を救ったこの指は、誰からも感謝されることはない。 だが、それでいい。 凝りのある場所に、俺は現れる。それだけの話だ。
鉄扉が開く音がした。 新たな客だ。 俺はタオルを肩にかけ、低い声で言った。
「いらっしゃい。……随分と、重い荷物を背負っているようだな」
(全3話 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます