割卵

壱原 一

 

子供の頃、父母と安アパートに住んでいた。途中で□が亡くなり、○は仕事で不在がちで、放課後は隣室の先輩住人に夕飯まで世話になっていた。


面倒見が良く穏やかな、独り身の若いアルバイターの人である。


あの人の部屋はがらんとしていて、壁沿いを本棚と絵が埋めていた。本は分厚い布張りで背や表紙に箔押しのある物がほとんど。絵は濃い鉛筆で描かれた白黒の大物ばかりだった。


しかしたら美術や学術の浪人生か何かだったのかも知れない。実態は今も分からない。


自分は下校すると隣室へ帰り、あの人にほぼ付きっ切りで構って貰っていた。宿題を見て貰って、遊んで貰って、夕ご飯を一緒に作り、食べ、お片付けをして自宅へ戻る。


あの人の作ってくれるご飯は美味しく、屡々しばしば○の夕飯とか、翌朝の朝食にと、お裾分けを持たせてれさえした。


自宅と同じ間取りの隣室の台所で踏み台に乗って、他愛ない話をしながらあの人のよどみない調理の手際を覗き込む情景は、両親不在の寂しさがただよう自分の幼少期を、温かな光で照らしている。


*


そうしてあの人と過ごす一方、進級に伴うクラス替えを経て暫くの事。


自分と級友の1人とのささやかで対等だった筈の摩擦が、周囲の連動により込み入って激化し、単身劣勢におちいって、寝ても覚めても気のふさぐ日が続くようになった。


落ち込むし不安だし腹が立つし、悲しく恨めしく居心地が悪い。がんとして登校し続けたが、心身の反応は如何いかんともし難く、陰気なしかめ面を貼り付けて食が細くなるばかりの自分に、やがてあの人が妙な事を言った。


――今日は特別な卵を食べよう。


夕飯時、台所の踏み台に乗って隣を仰ぎ、消沈してだるい目でうかがうと、あの人は小首をかしげて此方こちらを見下ろしていた。


シンク前の窓の上辺にともる、流し元灯の白光を受けて、平板にならされた顔面に、辛うじて残った眼窩がんか鼻梁びりょうの陰影が、簡略化された似顔絵の如くぼやっとにじんでいた。


――これをするつもりはなかったけど、とても見ていられないから特別な卵を食べてほしい。


そう続け、調理台にそろえられた用具と食材の中から、白い鶏卵を1つ取る。此方へ向けて差し出し、もう片方の手の人差し指を上部の端へ添えた。


いで、


たま ごに めは なを かいた よう


言いながら水平に2本、短い線をなぞり、すぐ下にも2本、同様になぞる。


縦中央の辺りへ垂直に1本、短い線をなぞり、最後にその下へ1本、水平に短い線をなぞる。


卵に目鼻を描いたよう


両の眉と目と、鼻と口を、卵の表面へ描くように、点々と言葉を区切りながら、6本の線をなぞって見せる。


――**の元気や明るい気持ち、取っちゃう人が居るでしょう。その人の顔を思い浮かべて、此処にうつしてみてごらん。


調理前に洗って拭いた、冷たく湿る薄い手が、するりと此方の手を取って、人差し指を残して覆い、握って、卵の表面へ運ぶ。


――ね。**を大好きだよ。こんな風にさせるの許せない。簡単だからってごらん。


たま ごに めは なを かいた よう


導かれて線をなぞる間、重くにぶった頭に、あの人の優しい声と言葉が、力強く、熱く、ひたひたと沁みた。


「たま、ごに、めは、なを、かいた、よう」


そのうち自分で唱えていて、思い浮かべて、なぞっていた。


お互いだけの問題だったのに、他の子達を味方にするのひどい。


仲直りしたくて謝ったのに、他の子達と目配せをして、真似をしながら笑い合って、無かった事にするのひどい。


お□さんが死んでいるとか、お○さん授業参観に来ないとか、そういう関係ない事を、一々しつこく持ち出すのひどい。


どうしてこんなひどいことするの。あんなに仲良くしてたのに。友達だと思ってたのに。


もう□のこときらい。


白い卵の表面を見詰め、脳裏に級友を思いつつ、あの人の手にひたりと包まれ級友の顔をなぞっていると、もつれた感情がほどけて、さらさら流れる感じがした。


少しずつ息がゆるまって、ほっとして肩の力が抜け、段々体が温まり、次第に涙があふれてきた。


ぐすぐすしゃくりに震えながら、戦慄わななく口で唱え、なぞり、結局5、6度した位で、自分が落ち着き、静止すると、あの人は手を離して此方の肩を抱き、「頑張ったね」となだめて呉れた。


そうして卵を引っ込めて、調理台へ向き直り、ガラスボウルを引き寄せる。


ふちへ音高く卵を当てて、片手で割り開き、落とし入れた。


かんかん


ぱしゃ


くちゃ


白い殻がひしゃげて崩れ、割り開かれた内側から、中身が露出して垂れ落ちる。


余りに淀みなく割られたので、直前まで投影していた物まで割れて仕舞ったように感じられ、思わず手を握りたじろいだ。


あの人は此方へ目配せして、ひっそりと忍び笑いを浮かべ、「取られたの、返して貰おうね」と声を潜めて囁いて、そのまま夕ご飯を作った。


卵は菜の花と豚肉のかぐわしい炒め物になり、自分は久し振りに空腹で、とても美味しくて、幸せで、お代わりをしたのを覚えている。


美味しくて幸せな感覚だけ、しみじみ鮮やかに覚えていて、他の事は思い出せない。


くだんの級友とは険悪なまま、進級して別のクラスになり、追々進路が分かれて、消息を知る機会も絶えた。


*


その後、子たる自分の親愛と、当人の長い献身にほだされ、○があの人と入籍した。


あの人は自らの本や絵を何一つ持たず家へ来た。数年、それなりに暮らしたが、自分が進学で家を出る頃には、○と大分不仲になっていた。


過日○から離婚の報告があり、あの人と縁が切れて、良かったと思っている。


○が橋から落ちて亡くなった。


看板の下敷きになった、□の時と同じ様に、顔が割れて仕舞っているらしい。



終.

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割卵 壱原 一 @Hajime1HARA

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