第44話

 五つの供給源を絶ち、地上から魔物の気配を消し去った一行。

 彼らが最後に向かったのは、以前の探索で訪れた因縁の場所――『魔導生物兵器開発研究所』でした。

 重厚な防護扉を抜けるたび、ディオンやエリカの脳裏には、かつて自分たちと死闘を繰り広げた「魔王」の、あの圧倒的なまでの暴力と絶望が鮮明に蘇ります。

 ディオンは、鞘に収めた愛刀の柄を無意識に握りしめました。

 その絶望的な予感は、仲間たちも同じでした。 

 ライナスは杖を握る指を震わせ、バハルは静かに大楯の重みを確かめます。

 しかし、以前と違うことが一つだけありました。

 恐怖でも足が止まらないのです。

 むしろ、この暗く冷たい研究所の空気の中で、隣に立つ仲間の体温や、リニが振る舞ってくれた肉料理の活力が、彼らの心を不思議なほど穏やかにさせていました。

(ああ、そうか……。独りで死ぬのは怖いが、こいつらと一緒なら、たとえここで果てたとしても……案外、楽しい終わりかもしれないな)

口には出しませんが、六人の胸の内には、死をも肯定するような深い信頼と、ある種の清々しい覚悟が共通の認識として宿っていました。


 一行は前回、その禍々しさに本能的な危機感を覚え、あえて立ち入らなかった研究所の最深部――「極秘研究エリア」へと足を踏み入れました。

 長い長い通路を歩き続けます。

 そこにあったのは、かつての白亜の都市の文明すら超越した、異常な光景でした。

「……何よ、これ。冗談でしょう……?」

 アルベローゼの声が、静寂に包まれた広大な空間で震えました。

 目の前にそびえ立つのは、直径40ガルイ(約40m)、高さ400ガルイ(約400m)にも及ぶ、天を突くような巨大な円筒形の大水槽。

 不気味な緑色の培養液に満たされたその中では、あの日、一行を絶望の淵に追いやった「魔王」の原型――『アニマ=ゼロ』が、なんと七体も静かに回遊していたのです。

 供給源が断たれたためか、それとも未完成ゆえか、それらは眠っているように見えます。

 しかし、その一体一から放たれる質量感のあるプレッシャーは、水槽の分厚い壁を越えて、彼らの精神を直接押し潰そうとしていました。

「……一匹でもあの有様だったのに、七匹……。古代魔導エルフたちは、一体何を創ろうとしていたんだ」

 ライナスが、自分たちがいかに「神の領域」の火遊びに踏み込んでしまったかを悟り、冷や汗を流しました。

 エリカは、水槽を見上げながら静かに呟きました。 「エネルギーの供給は止まったはず。でも、この水槽はまだ『生きている』わ。アル。もしかして、ここはほかの動力で動いているの?……」

 アルベローゼが呟きます。

「……わからない……わからないよ」


 水槽を照らす薄暗い光の中で、ディオンが仲間たちを振り返りました。

 その瞳には、かつての紅い濁りではなく、仲間と共に地獄の底まで歩むことを決めた、人間の強靭な光が宿っていました。

「行こう。この水槽を壊し、七匹の『魔王』が目覚める前に、この悪夢に幕を下ろすんだ」

「ええ。蟹……じゃなかった、あのご馳走の後のデザートにしては、ちょっと重すぎる相手だけどね」

 アルベローゼが無理やり冗談を飛ばし、弓を番えました。


 研究所の最深部。七体の『アニマ=ゼロ』が回遊する巨大水槽を前に、ディオンの復活した愛刀、そしてエリカの極大魔法が放たれました。しかし、空間を震わせる轟音のあと、水槽の表面には傷一つ付いていません。

「……嘘でしょ。私の次元の矢すら弾かれたわ」

 アルベローゼが、水槽の表面に浮かび上がった冷徹な発光文字を凝視し、その顔を蒼白にさせました。

「みんな、止めて! 無駄よ、この表面を叩いても意味がないわ! ここに書いてある……。『魔法無効化シールド展開中』それにこれは! 『記憶ダウンロードシークエンス:終了まで2時間』。 さらにその下……『完全物理シールドコーティング作動、有効時間終了まで22時間』。 『アニマ=ゼロ物理魔法シールドコーティング開始まで19時間』今のこの水槽は、この世のどんな理屈も通さない『絶対不可侵のゆりかご』よ。しかも、もしこのままダウンロードが終わったら……」

 アルベローゼの指差す先、水槽のモニターには、古代魔導エルフ文明のリストにあった「かつての政治家たち」の名が次々と表示されていました。その狡猾なエゴや支配欲といった醜悪な記憶の断片が、アニマ=ゼロたちへ注ぎ込まれていく工程が、止まることなく進んでいます。

「……あと19時間。それまでにこの装置を壊さない限り、地上は七体の、知性を持った最悪の魔王に支配されることになる……!」

 絶望的な解析結果。

 しかし、その巨大な円筒の傍らで、もう一つの小さな水槽が脈動を始めました。

『アニマ=ゼロ発生シークエンス完了。個体を大水槽へ移送します』。

「八体目……!? まだ造っていたのね」

 エリカが鋭くその小水槽を見据えました。「……ねえ、これしかないわ。あの小水槽から大水槽へ移送される瞬間、そこを突いて、私たちも小水槽から大水槽の内部へ潜り込むのよ! 外から壊せないなら、中からやるしかない!」

「無茶だエリカ! 中に入ってどうするんだ!」 ライナスの叫びに、エリカは不敵な笑みを浮かべました。

「内部から直接、アニマ=ゼロを全部叩き潰すのよ。私が高密度の魔導障壁を張って、一時的に『魔導水』の汚染からみんなを守るわ。……でも、制限時間は長くても15分。それを少しでも超えたら、障壁が溶けて、私たちは精神を汚染されて――全員、精神をやられて終わりよ。でもやるしかないの、今ここで!」

 ディオンは仲間たちの顔を一人ずつ見渡し、穏やかに、しかし鋼のような決意を込めて言いました。 「…いいね。死ぬのは怖いが、君たちと一緒なら、案外楽しい最期になるかもしれないな」

 ディオンが愛刀を構え、全員が「今この瞬間にすべてを賭ける」という意思を共有した、その時でした。


 移送のカウントダウンが始まります。

 小水槽のハッチが開き、八体目の「なり損ない」がパイプへと吸い込まれようとした瞬間、バハルが叫びました。

「あー、クソっ! こんな細ぇパイプ、俺の盾と体が入るわけねえだろ!」 彼は「真っ先に自分が入る」という作戦を完遂するため、真っ先に小水槽を大楯で叩き割りました。

 さらにパイプにその身を委ねて大水槽に行こうとしますが、異物フィルターが邪魔して入れません。そこで無意識に「道」を広げようとしたのです。

「せいやぁぁぁぁ!!」

 職人魂の結晶である大盾が、移送パイプの接合部に突き刺さりました。

ガゴォォォォォン!!

 バハルの放った規格外の衝撃は、「接続部の唯一の弱点」を完璧に破壊しました。

 次の瞬間、世界が爆発したかのような衝撃が一行を襲いました。

 完全防御を誇っていたはずの大水槽が接続部から一気に崩壊し、直径40ガルイ(40m)、高さ400ガルイ(400m)分の莫大な水圧が、たった一つの穴から猛烈な勢いで噴出したのです。

「うわあああぁぁ!!」

 六人は濁流に飲み込まれ、研究所の床へと激しく叩きつけられました。

 数分後、あれほど巨大だった大水槽は空っぽになり、床には大量の魔導水と共に、八体の『アニマ=ゼロ』が転がっていました。

「……ゲホッ、ゴホッ! ……何よ、今の……」

 アルベローゼが濡れた髪をかき上げ、顔を上げました。

 そこには、政治家たちの記憶のダウンロードを強制中断され、水槽という保護膜も失って、床の上で「ぴちぴち」と無様に跳ねる、八体の魔王のなり損ないたちがいました。

「……結果オーライ、かな?」

 バハルがバツが悪そうに頭を掻き、濡れた大斧を担ぎ直しました。

 ディオンが立ち上がり、目の前で跳ねる「悪夢の根源」を見据えます。

「いや、最高の攻撃だ」

「ああ。制限時間も、魔王が完成する心配も無くなった。……リニ、体力はまだ残っているかい? 最後の掃除を始めよう」

「はい! もちろんです!」

 リニが槍を構え、六人は無防備に転がる八体の「仇敵」へと、一歩を踏み出しました。


 大水槽から解き放たれ、無様に床で跳ねていた「なり損ない」たちへ、容赦のない追撃が加えられました。

「逃がさないわ!」

 エリカが杖を振り抜き、至近距離から火線を放射。

 同時に、バハルの大斧が一体を両断し、リニの槍が正確に急所を貫きます。

「せいっ!」「これで終わりです!」

  一瞬のうちに、八体のうち四体が、断末魔すら上げられずに肉塊へと変わりました。

 しかし、研究所のシステムは、この致命的な状況すら予測に組み込んでいたのです。

『――緊急事態発生。個体数低下を検知。強制合体シークエンス作動――』

 研究所の天井から、見たこともないほど高密度のレーザー光線が、残った四体のアニマ=ゼロへと降り注ぎました。

「な、何!? 肉が……溶けて繋がっていく……!」

 アルベローゼが目を見開きました。 レーザーを受けた四体の個体は、急激に細胞を肥大化させ、お互いを貪り食うようにして一つへと溶け合っていきます。

 かつての「魔王」すら矮小に思えるほどの、巨大で禍々しい単一の生命体へと。

 それと同時に、頭上から凄まじい駆動音が響き渡りました。

「……っ、上を見て!」

 ライナスの叫びに従い、一同は天を仰ぎました。

 大水槽の上空、広大な暗闇から、数え切れないほどの自律型ドローンが、雲霞のごとく溢れ出してきたのです。

『修復シークエンス作動。外壁再構築完了まで、あと330日』

 何千、何万というドローンから放たれる修復レーザーが、バハルが叩き壊した外壁を、再構成するべく光の網を織り成していきます。

 

「400日以上もかけて直すつもり!? そんなの、待ってあげる義理なんてないわよ!」

 アルベローゼがドローンに向けて矢を放ちますが、システムはもはや彼らを無視し、ただ「再建」という目的のために狂ったように機械を動かし続けています。

「……合体したあいつが完成する前に、この場所ごと完全に消し去るしかない」

 ディオンが、膨れ上がる肉の塊を見据えました。

 強制合体によって生み出されようとしているのは、政治家たちの欲望を煮詰めた知性と、四体分の質量を併せ持つ「真なる終焉」の姿でした。

「修復が終わるまで何日かかろうと関係ない。……今、ここでこいつを仕留めれば、その時間は永遠に訪れないんだ」

 バハルが斧を握り直し、エリカとリニも、合体し続ける巨躯の化け物を見定めました。


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