第6話:隠された真実
二月の夜、郊外の丘に建つ「清風の里」は、冷たい闇の中にぼうっと浮き上がっていた。
佐々木健二は、石井靖子から手渡された他人の面会バッジを胸に、通用口の影に身を潜めていた。心臓の音が、耳の奥で早鐘のように鳴り響く。九条の手によって「虐待の疑いがある息子」とされ、正面からの面会は完全に断たれている。今の自分は、父に会うために不法侵入を冒そうとしている「犯罪者」だった。
「……行くしかない」
夜勤の職員がゴミ出しに出た一瞬の隙を突き、重い鉄扉をすり抜ける。館内に入った途端、独特の匂いが鼻を突いた。強い塩素系の消毒液と、おむつの湿り気、そして、逃げ場のない諦めが凝縮されたような、淀んだ空気。
健二は、石井から事前に聞いていた二階の奥、203号室を目指した。
廊下を歩く足音が、リノリウムの床に吸い込まれる。時折、どこかの部屋から「あー」という力ない声や、乾いた咳が聞こえてくる。そのたびに、健二の背筋を冷たい汗が伝った。
203号室のドアを、音を立てないよう静かに開ける。
「親父……」
暗がりのなか、ベッドに横たわる小さな影が見えた。 健二は息を呑んだ。そこにいたのは、わずか一ヶ月前、自宅でカボチャを煮ていたあの父ではなかった。
頬は紙のように白く削げ、口は半開きになり、焦点の定まらない瞳が天井の一点を見つめている。 「親父、俺だ。健二だ。わかるか?」
返事はない。嘉男の腕には、拘束されていたのか、赤いミミズ腫れのような跡が残っていた。健二がその手に触れると、驚くほど冷たく、生気がない。
「……あ、あ……」 嘉男の唇が微かに動いた。健二は耳を近づける。 「……かえ……り……たい……。けん……じ……たす……けて……」
その声は、掠れた風の音のようだった。健二の胸を、鋭いナイフで抉られるような痛みが襲う。 「親父、しっかりしろ! すぐにここから出してやるからな!」
しかし、嘉男は健二の言葉に反応することなく、また深い眠りへと落ちていった。その異常なまでの深い眠りに、健二は違和感を覚えた。枕元のサイドテーブルを見ると、見慣れない錠剤のシートが散乱している。
「向精神薬……? なんでこんなに……」
その時、廊下から足音が近づいてきた。健二は咄嗟にクローゼットの影に身を隠した。 ドアが開き、二人の男が入ってきた。一人は施設の施設長、もう一人はあの、九条慎一郎だった。
「九条先生、例の件ですが」 施設長の声には、卑屈な粘り気があった。 「佐々木嘉男さん、かなり不穏が続いていたので、指示通り強めの薬を投与しておきました。これで息子さんが無理やり面会に来ても、まともな会話は不可能です」
「それでいい」 九条の冷徹な声が、狭い部屋に響く。 「彼は『重度の認知症』でなければならない。そうでなければ、あの不動産売却の正当性が揺らぐ。……それから、今月の『管理協力費』は振り込んでおきました。例の、20パーセントです」
クローゼットの中で、健二は怒りで奥歯が砕けるほど噛み締めた。 リベート。九条は、父を廃人のように薬漬けにすることで、自分の不正な財産処分を正当化し、その報酬として施設側に金を流していたのだ。
「先生は相変わらず手際がいい。家族を悪者に仕立てて隔離してしまえば、あとは我々の自由ですからね」 施設長が下卑た笑い声を漏らす。
「法律は、弱者を守るためのものではない。使いこなす者のための武器だ」 九条が淡々と言い放つ。その靴音が、父のベッドのすぐ傍で止まった。 「……この老人も、静かに資産を差し出して死ねば、それが一番幸せなのですよ。誰も悲しまない」
九条たちが部屋を出ていくまで、健二は暗闇の中で拳を握りしめ、血が滲むほど爪を食い込ませていた。
奴らが去り、静寂が戻った部屋で、健二は再び父の枕元に駆け寄った。 嘉男の薄い胸が、浅く上下している。 「親父……許さない。絶対、許さないぞ」
健二の瞳には、かつての絶望はなかった。 あるのは、燃え盛るような、冷徹なまでの殺意に近い決意だった。 九条が法律を「武器」だと言うのなら、自分はその武器を奪い取り、奴の眉間に突き立ててやる。
健二はスマホを取り出し、暗闇の中でサイドテーブルの薬と、ゴミ箱に捨てられていた九条のメモを、震える手で撮影した。
「見てろよ、九条。お前の言う『自由』を、俺が地獄に変えてやる」
窓の外では、冬の嵐が吹き荒れ始めていた。 健二は父の手を一瞬だけ強く握ると、暗い廊下へと再び飛び出した。 今、この瞬間、佐々木健二はただの被害者の息子から、制度の闇を暴く一匹の獣へと変わっていた。
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