北の辺境ギルドに、世界を救った竜人姫騎士様が「隠居したい」と押しかけてきたのですが。
みやび
プロローグ
第1話 騒がしい英雄様の来訪
帝国の地図を広げたとき、一番上の端っこ。
そこに指を置いた場所が、私の住む街「ノースエンド」だ。
名前の通り、ここは北の果て。帝国の版図において、人が定住しているギリギリの境界線と言っていい。一年の半分は雪に閉ざされ、吐く息は常に白く、窓ガラスは分厚い氷でコーティングされる。
そんな極寒の地にある冒険者ギルドには――今日も閑古鳥が鳴いている。
「……今日も静かねぇ」
私は頬杖をつき、年季の入ったオーク材のカウンターに突っ伏した。
視線の先には、誰もいないギルドホール。
高い天井に、煤けた梁。壁には討伐依頼の張り紙が数枚貼られているが、その紙は湿気と乾燥を繰り返してカピカピに波打っている。
暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、その音だけが広い空間に反響していた。
ギルドマスターである父さんは「腰が痛い」だの「古傷が疼く」だのと言い訳をして、奥の執務室にあるソファで高いびきをかいている。
つまり現在、この広々とした(そしてボロい)ギルドを管理しているのは、私一人だ。
私の名前はアリスというのだけれど、街の顔なじみ達は皆「受付ちゃん」とか呼ぶ。
まあ、この町唯一のギルド唯一の職員だから、固有名詞なんて必要ないのかもしれない。
「…………」
私はカウンターに頬を押し付けたまま、ぼんやりと窓の外を見た。
分厚いガラスの向こうは、白一色の世界だ。
今日は朝から猛吹雪。
街の通りを歩く人の姿はなく、時折、風の唸り声が家屋を揺らす音が聞こえるだけ。
普通なら、客が来ないことに焦ったり、経営を心配したりするべきなのだろう。
でも、私はこの時間が嫌いじゃなかった。
しん、と静まり返ったホール。
外の過酷な寒さを、壁一枚隔てて安全な場所から眺める優越感。
手元には、温かいハーブティー。
この世界の果てで、私だけが時が止まったような空間にいる。この静寂と安らぎが、どうしようもなく好きなのだ。
私はド田舎でさびれたこの場所を、私なりに愛している。
「ま、今日も誰も来ないでしょ」
冷めかけたハーブティーを一口啜り、読みかけの小説を開こうとした、その時だった。
バンッ!!
「――はい?」
ギルドの重厚な扉が、まるで巨人に蹴られたような音を立てて開いた。
同時に、外から「ヒョオオオオ!」と凶悪な吹雪が吹き込んでくる。
カウンターの上の書類が舞い、店内の空気が一瞬にして数度下がった。
「ちょっと! 扉はすぐ締めて!」
私は反射的に文句を言いながら立ち上がった。
けれど、雪煙の中から現れた人物を見て、口をつぐむことになる。
「っぷはぁーっ! やっと着いた!」
入ってきたのは、銀色の髪をした少女だった。
キラキラと輝く長い髪。その隙間から、純白の硬質な「角」が二本生えている。
背中には、折り畳まれた蝙蝠のような「翼」。
そして腰のあたりでは、太くたくましいトカゲのような「尻尾」が、ゆらりと揺れていた。
竜人族(ドラゴニュート)。
それだけでも珍しいのに、私が言葉を失ったのはそこじゃない。
「やっぱ北国は最高だね」
少女が、心底気持ちよさそうに伸びをした。
その格好だ。
彼女は、胸元が大きく開いたインナーに、短いボトムスだけという、南国の踊り子のような恰好をしていた。
二の腕も、お腹も、太ももも、全部出ている。
ここはノースエンドだ。外の気温は氷点下二桁。
普通の人間なら、その格好で外に出れば数分で低体温症になる。
「……あー、いらっしゃいませ?」
「うん、こんにちは!」
少女はブーツについた雪をトントンと落とし、カウンターへ歩いてくる。
年齢は私より年下だろうか。まだ未成年に見える。
身長は私より低いのに、出るところは出ている。特に胸と尻。
「あのさ、お客さん。ここ、暖房効いてるとはいえ大丈夫?」
「ん? なんで?」
「なんでって……その格好。寒くないの?」
私は思わず、彼女の太ももあたりを指さしてしまった。
見ているこっちが寒くなる露出度だ。
すると彼女は、自分の二の腕をぺたぺたと触り、不思議そうに首を傾げた。
「全然? ボク、体温高いからさ」
「……はあ」
「竜人はみんなそうなんだよ。常に体熱いから、これくらい涼しい方が調子いいんだよね」
少女はニカッと笑った。
本気か、こいつ。
いくら体温が高いと言っても限度があるだろう。雪の中で水着みたいな恰好をして「調子いい」なんて言う奴、初めて見た。
「で、ここが冒険者ギルドだよね? 登録お願いしたいんだけど」
「ええ、やってるわよ。身分証はある?」
「あるある。はい、これ」
彼女が無造作にポケットから取り出し、カウンターにカァンと放り投げた。
それは、白金(プラチナ)で作られたプレートだった。
『氏名:アンジェリーナ・ドラクリア』
『種族:竜人(皇族)』
『称号:魔王討伐の聖女』
私は数回瞬きをして、もう一度文字を読み直した。
変わらない。
アンジェリーナ・ドラクリア。
帝国の第一皇女にして、半年前に魔王を単身で討ち果たした英雄。
こんな辺境でも有名な、吟遊詩人にも歌われる人間だ。
「…………」
私はゆっくりと顔を上げ、目の前の少女を見た。
カウンターに肘をつき、退屈そうに銀色の尻尾をパタンパタンと床に打ち付けている、露出の多い少女。
「……これ、本物?」
「あはは、偽造だったら今頃ボクの首、飛んでるよ?」
「まあ、そうでしょうけど」
私はこめかみを軽く押さえた。
言われてみれば、この角も翼も、そしてこの異常なまでの「寒くなさそう」なオーラも、只者ではない証拠だ。
「じゃあ、本物のアンジェリーナ様?」
「うん。でもその名前長いからヤダ。アンジェでいいよ」
「アンジェ様、ね」
「様もヤダ。アンジェにして」
「はいはい、アンジェね。それで皇女殿下がなんでまた、こんな最果ての寂れたギルドに?」
「んー、なんかねー。疲れちゃったんだよね」
アンジェはカウンターにあったクッキー(父さんの非常食だ)を勝手に一枚つまみ、サクサクとかじりながら言った。
「政治とか、お見合いとか、舞踏会とか? そういうの全部めんどくさくなっちゃって。だからパパ……皇帝に言ってきたの。『ボク、もう働かないよ! 隠居してスローライフ送るから!』って」
「……隠居」
「そう。ここなら誰も来ないし、涼しいし、最高じゃん? だからボク、今日から一般人ね。よろしく、受付ちゃん」
15歳の、しかも世界を救った聖女が言うセリフだろうか。
私は小さくため息をつき、新しい登録用紙を取り出した。
「話が早くて助かるわ。私はアリス。みんな受付ちゃんって呼ぶからそれでいいわ」
「おー、よろしく受付ちゃん!」
アンジェはサラサラと書類にサインをしていく。
字は綺麗だが、筆圧が強すぎて紙が破れそうだ。
「よし、これでボクもギルドメンバーだね! あとは宿かぁ」
「宿?」
「うん。住むところ探さないと。ねえ受付ちゃん、いい宿知らない? ご飯が美味しくて、お風呂が広いところ!」
アンジェは身を乗り出し、期待に満ちた目で私を見つめてくる。
私は申し訳なさそうに眉を下げた。
「残念だけど、この街に観光客向けのいい宿なんてないわよ」
「えっ、ないの?」
「うん。一軒だけ『白熊亭』っていう宿があるけど……お風呂は樽にお湯張っただけだし、ご飯も干し肉のスープくらいしか出ないわね」
「うげぇ……マジかぁ」
アンジェがガクッと項垂れた。尻尾もあからさまにシュンと垂れ下がる。
世界を救った英雄に紹介するには、あまりにも粗末な宿だ。
「お風呂かぁ……ボク、翼があるからさ、狭いお風呂だと洗いにくいんだよねぇ。足伸ばして入りたいなぁ……」
「まあ、そうよねぇ。翼があると大変そう」
「都のお城のお風呂はプールみたいに広かったのになぁ……」
ブツブツと文句を言うアンジェを見ていると、なんだか少し可哀想になってきた。
私はカップに残ったハーブティーを飲み干し、つい余計なことを口にしてしまった。
「この街で広いお風呂なんて、このギルドくらいしかないものねぇ」
「え?」
アンジェがパッと顔を上げた。
「ギルドにお風呂あるの?」
「あるわよ。昔、ここは対魔獣戦線の砦だったから、兵士たちが一斉に入れる大浴場があるの。無駄に広いし、お湯も沸かし放題だけど……今は私と父さんしか使ってないから」
言い終わった瞬間、しまった、と思った。
アンジェの青い瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように輝いたからだ。
「……受付ちゃん」
「な、なに?」
「ここ、空き部屋ある?」
「え? まあ、元砦だから腐るほどあるけど……」
「決定!」
アンジェはカウンターをバン! と叩いて立ち上がった。
「ボク、ここに住む!」
「はあ!? いやいや、ここは宿屋じゃないんだけど!?」
私は慌てて手を振って拒否した。
冗談じゃない。静寂を愛する私の職場兼自宅に、こんな騒がしい皇女様を住まわせるなんて。父さんだって許すはずがない。
「それに、うちは一般人の下宿なんて受け入れてないの。皇女様をお泊めするような設備もないし、お断りよ」
「えー、いいじゃん! 部屋余ってるんでしょ?」
「ダメなものはダメ。規則だもの」
「家賃払うからさ」
アンジェは腰の袋をごそごそと弄り、何かを取り出してカウンターに置いた。
コトリ、と重い音がする。
「これでどう? 一ヶ月分」
差し出されたのは、革袋に入った金貨だった。
ちらりと中身が見える。
……金貨だ。しかも、帝国発行の最上位硬貨、王金貨(ロイヤルゴールド)が、少なくとも十枚は入っている。
「……」
私は息を飲んだ。
このさびれたギルドの、半年分……いや、一年分の運営費に匹敵する額だ。
屋根の修理もできるし、暖炉の薪も高級なものに変えられる。父さんの腰痛の薬だって、最高級品が買える。
「……一ヶ月で、これ?」
「うん。足りない? じゃあ倍出すよ」
アンジェはこともなげに言い放ち、もう一袋取り出そうとした。
「ま、待って!」
私は慌てて彼女の手を止めた。
喉がゴクリと鳴る。
静寂な生活は魅力的だ。誰にも邪魔されない、穏やかな日々。
しかし、目の前には、屋根の雨漏りを直し、隙間風を塞ぎ、美味しい茶葉を一年分買ってもお釣りが来るだけの大金がある。
私は、愛する静寂と、現実的な生活の向上を天秤にかけた。
そして、その天秤は、悲しいかな秒速で傾いた。
「……まあ、元砦だから部屋は腐るほど余ってるし? 遊ばせておくのも勿体ないし?」
「お? ということは?」
「特別よ、特別。アンジェは国の英雄だし、無下にするわけにはいかないものね」
私は咳払いを一つして、素早く金貨の袋を回収し、カウンターの下に隠した。
顔はあくまで平静を装い、ちょっと困ったような、仕方なく引き受けてあげるような表情を作る。
「やった! 話がわかるね、受付ちゃん!」
「その代わり、条件があるわ」
「なに? なに?」
「ギルドの仕事を手伝うこと。それから、むやみに暴れないこと。いいわね?」
「了解! ボク、働き者だから任せてよ!」
アンジェは嬉しそうに尻尾をブンブンと振った。
その風圧でカウンターの上の書類がまた舞い上がる。
「あーもう、風起こさないでってば!」
「あはは、ごめんごめん!」
こうして、静寂を愛する私の職場兼自宅に、金払いの良い騒がしい同居人が増えることになった。
まあ、これだけの家賃を貰えるなら、多少の騒音には目をつぶろう。
私は懐に入った金貨の重みを感じながら、これからのリッチな生活(と騒がしい毎日)に思いを馳せた。
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