第4話:品格ある終焉

『茶寮みやた』の成功は、留まるところを知らなかった。雑誌やテレビでの露出が増えるにつれ、私の元には他の店や企業からのコンサルティング依頼が殺到するようになった。私は法人を設立し、蓮さんとも正式な業務提携を結んだ。かつて橘家の一室でひっそりと行っていた私の仕事は、今や多くのクライアントを抱え、私自身が代表を務める会社へと成長していた。


季節は巡り、あの元旦から一年が経とうとしていた冬の夜。仕事を終えてアパートに戻ると、ドアの前に見慣れた二つの人影が立っているのを見つけた。みすぼらしい、とさえ思えるほど憔悴しきった様子の、康太さんと冨美子さんだった。


「……梓」


私に気づいた康太さんが、か細い声で名前を呼ぶ。その顔は青白く、頬はこけ、私が知っている頃の面影は薄れていた。隣に立つ冨美子さんも、かつての威勢はどこへやら、ただ俯いて肩を小さく震わせている。


「何の御用でしょうか」


私は動揺を一切顔に出さず、静かに問いかけた。驚きはしたが、恐怖はなかった。今の私にとって、彼らはもはや過去の人間でしかなかったからだ。


私の冷静な態度に、康太さんは一瞬言葉に詰まったようだった。やがて、意を決したように一歩前に進み出ると、その場に土下座をした。


「梓、頼む! 橘花堂を……店を、助けてくれ!」


隣で冨美子さんも崩れるように膝をつき、嗚咽を漏らしながら頭を床にこすりつける。


「梓さん……私たちが、私たちが愚かでした……! あなたの力を、どうか、どうか貸してください……! このままでは、百年続いた暖簾が、私たちの代で……!」


予想していた通りの展開だった。橘花堂の経営がいよいよ立ち行かなくなったのだろう。近所の噂では、店の土地建物を担保にした借金も限界に達し、近々手放さざるを得ない状況だと聞いていた。プライドを捨て、なりふり構わず、私に泣きついてきたのだ。


もしこれが一年前の私だったら、この光景を見て少しは心が揺れたかもしれない。だが、今の私は違う。


私は二人を見下ろしたまま、静かに口を開いた。


「お断りします」


その声は、自分でも驚くほど穏やかで、揺るぎなかった。


「な……なぜだ! 君は、この橘家の嫁だったじゃないか! 少しぐらい、恩を返そうという気持ちはないのか!」


顔を上げた康太さんが、信じられないというように叫ぶ。その言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。恩? 私がこの家から受けたのは、恩などという美しいものではなかったはずだ。


「康太さん。私はもう、橘家の人間ではありません。離婚調停も先日、ようやく合意に至りました。慰謝料も財産分与も、当初の請求額からずいぶん譲歩させていただいたつもりですが」


弁護士の沙耶には「甘すぎる」と呆れられたが、私は最低限の生活費と、私が家計に入れた分の返還さえ受けられればそれで良かった。過去にいつまでも固執して、彼らからさらに何かを搾り取ろうとは思わなかったのだ。


「それに……」


私は言葉を続けた。


「私のお仕事は、おかげさまで、今では数ヶ月先まで予約でいっぱいですので。新規のクライアント様をお受けする余裕は、残念ながらございません」


にこり、と完璧なビジネススマイルを浮かべてみせる。それは、私がクライアントとの打ち合わせで見せる、プロとしての顔だった。


そして、私は凍りついたように動かない冨美子さんに視線を向け、最後の仕上げとばかりに、ゆっくりと告げた。


「何より、私のやっていることなど、ただの『道楽』に過ぎませんから。歴史ある橘花堂様のお役に立てるはずもございませんわ」


その言葉を聞いた瞬間、冨美子さんの顔が絶望に染まるのを、私ははっきりと見た。かつて彼女が私に投げつけ、私の尊厳をズタズタに引き裂いた言葉。それが今、時を経て、何倍もの重さを持った刃となって、彼女自身に突き刺さったのだ。


「あ……あ……」


冨美子さんは意味のない声を発し、がくりと肩を落とした。康太さんも、もはや何も言えず、ただ呆然と私を見上げている。


彼らは、ようやく理解したのだろう。自分たちがどれほど愚かで、取り返しのつかない過ちを犯したのかを。私という存在の価値を認められなかったその代償が、店の、そして自分たちの人生の終焉という形で訪れたことを。


私は彼らに背を向け、アパートの鍵を開けた。


「お引き取りください。寒いので」


ドアを閉める直前、康太さんが絞り出すような声で言った。


「梓……悪かった……本当に、すまなかった……」


その謝罪の言葉に、私の心はもう少しも動かなかった。遅すぎたのだ。何もかもが。


暖かい自室に戻り、私はコートを脱いで大きく息を吐いた。スーツケースの奥底にしまい込んでいた、あのネックレスの入った小さな箱を取り出す。そして、今度は迷うことなく、それをゴミ箱にそっと捨てた。過去との、完全な決別だった。


窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


後日、橘花堂は人手に渡り、その跡地には洒落たカフェが建ったと風の噂に聞いた。冨美子さんと康太さんがその後どうなったのか、私は知らないし、知ろうとも思わない。


私の復讐は、終わった。誰かを罵倒するのでも、物理的に殴るのでもなく、ただ、自分の価値を証明するという、最も知的で、最も品格のあるやり方で。


私はこれからも、自分の力で道を切り拓いていく。蔑まれた私の「道楽」は、今や私の人生そのものを照らす、何よりも確かな光なのだから。

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蔑まれた私の「道楽」で、老舗の暖簾を下ろさせていただきます ~見下した嫁は、人気店の仕掛け人でした~ @jnkjnk

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