第10話:再会、そして明日へ

第10話:再会、そして明日へ


三月の終わり、桜の蕾が今にも弾けそうな春の午後。佐々木健二は、再び「清風の里」の自動ドアをくぐった。


消毒液の匂いは相変わらずだったが、今日の健二の胸には、それを跳ね返すほどの強い鼓動があった。手には、裁判所から発行された「解任」と「新たな権限」を証明する決定通知書が握りしめられている。


「佐々木嘉男を、迎えに来ました」


受付の職員は、もはや健二を拒むことはできなかった。震える手でゲートを開け、健二を奥の個室へと案内する。


「親父……!」


部屋の隅、窓の外をぼんやりと眺めていた影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。 三ヶ月前よりもさらに小さくなった父の姿。頬はこけ、着古したセーターが肩からずり落ちている。しかし、健二の姿を捉えた瞬間、その濁っていた瞳に、パッと火が灯った。


「……健二か。本当に、健二か」 カサカサに乾いた声。それは、地面の下から這い出してきたような、切実な響きだった。


「遅くなってごめん。親父、帰ろう。俺たちの場所に」


健二は父の傍らに膝をつき、その痩せ細った手を力一杯握りしめた。驚くほど冷たい。この三ヶ月、父がどれほどの孤独と闘っていたか、その指先の温度がすべてを物語っていた。


「家はな……親父、ごめん。家はもう、ないんだ。あの庭も、書斎も……守れなかった」 健二は声を詰まらせた。


嘉男は、震える手で健二の頬を撫でた。指先には、父が昔から使っていた古い石鹸のような、微かな、しかし確かな記憶の匂いが残っていた。 「いいんだ。家なんて、ただの箱だ。お前が……お前が俺の名前を呼んでくれた。それで十分だ」


父の目から、大粒の涙がこぼれ、健二の手の甲に落ちた。その雫は、どんな宝石よりも熱く、重かった。


施設を出ると、春の柔らかな光が二人を包み込んだ。 「眩しいな……」 嘉男は目を細め、深く、深く空気を吸い込んだ。 「外の空気は、こんなに美味かったか」


タクシーの中で、父は健二の腕をずっと離さなかった。 実家はすでに更地になり、そこには無機質な不動産会社の看板が立っている。かつての思い出が詰まった場所は、九条たちの手によって「商品」に変えられた。 だが、健二の借りた新しいマンションの小さなリビングには、あの施設から唯一持ち出せた父の日記と、健二が買い直したあの硬い煎餅が置かれている。


「今日からここが、俺たちの家だ」


その夜、二人は小さな食卓を囲んだ。 スーパーで買ってきた総菜の煮物だったが、嘉男は「旨い、旨い」と何度も頷きながら、震える箸で口に運んだ。 「親父、明日は散歩に行こう。桜が咲くぞ」 「ああ、いいな。ゆっくり歩こう」


テレビを消した静かな部屋に、父の穏やかな寝息が響く。 健二はベランダに出て、夜の街を見下ろした。 九条は資格を停止され、現在、警察の捜査が進んでいる。しかし、これは一つの事件の終わりに過ぎない。今この瞬間も、どこかで「本人のため」という美名の下に、家族が引き裂かれ、財産が収奪されている現実がある。


数日後、健二は日比谷公園の広場に立っていた。 傍らには石井靖子、そして中司議員の姿もある。 「法改正を! 成年後見制度に第三者のチェックを!」


健二は、道ゆく人々に向かって声を張り上げた。 「皆さん、聞いてください! 家族を守るための法律が、家族を壊す武器に使われています! これは、私の身に起きただけの特別な悲劇ではありません!」


チラシを受け取ろうとせず、足早に通り過ぎる人々。 かつての自分も、そうだった。自分には関係ない、うちは大丈夫だ。そう信じて疑わなかった。 だが、その無関心こそが、九条のような怪物を育て、制度を腐敗させる肥やしになる。


「お願いします! 署名をお願いします!」


健二の隣で、嘉男もまた、ゆっくりとした足取りでチラシを配っていた。 「私の……私の息子を、助けてやってください」 父のその言葉に、一人の若い女性が足を止めた。彼女は、嘉男の震える手からチラシを受け取り、じっとその内容を読み始めた。


空は高く、春の嵐が去った後の透明な青が広がっている。 健二は、父の背中を見つめた。 失ったものはあまりに大きい。家も、金も、平穏な時間も。 しかし、どん底の闇の中で、二人は「家族」という、法では定義できない真実を掴み取った。


「これは、あなたの明日かもしれない」


健二は、心の中でそう呟いた。 誰の人生にも、いつか老いは訪れる。誰の家族にも、いつか別れの予感は忍び寄る。 その時、法が優しく背中をさする手であるのか、それとも喉元に突きつけられた刃であるのか。 それを決めるのは、今、この声を聴いている「あなた」の意志なのだ。


健二は再び、深く息を吸い込んだ。 「法改正を! 家族の絆を、守れる社会に!」


春の風に乗って、健二の声は、遠く、霞が関の石造りの建物へと響いていった。 戦いは、まだ始まったばかりだ。 だが、健二の横には、もう誰も奪うことのできない、父の温かな気配があった。


(完)


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