④
―――時間は六月上旬にまで遡る。
気付くと五時間目の授業は終わっていた。
古典だったはずだが、内容は何一つとして頭に残っていなかった。うつらうつらとしている内に時は過ぎ去っていた。
丸い体型の国語教諭が出ていくと、教室は俄かに騒がしくなり始める。
近くの席の人間とお昼にしていた会話の続きを始める者。退屈そうにスマートフォンを取り出す者。隠し持ってきていた携帯ゲーム機をプレイし始める者に、その様子を観戦する者。早々と次の授業の教科書を取り出している者。短い休憩時間にわざわざ仲の良い友達がいるクラスまで赴く者もいる。
翔真はと言えば、大きく伸びをした後、窓の外に広がる青空を眺めた。
六月。
その第二週。水曜日。
六月半ばは梅雨の季節というイメージだが、今日は晴天だ。頬に当たるそよ風が心地良い。
樵木翔真の座席は窓側の一番奥。翔真は最高の席だと思っていた。
授業中に睡眠を摂りやすいというのもそうだが、後ろに人がいないので気を遣う必要がないし、単純に景色も良い。
それはそうとして、学校が終わったら何をしようか。
「なあ、翔真。転校生の話って、したっけ?」
教室に残ってゲームをするか、家に帰ってゲームをするか、ゲームセンターに行ってゲームをするかの三択で悩んでいた翔真に声を掛けたのは、前の席に座る男子生徒だった。
スポーツ刈りの少年は椅子に横向きに座って、丸い目でこちらを見てくる。
「忘れない内に訊ねておくが、
「今日はバイト」
「そうか。頑張ってな」
「おう、ありがと」
「じゃ、俺は寝るから」
言って、翔真は机に突っ伏した。
ああ、と応じて、若松寛は姿勢を元に戻す。
「って、なんでやねーん!」
言いながら、またも横向きに座り、翔真の方へ顔を向ける。
「なんで関西弁?」
「おいおい、なんで、はこっちの台詞だよ旦那! 俺、まだ何も話してないよな!? なんで会話が終わった感じにしてんだよ!」
「ああ、そうだっけ」
身体を起こしながら、いい加減に応じる。
我ながらぞんざいな扱いだな、と思うものの、「……中学時代からの友達なんて、こんなもんだよな」とも思う。
勿論、いい意味で。
適当なやり取りを繰り返してもお互いに腹を立てない。良い友人関係だろう。
「で? 転校生がどうしたって?」
「そうそう、転校生。転校生の話って、俺、したっけ?」
「うーん……。転校生が来たことは知ってるんだ、知ってるんだが、それがお前から聞いた情報なのかは覚えてない」
「なら、話してないのかもな」
寛は言う。
「今週、隣のクラスにさ、転校生が来たんだよ」
「どうもそうらしいな」
「……変じゃないか?」
「何が?」
こちらへと顔を寄せ、声を潜める。
「……考えてもみろよ。俺等は高一だ。高一、ってことは、入学したばかり、ってことだ。そうすると、転校生は、高校に入学して、三ヵ月もしない内に転校してきた、ってことになるだろ。……変じゃないか?」
「……変、か?」
変だ、と断言されればそんな気もする。
親の転勤が転校の理由だとしても、五月や六月に転勤がある職種なんて存在するのだろうか? 年度初めの四月か、上半期が終わって下半期が始まる十月が多そうな気がする。
翔真は転校をしたことがないし、転校した人間も知らないので、これは漫画やライトノベルのようなサブカルチャーの知識だ。
サブカルチャーのお話ならば、実は転校生は秘密組織のエージェントで、極秘ミッションのために主人公のいる学校にやって来た、という理由が多い。
……が、そんな可能性は考慮に値しないだろう。
「色々事情があるんだろうな、転校生の家庭にも」
「ぶっちゃけ、転校の理由はどうでもいいんだ」
「どうでもいいのかよ」
「ああ。俺が言いたいのはな、その転校生が……」
「転校生が?」
「……可愛い、ってことだ」
翔真は目を閉じ、ふー、と息を吐き、項垂れる。
「……無駄な時間を過ごした……」
転校生が可愛かったとして、それがなんだと言うのだろう?
得るものが一つもない会話だった。
「おいおい、聞けよ、翔真! ホントに可愛いんだって!」
「よしんば本当に可愛い子だったとしても、それ、俺達と関係あるか?」
「お近付きになれたら嬉しいだろ?」
「お近付きになれたらの話な」
「でも、お近付きになりたいだろ?」
「なりたい気もするが、それと、なれるかどうかは別問題だろ」
同じ学年にも二年や三年の先輩の中にも、可愛い子はいる。
だが、そういった女子と仲良く……、彼の言うところの「お近付き」にはなっていない。
お近付きになる予定もない。
都合良く女の子と知り合って、自動的に仲良くなれるような素敵なイベントが発生するのはゲームの中だけだと、樵木翔真は理解している。
諦観している、と言い換えてもいい。
現実世界で女の子と良い関係になりたいと思うならば、努力し、工夫しなければならない。
ファッションを勉強し、スポーツで活躍し、学業を頑張り、トークスキルを磨く。
自分から動くことは大前提。
その事実についての翔真の感想は一つだ――「うわ、めんどくさ~」。
じゃあいいや、と思ってしまい、女子からの評価を得ることを諦めた。
好きでもなければ楽しくもないことに時間を使いたくなかった。
そんな暇があるならゲームをしたい。
「髪は長めで、ちょっとグレーっぽい色合いでさ。地味な眼鏡してるんだけど、色気があるんだよ。帰る前に隣のクラスを覗きに行こうぜ。前の方に座ってるから」
「いいよ、めんどくさい」
「……巨乳なんだけどな」
ぼそり、と小さな声で付け加える。
翔真は無視をした。
「もー、あたしの翔真に変なこと言わないでくれる?」
聞き馴染みのある声がした方向を見る。
隣の席の女子が戻ってきていた。
「あたしの、ってなんだよ、ミミ」
「所有格だよ。……所有格で合ってたっけ?」
「英文法の話はしてない」
ミミと呼ばれた少女は、「将来を誓い合った仲なのに」と唇を尖らせる。
背の高い、引き締まった体躯の少女だった。中に履いた短パンが見えてしまうほどに短いスカートからは長い脚が伸びている。アスリートの脚線美だ。
顔立ちは相当に可愛らしい。生来の赤みがかった髪をショートポニーテールにしており、それが子猫のような横顔に似合っている。ただ、彼女の空手家やボクサーとしての戦いぶりを知る翔真は、「猫というより豹だな。しかも、デカいヤツ」と思っていた。
翔真の幼馴染だった。
「あー、そうだったわ。旦那にはもう、決まった相手がいるんだったな」
茶化すように寛が言うので、「誰が誰の何だって?」と呆れて返す。
「そうそう、決まった相手。若松、分かってるー!」
「俺も花見みたいな可愛い女子と仲良くなりたいもんだよ」
「羨ましかろ?」
……どうやら翔真の言葉はスルーされたらしい。
悪友二人がその場のノリで会話をするのは常日頃からであり昔から。どうこう言うつもりはないし、気にもならない。
どうしようもないな、コイツ等は。
つい先程、寛のことをぞんざいに扱ったことを完全に棚に上げ、翔真はやれやれと溜め息を吐く。
日常だった。
高校に入学し、二ヵ月が経った。
当初こそ新生活に心躍らせていたが、もう高校生としての日々も慣れた。
授業内容は毎日変わっているものの、ノートを取り、宿題を解き、テストに臨む、という一連の流れは何一つ変わらないので、新鮮味は感じない。
趣味も休日の過ごし方も中学時代と同じだ。
ゲームをして、漫画やライトノベルを読んで、またゲーム。時間が合えば友達と遊ぶ。妹の勉強に付き合って、たまに勉強。その後はゲーム。家の手伝いをして小遣い稼ぎをし、新しいソフトの代金やゲームセンターに通うお金に充てる。
それが樵木翔真の日常。
何処にでもいそうな高校一年生の毎日。
平凡だが、退屈ではなかった。
少年誌は毎週気になっているし、好きなライトノベル作家の新刊が出た時は嬉しいし、友達と遊んでいる時間は大事で、何よりやりたいゲームはいくらでもあった。
むしろ、充実していた。
ずっと学生でいたいんだけどなあ――なんて、翔真はそんなことを考えていた。
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