割卵
壱原 一
子供の頃、父母と安アパートに住んでいた。途中で□が亡くなり、○は仕事で不在がちで、放課後は隣室の先輩住人に夕飯まで世話になっていた。
面倒見が良く穏やかな、独り身の若いアルバイターの人である。
あの人の部屋はがらんとしていて、壁沿いを本棚と絵が埋めていた。本は分厚い布張りで背や表紙に箔押しのある物が
自分は下校すると隣室へ帰り、あの人にほぼ付きっ切りで構って貰っていた。宿題を見て貰って、遊んで貰って、夕ご飯を一緒に作り、食べ、お片付けをして自宅へ戻る。
あの人の作ってくれるご飯は美味しく、
自宅と同じ間取りの隣室の台所で踏み台に乗って、他愛ない話をしながらあの人の
*
そうしてあの人と過ごす一方、進級に伴うクラス替えを経て暫くの事。
自分と級友の1人との
落ち込むし不安だし腹が立つし、悲しく恨めしく居心地が悪い。
――今日は特別な卵を食べよう。
夕飯時、台所の踏み台に乗って隣を仰ぎ、消沈して
シンク前の窓の上辺に
――これをするつもりはなかったけど、とても見ていられないから特別な卵を食べてほしい。
そう続け、調理台に
たま ごに めは なを かいた よう
言いながら水平に2本、短い線をなぞり、すぐ下にも2本、同様になぞる。
縦中央の辺りへ垂直に1本、短い線をなぞり、最後にその下へ1本、水平に短い線をなぞる。
卵に目鼻を描いた
両の眉と目と、鼻と口を、卵の表面へ描くように、点々と言葉を区切りながら、6本の線をなぞって見せる。
――**の元気や明るい気持ち、取っちゃう人が居るでしょう。その人の顔を思い浮かべて、此処にうつしてみてごらん。
調理前に洗って拭いた、冷たく湿る薄い手が、するりと此方の手を取って、人差し指を残して覆い、握って、卵の表面へ運ぶ。
――ね。**を大好きだよ。こんな風にさせるの許せない。簡単だから
たま ごに めは なを かいた よう
導かれて線をなぞる間、重く
「たま、ごに、めは、なを、かいた、よう」
そのうち自分で唱えていて、思い浮かべて、なぞっていた。
お互いだけの問題だったのに、他の子達を味方にするのひどい。
仲直りしたくて謝ったのに、他の子達と目配せをして、真似をしながら笑い合って、無かった事にするのひどい。
お□さんが死んでいるとか、お○さん授業参観に来ないとか、そういう関係ない事を、一々しつこく持ち出すのひどい。
どうしてこんなひどいことするの。あんなに仲良くしてたのに。友達だと思ってたのに。
もう□のこときらい。
白い卵の表面を見詰め、脳裏に級友を思いつつ、あの人の手にひたりと包まれ級友の顔をなぞっていると、
少しずつ息が
ぐすぐす
そうして卵を引っ込めて、調理台へ向き直り、ガラスボウルを引き寄せる。
かんかん
ぱしゃ
くちゃ
白い殻が
余りに淀みなく割られたので、直前まで投影していた物まで割れて仕舞ったように感じられ、思わず手を握りたじろいだ。
あの人は此方へ目配せして、ひっそりと忍び笑いを浮かべ、「取られたの、返して貰おうね」と声を潜めて囁いて、そのまま夕ご飯を作った。
卵は菜の花と豚肉の
美味しくて幸せな感覚だけ、しみじみ鮮やかに覚えていて、他の事は思い出せない。
*
その後、子たる自分の親愛と、当人の長い献身に
あの人は自らの本や絵を何一つ持たず家へ来た。数年、それなりに暮らしたが、自分が進学で家を出る頃には、○と大分不仲になっていた。
過日○から離婚の報告があり、あの人と縁が切れて、良かったと思っている。
○が橋から落ちて亡くなった。
看板の下敷きになった、□の時と同じ様に、顔が割れて仕舞っているらしい。
終.
割卵 壱原 一 @Hajime1HARA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます