ギデオンの余白 // 芹沢麻水が解く世界の嘘
西川 解(Nishikawa Kai)
第1話 ギデオン
かつて「通勤ラッシュ」と呼ばれた都市の痙攣は、いまや歴史の教科書の中にのみ存在する死語だった。
近未来、新宿。
街を流れる人々の動線は、コンマ数秒単位で微調整されている。改札を通過する人数、個々のスケジュール、さらには当日の天候や湿度にいたるまで。
膨大なビッグデータを飲み込み、都市という巨大な生命体の血流を完璧に制御しているのは、次世代都市管理AIシステム『ギデオン』だ。
この街に住む人々は、最も目覚めが良い瞬間にアラームで起こされ、体調に合わせた最適な栄養バランスの朝食を提案される。駅へ向かえば、自分の足跡に合わせて最短ルートの列車が滑り込んでくる。
「予期せぬ不運」は駆逐され、すべての出来事はギデオンという巨大な「揺りかご」の中で、あらかじめ約束された正解へと収束していく。
だが、その「正解」がなぜ導き出されたのかを問う者は、この街にはほとんどいない。 ただ一人、ステージの中央に立つ彼女を除いては。
「――以上のアルゴリズム更新により、通報から救急車到着までの平均時間は、都心部において三十二%の短縮を記録しました。これはギデオンによる先行予測がもたらした、具体的な『命の成果』です」
東都学術院大学の大講堂。拍手の渦の中で、
二十六歳。清潔感のあるショートヘアに、前髪をヘアピンで留め、機能性を重視したパンツスーツ。彼女が毎日同じブランドの同じシャツを着回していることは、ごく一部の人間しか知らない事実だ 。
彼女の黒縁の眼鏡の奥にある瞳は、拍手を送る聴衆ではなく、その背後で稼働するシステムの「透明なブラックボックス」を睨みつけていた。
「素晴らしい発表だったよ、芹沢さん。理論だけでなく、実データの裏付けがある。これこそが、我が阿久津研究室の真骨頂だ」
司会を務める教授の絶賛に、麻水はピンを外し、いつもの少し内気な大学院生の顔に戻って「ありがとうございます」と控えめに微笑んだ。最前列では、恩師である阿久津教授が満足げに深く頷いている。
拍手の余韻が残る講堂で機材を片付けていると、阿久津がこちらへ歩み寄ってきた。その隣には、見覚えのある長身の男が並んでいる。 国内最大の通信大手『クロセ・インフォテック』の社長、
「先生、素晴らしい教え子をお持ちですね」 黒瀬は穏やかな笑みを浮かべ、阿久津に厚手の封筒を差し出した。 「これは、次の共同プロジェクトに関する資料と、個人的な礼状です」
麻水は、ふと疑問を口にした。 「黒瀬さん、デジタルではなく紙を渡すなんて意外です。今の時代、データのほうが確実で速いのに」
すると、黒瀬は麻水の方へ一歩踏み出した。香水の香りがふわりと漂う距離。彼は麻水のパーソナルスペースに侵食するように顔を近づけ、悪戯っぽく、しかし有無を言わせぬ温かみのある声で答えた 。
「芹沢さん、人の想いは紙のほうが伝わるんだよ。……それに、紙は焼かない限り、決して消えない物理的な
その言葉に、阿久津も愉快そうに笑って付け加えた。
「彼は事業内容的に無機質だと思われがちだが、実は誰よりも血が通った人間なんだ。テクノロジーの先にいる『人』を、決して忘れない」
黒瀬は謙遜するように肩をすくめたが、その眼差しには慈愛と、底知れぬ計算高さが混在しているように見えた。麻水にとって、ギデオンという「理想」を支えるこの二人は、尊敬すべき先導者だった。
「お疲れさま。君の情熱が、この街をより良く変えていく。期待しているよ」
黒瀬の力強い言葉に、麻水は誇らしさを感じながら、深く一礼した。 だが、その背中を見送る麻水の視界の端に、奇妙なノイズが映り込んだ。
講堂の出口付近。柱の陰に、泥の跳ねたトレンチコートの男が立っていた。 この清潔で最適化された空間にはあまりに不釣り合いな、安煙草の匂いを纏った男。
彼は、和やかに談笑する黒瀬と阿久津の姿を、まるで親の仇を見るような、昏い憎しみを湛えた目で見つめていた 。 男は麻水と目が合うと、興味なさげに視線を逸らし、人混みに紛れて消えていった。
(……今の人は?)
「お疲れ、麻水さん! いやー、完璧なプレゼン。まさに『クエストクリア』って感じでしたね」
背後から能天気な声が響き、麻水は思考を中断された。 隣に立っていたのは、同期の
彼は大手コンサル会社から派遣されてきた、自他共に認める「楽観的な天才」だ。彼にとって、この世界の難題はすべて攻略可能なゲームに過ぎない。
「ありがとう、晴くん。でも、そのお菓子の粉、私の機材に落とさないでよ」
「大丈夫っすよ。僕の指先制御(フィンガー・コントロール)はミリ単位なんで」
晴は器用にチップスを口に放り込み、バリバリと小気味よい音を立てた。彼は咀嚼音で周囲のノイズを遮断し、自分の世界を構築しているのだ 。
「で、どうなんすか? 黒瀬社長の『神対応』は」
「……普通に良い人だったわよ。ただ、少しだけ『紙』へのこだわりが強かったけど」
「へえ。アナログ派か。ま、ラスボスってのは得てして古風なもんでしょ」
晴は冗談めかして笑ったが、麻水は笑えなかった。 彼女は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、自身の端末に表示された複雑なログを、執着に近い誠実な眼差しで見つめ直した 。
「……私は、まだこのデータに満足していないの。中身のわからない箱は嫌いだから」
麻水はまだ知らなかった。
自分たちが磨き上げ、最適化し続けてきたこの「調和された世界」の裏側に、物理法則さえも無視した、冷酷な「空白」が隠されていることを。
そしてその空白が、かつて彼女が憎んだ「無責任なブラックボックス」そのものであることを。
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ギデオンの余白 // 芹沢麻水が解く世界の嘘 西川 解(Nishikawa Kai) @nishikawakai
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