『盤上のラブレター ―囲碁の王様、将棋の姫を詰みにゆく―』 〜史上最強のストーカーが、囲碁の理論で将棋界を完封する件〜

@melon99

第1話:引退会見は恋の始まり

その日、日本の日曜午前の空気は、 一人の少年の発言によって永遠に変質してしまった。




東京・渋谷、N◯K放送センターの第5スタジオ。 普段は静謐(せいひつ)な『囲碁の時間』が放送されるその場所は、 今、物理的な熱を帯びていた。




数十台のテレビカメラが、一人の少年に向けられている。




一条零(いちじょう れい)、19歳。 史上最年少で囲碁の七冠独占を目前に控えた、現代の「碁聖」。 彼の打つ石は、19×19の路の上に神の幾何学を描くと称えられていた。




「一条先生、本当なのですか! 緊急引退というのは!」




記者の悲鳴のような問いに、零は微動だにせず答えた。 その切れ長の瞳は、レンズの向こう側にある「何か」だけを見つめている。




「はい。今日、この瞬間をもちまして、私は囲碁界を去ります」




スタジオの隅で、N◯Kの役員たちが顔を青くし、あるいは赤くして立ち尽くしている。 囲碁界の至宝を失う。 それは国宝が海外に流出するに等しい損失だった。




「……理由を、理由を教えてください! あなたに並ぶ者は、もはやこの地上にはいないはずだ!」




「理由、ですか」




零は初めて、薄い唇に微かな笑みを浮かべた。 彼は和服の袖から、一台のスマートフォンを取り出した。 画面に映っていたのは、昨日この隣のスタジオで収録された『将棋の時間』の静止画だった。




「昨日、対局の合間にふと隣のモニターが目に入った。そこに、彼女がいたんです」




画面には、九条凛(くじょう りん)四段が映っていた。 女性として史上初めて正棋士の門を叩いた、若き女流四冠。 盤面を睨みつける彼女の横顔は、凛として、しかしどこか凍えるような孤独を纏まとっていた。




「彼女の指した42手目、▲7六歩。驚きました。将棋という81マスの狭い檻おりの中で、彼女の魂はこれほどまでに高く、美しく、そして……ひどく間違った方向に叫んでいた」




記者が呆気にとられて言葉を失う中、零の言葉は加速していく。




「囲碁は面積(地)の取り合いです。チェスは空間の支配です。しかし、彼女の将棋はそのどちらでもなかった。彼女は、王という『一点』を守るために、自らの宇宙を切り刻んで捧げていた」




零は立ち上がり、カメラの一台を真っ直ぐに指差した。




「九条凛さん。君が戦っているその場所は、あまりに狭すぎる。君の隣に僕がいないのは、数学的なエラーであり、宇宙のバグだ。……僕は今から、そのバグを修正しに行く」




「一条先生……まさか、あなたは……」




「今日から、将棋を始めます。彼女を、僕の『面積』の中に迎え入れるために」




静まり返ったスタジオに、零の足音だけが響く。




その様子を副調整室サブで見つめていた制作プロデューサーは、震える手でヘッドセットを握りしめた。




「……全カメ、彼を追え。今の発言をカットするな。テロップを出せ……『史上最強の侵略者、現る』と!」




同刻。 千駄ヶ谷の将棋会館。




対局室で次の対局に向けて詰将棋を解いていた九条凛は、スマホの速報通知を見て、手にしていた銀将を畳の上に落とした。




『囲碁界の至宝・一条零、電撃引退。理由は「九条凛四段への一目惚れ」と宣言』




「…………は?」




凛の唇から漏れたのは、プロとしての矜持(きょうじ)でも、喜びでもなかった。 ただ純粋な、底知れぬ「恐怖」に近い困惑だった。




一方、都内の私立高校。 教室では、スマホを回し見していた生徒たちが絶叫していた。




「おいマジかよ! 零様、引退してストーカーになるってことか!?」 「いや、これは『愛の宣戦布告』だろ! 宇宙のバグだってよ、カッケー!」




将棋という伝統の門が、一人の狂った天才によって、力任せにこじ開けられた瞬間だった。




(第1話・完)

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