仕事納めの流れ星

しろうるり

仕事納めの流れ星

「来年もよろしくお願いします」

「よいお年を」


 同僚や上司と挨拶を交わして、わたしは家路につく。

 駅まで10分、電車に乗って30分、最寄り駅からまた10分。定時に職場を出たのに歩きながら見上げた冬の空は真っ暗で、半月手前の月と明るい星だけがまばらに光っている。


 南の空の高いところに、もうすぐ半月になる月。

 東の空に見えるひときわ明るいのが木星。もう少し高く上った赤いのがアルデバラン。北よりの空にはカペラ。

 ふと見上げればそこにある星空は、いつも何かに追われている社畜の心を癒してくれる、遠くて広大なオアシスなのだ。


 マンションの自室に着いて仕事用の鞄を乱暴に置き、コートとスーツを脱いでメイクを落とし、着替える。

 厚手のインナー、その上からフリースのジャケット。車で移動するのだから、アウターシェルはまだあとでいい。

 付け直すメイクも最低限。どうせ鏡の中のわたし以外、誰かに会うようなわけでもない。


 お気に入りのベーカリーで買ってきたサンドイッチとインスタントのスープで夕食を済ませ、ウォーターバッグに水を入れ、アウトドア用のザックに必要なものを詰めて、わたしは家を出た。


 駐車場には愛車が待っている。中古で買った、ひとりで使うにはちょっと大きなワンボックス。あちこち出かけるには便利すぎて、普段使いをあまりするわけでもないのに、わたしはこれを手放せない。2列目のシートはもう全部倒したままで、ポータブル電源やらシングルバーナーのガスストーブやら電気毛布やらシュラフやら、まあつまりはお出かけ用のあれこれを積んでいる。助手席にザックを放ってシートベルトを締め、わたしは愛車を出発させた。


 首都圏のそこそこ便利な街に住んでいても、車で1時間半も走れば街の明かりなどほとんど見えない場所に来られる。ほどよく空いた高速を1時間弱、高速を降りてから30分くらい。湖のほとりの小さな駐車場に、わたしは愛車を滑り込ませた。もともとが穴場的なスポットで、しかも仕事納めの夜。わざわざここに来るような物好きは、わたし以外にはいないらしい。星を眺めたくなった夜、わたしはよくここに足を運ぶ。


 上下のアウターを着込んで外に出ると、刺すような冷気が顔を包み込んだ。風はない。明かりは湖の対岸に、まばらに見えるだけ。車だってほとんど通らない。月はずいぶん傾いている――もうあと1時間2時間で、山に隠れて見えなくなるだろう。

 そうやってしばらくぼんやりと空を眺め、首が痛くなってきたあたりで、わたしはバックハッチを開けた。


 手早くシングルバーナーを取り出して組み立て、ガス缶をセットして火を点ける。低く頼もしい音とともに上がった青い炎の上に、水を入れた小ぶりのケトルを置いた。お湯が沸くまでの間に断熱のマグを取り出して、ドリップコーヒーのパックをセットする。

 沸いたお湯をケトルから注いで、立ち上るコーヒーの香りを深く吸い込んだとき、わたしは「週末」を感じる。何かに、だいたいは仕事に、追われる日常から、そこで「オフ」にスイッチが切り替わるのだ。しっかりと蒸らし、またゆっくりお湯を注いで、断熱マグの蓋を閉める。

 ザックを探って取り出したのは、お気に入りのベーカリーのお気に入りの一品。シナモンロール。甘さ控えめの方が好み、というひともいるけれど、わたしはばっちりグレーズがかかった甘いやつが好きだ。甘いパンはしっかりと甘い方がいい。コーヒーに合うし、寒い時期には甘い方がいい。カロリー? 知らないことばですね。

 シナモンロールをひとかじり。期待通りの甘さに口角が上がる。シナモンの香りが鼻に抜けるのを楽しみながら飲み込んで、コーヒーを一口。いい香りと、そして熱が喉を通り過ぎてお腹に落ちていく。外で食べる夜食とコーヒーは、なぜだか家や会社のそれよりも美味しく感じる。食べて飲んでを交互に繰り返すこのひとときは、だから幸せな時間だ。


 仕事や仕事に繋がるあれこれから自分を切り離したくなったとき、わたしはひとりでドライブに出かける。だいたいこうして車中泊ができる駐車場や道の駅に車を停めて、ちょっとした夜食を食べて、一晩夜空を眺めながらそこで寝る。そうやって自分をリセットする週末があって、わたしは社畜のわたしに戻っていける。


 ふと、コーヒー以外に持ってきたもののことを思い出して、わたしはもう一度ザックを漁り、いくつかの品を取り出す。ウィスキーを入れたスキットル、生クリーム、スティックシュガー、小さなミルクフォーマー、マグをもうひとつ。

 お湯を沸かしなおし、ミルクを軽く泡立て、コーヒーをもう1杯淹れて、スティックシュガーを溶かす。甘くしたコーヒーにウィスキーを注ぎ、その上から泡立てた生クリームを。アイリッシュコーヒー、一度やってみたいと思っていたことだ。一口含むと、甘さと苦さがほどよく口の中で混ざり、なんとも言えないほっとした気分になる。

 香りの強いウィスキーはちょっと苦手だったけれど、こういう形ならするりと飲めてしまいそうだ。

 荷室の端に腰かけて星空を眺めながら、マグをかかえてちびちびと飲む。しばらく時間が経つと、白く泡立っていたクリームはコーヒーと混ざり、カフェオレのような色と味に変わっていった。わたしもほどよく酔ったようで、すこし顔が温かい気がする。


 時間をかけてアイリッシュコーヒーを最後まで楽しんだあと、使った道具を軽く洗い、歯を磨いて、わたしはシートを倒して広くした荷室にエアマットと電気毛布を敷き、その上にシュラフを置いた。その上から、さらに毛布。この時期、保温はどれだけしてもしすぎということはない。


 電気毛布のスイッチを入れてシュラフにくるまり、視線を上に向ける。グラスルーフを通して、星空が見えた。この車を手放せないもうひとつの理由がこれだ。望む場所で、自分のためだけの空間で、星空を眺められる、という。


 北の空、高いところから、ひとつ星が流れた。しばらく経ってからまたひとつ。まばらに、でも普段よりは確実に多く、流れ星が見えている。

 仕事納めのこの時期に、流星群なんてあったかしら、とすこしアルコールに浸った頭で考えて、ああ、と思い出す。


 ――こぐま群かな。


 12月の末頃までの流星群。普段ならば仕事納めの時期には、もう終わっている。土日との兼ね合いですこし早い仕事納めが来た今年の、これはちょっとしたボーナスみたいなものなのだろう。


 まばらに流れる星たちを見上げながら、ぼんやりと願う。


 ――来年は、もう少し穏やかな年でありますように。


 アラームをセットせずに、わたしは目を閉じた。

 今日はしっかり寝て、明日は朝寝坊をして、シナモンロールの残りを食べて。


 山の麓のあたりにある日帰り温泉に寄って、温まってさっぱりして、それからどこかでお昼ご飯を買って、家に帰ろう。

 年末年始の休みが明けたらきっとまた忙しいけれど、それはべつに今考えなくてもいいことだ。


 わたしの、年末が始まる。





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つじみやびさん、お誕生日おめでとうございます!

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仕事納めの流れ星 しろうるり @shiroururi-ky

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