禁書は笑う
カサカナ
禁書は笑う
私は研究室で、また一日を無駄にしていた。
実験が成功すれば、その数万倍……
いや、数億倍もの時間を人から奪う――禁忌。
静かな研究室と違い、外では、
流行り病や教会の権威の失墜などで騒がしい。
そんな状況もお構いなしに、
研究室には、ペンが羊皮紙を削る音が響く。
先生は、奇妙な文字の創作に没頭している。
学者、錬金術師として天才と呼ばれる先生が、
なぜこのようなことを始めたか、
凡人の私にはわからない。
ただ、この計画が始まったのは、
先生が「不死」の研究に失敗してからだ。
現在の私の仕事は、
この世に存在しない植物を描くこと。
私は仕事を全うするだけだ。
「……先生、どう書けばいいか、わかりません」
「適当に植物同士をくっつけておけ。
だが、リアリティは消すんじゃない」
言われるがままに、
植物図鑑に載っている植物同士の部位を
適当に組み合わせる。
キャロットの根にミントの葉、
ユリの花にタンポポの葉。
先生の指示で、植物だけではなく、
根や茎を人体の臓器にした絵も描いた。
その臓器にまで、リアリティを求められる。
慣れてきた頃には、
ふざけて植物の根に人の顔まで書いた。
「まあいい、ヒントぐらいは残してやれ」
先生が怒ると思ったが、無邪気に喜んでいた。
そして、ようやくこの実験が学術的ではなく、
主に社会的に危険であると感じた。
私は乾く喉に唾を飲んだ。
「クク……、へたくそな絵だな」
先生は私の絵を馬鹿にしながら、
机を叩き、高笑いをする。
「わ、私は絵師ではありません!
馬鹿にするなら、もう書きませんよ!」
「馬鹿になどしていない。
これぐらいの絵の方が、ちょうどいい」
その後も、先生の指示で、
天体や女性の湯あみの絵をひたすら描かされた。
絵の下手な私にとって人を描くのは地獄だった。
自分の描いた絵で、私も笑う。
天体の位置も適当だ。測りもせずに描いた。
そんな日々が続く。
「おい、なぜ水を青く塗る!」
色付けになると、先生からそんな指摘もあった。
面倒になり、水の一部を植物で使った緑で塗る。
同時に先生の文字は完成していた。
文字はアルファベットでも数字でもなく、
まるで生き物のように線が絡み合い、
時折小さな渦を描くように見える。
◇◇◇
二年の歳月を使い、手稿はほぼ完成した。
約二百八十頁になる大作。
あとは、手稿にタイトルと著者名を入れるだけ。
「タイトル? 著者名?
それは不要だ。空けておけ」
結局、表紙も背表紙も空白となり、
著者名すら記載はないままに完成した。
触れるだけで心地いい高価な羊皮紙と、
インクの鉄臭い匂いが完成を祝う。
「この手稿は、人類の愚かさを測る実験だ」
と、先生は言った。
「誰が、どうやって実験を観測するんですか?」
私は首をかしげた。
「私だ、と言いたいが……私の子孫たちだ」
先生は子孫に観測を託すつもりだと言う。
だが、私は知っている。
先生に子を産むようなパートナーはいない。
もちろん、私が先生の子を産むなど願い下げだ。
それに先生は齢五十を超えている。
元々、人付き合いが下手で孤独を愛していた。
先生は完成した手稿を開き、
文字を指でなぞりながらつぶやいた。
「これを解読する者は、
きっと一生を費やすだろう……
賢き者ほど、その罠に堕ちる」
その言葉に、私の背筋が凍った。
誰も解読できないと知っていたのだ。
やがて先生は疲れ果て、
目を閉じ、もう二度と起きなかった。
「ああ、私の人生に
……無駄な時間など一秒もなかった」
それが先生の最期の言葉だった。
私は研究室に残された手稿を見下ろす。
先生の書いた文字は、
共に手稿を作成した私にも理解できない。
理解できるはずもない。
ただ、時間の無駄がここにある。
人は無意味なことに、どれだけ時間を費やすか。
その謎は永遠に解かれることはない。
先生も計画も消えた。
残るのは、ただこの手稿だけ。
もし、未来にこの手稿を読み解き、
この計画の全容と知る者が現れれば、
それは、神の領域に達しているのかも知れない。
五百年後、ウィルフリッド・ヴォイニッチが、
この禁書を世に広め、
実験が始動することを、私は知らない――
禁書は笑う カサカナ @t4u
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