最果ての海に、蝶は舞う〜始まりの潮風と異形の意思〜
うなぎかご
第1話
窓の外から聞こえる潮騒の音が、今夜も耳障りだった。
アイナル村の夜は、都会の魔導学園や喧騒の王都とは比較にならないほど静かだ。
だからこそ、静寂の隙間を埋めるように響く「それ」が、エリカの意識を鋭く削っていく。
(……殺せ。すべて、壊してしまえ)
奥歯を噛み締め、エリカは寝台のシーツを真っ白な指が裂けるほど強く握りしめた。
二十一歳。
女王直轄魔導師団というエリートの肩書きを捨てて、逃げるようにこの辺境の故郷へ戻ってきてから数日が経つ。
けれど、かつての恩師イゾルデが守った教壇を継ごうとする彼女の心根をあざ笑うように、内なる「異形の意思」は夜ごとにその質量を増していた。
魔力を行使すればするほど、その殺意は純度を増し、彼女の輪郭を侵食する。
親友のはずだった師団の同僚にも決して言えなかった。
自分が、正義をなすべき魔導師の手で、無辜の民を切り刻む幻想に酔いしれているなど。
ふと、エリカは寝台の横に置かれた古い手鏡を手に取った。
鏡の中に映る自分の瞳が、一瞬だけ、自分のものではない不気味な光を宿した気がして、彼女は鏡を伏せた。
――あの日から、すべては狂っていたのだ。 三歳の時、教会の祭壇でのたうち回ったあの日。
突然発狂した幼い自分を救うため、ライナスの母、セレスティナは命を賭した。
悪霊を何かしらの方法で鎮め、その代償として彼女は還らぬ人となった。
恩人の命を喰らって生き延びた、この命。
その後を追うように死んでいったライナスの異母弟ディオンの母、イゾルデ。
彼女も悪霊を鎮めて命を落としたと聞いた。
優しくて天然な村の人気者の先生イゾルデ。
私も大好きでお姉さんにしたいと願った。
彼女たちの慈愛によって繋がれたはずの人生なのに、今の自分の中にあるのは、世界を呪い、すべてを無に帰そうとする悍ましい飢えだけ。
「……ごめんなさい、セレスティナ様。……イゾルデ先生……」
窓から差し込む月光に、エリカの頬を伝う一筋の涙が光る。
夜風に乗って、微かに潮の香りが届いた。
私達幼馴染の住む村アイナル。
明日には、ディオンと顔を合わせなければならない。
彼らが命を賭して守り抜こうとしているこの平和な村で、自分という怪物がいつ目を覚ますのか。
ディオンは私と一緒。
悪霊は彼と私の中に住んでいる。
エリカは震える手で胸元を抑え、遠く、明日から始まる最果ての旅に思いを馳せた。
まだ誰も知らない。
この潮風の旅立ちが、二千年の時を超えた残酷な設計図を書き換えるための、最初の抗いになることを。
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