容器
@Mugikundesu
容器
須藤という男はそれまで全く一般的な人間であったが、今日を境にその評価も崩れ去ることだろう。というのも、彼はたった今殺人を犯したのである。彼の住む狭いアパートが犯行現場であり、被害者は彼の友人であった。計画的な犯行だった。男はあらかじめ友人を呼ぶ準備もしていたし、殺すための道具もそろえていた。だが複数奇妙な点があった。彼が用いた凶器はナイフや包丁など一般的に手に入れやすいものではなく、大形の斧だったし、それを脳天めがけて振り下ろすのも難易度が高いように思われた。なぜそうしようと思い立ったのかも十分不思議だったが、それよりもはるかに不思議なことがあったのだ。その友人の割れた頭蓋の中には、一切何も入っていなかったのである。
ふつうこういう場面で期待するのはおぞましい露出物、つまり脳みそやあふれるような血なのだが、須藤が目にしたその死体は驚くほど淡白であり、脳もなければ血も思うほど出ていなかった。恐怖や罪悪感に勝って一種の奇妙な好奇心がわいた須藤は、その割れた頭蓋を近くで見ずにはいられなかった。ポケットから取り出したスマートフォンのライトで中を照らしてみると、中には何もなく、膜のような物体が奥で反射していることしかわからなかった。恐る恐る手を近づけて、指を中に入れてみようと試みた須藤の意識は、まだ温かい死肉に偶然触れてようやく我に返った。もちろんこの瞬間彼の脳内でのプライオリティはこの謎めいた空洞よりも、それをどう処理するかに変わったのだが、証拠を消そうとあくせくしている間も、脳裏からその違和感が消えることはなかった。
一通り部屋や斧にこびりついた血痕を落としてから、須藤は一度深呼吸をした。彼は風呂場に運び込まれた死体を意識しながら、一体どこに捨てたものか考えることにした。それが決まるまではずっと風呂場において置いておかねばならないのだが、須藤はこの期に及んで体にこびり付いた血のことが気になって仕方なく、かと言って死体の隣で体を洗う勇気もなかった。このまま置いておくわけには行かないのでとっとと運び出したいところだが、須藤のアパートは住宅地の真ん中にあり、人の往来が気になるし、外はまだ明るかったのでそのようなことをするのは自殺も同然だった。したがって、須藤は深夜になるまで待ち、車で何処かの山奥に捨ててしまおうと決めた。なぜ山奥なのかというと、須藤には他の方法を思い浮かべるほどの想像力も知識もなかったし、加えて最近彼がニュースで見た山での死体遺棄事件が無意識にそのアイデアを促したからだ。
それからの数時間は須藤にとっては純粋な苦痛でしかなかった。罪を犯したあとの興奮が冷めてからは恐ろしさと静けさがだけが残り、カーテンを閉め切った暗い室内で彼はただひたすら時計を睨むほかにすることがなかった。その間も、罪悪感や後悔が彼をまとい続けたが、彼を何よりも苦しめ呪い続けたのが、あの空っぽの頭蓋だった。論理的に考えてまずありえない光景が、どんな記憶よりも彼にとっては鮮明だったし、何故かそれが真実であるという確信もあった。彼は必死にそれが幻覚や興奮による影響なのだと信じ込もうとした。その推測を裏付けるために死体を確認しようとしたが、それだけの勇気がわかずにいた。それから一時間ほど悩み続けた後、ようやく震える足を起こして浴室に向かった。
須藤は風呂場の前で一瞬立ち止まり、深く息を吸って、折れ戸を開けた。バスタブの中で無気力に倒れている友人の肌は青白く、傷口あたりはグロテスクに変色していた。入口からの角度ではその頭の割れ目を見ることがでできなかった。鉄と排泄物の混じったような悪臭が充満していたため、須藤はそれにできる限り近づきたくはなかったのだが、その嫌悪感を押し殺して、ゆっくり頭部へと歩いていった。やがて割れ目がはっきり見える距離になると、須藤はやはり自分の目になんの異常もなかったという証拠を得た。中身は空っぽのままだった。誰かが須藤を納得させるためにこっそり脳みそを忍び込ませるなんてことはあるはずがなかった。だが、この事実は須藤に奇しくも安心を与えた。その空洞が何を意味するのかは依然謎のままだが、それは須藤に1つの答えを提示した。彼が殺したのは、人間ではなかったのだ。それは彼に恐怖とともに殺しを正当化する理由を与えた。そしてその非人間と友人として長らく関わっていたことに慄いた。
一瞬の安心が過ぎ去った頃に残るのは恐怖だけだった。突如として、眼の前の死体が、人間のものではなく、何かもっと恐ろしい未知なる怪物の死体に見えて仕方がなかった。突如背筋を伝った震えに身を任せて、須藤は浴室から駆け出し、足を引っ掛けて真っ暗なリビングへと倒れ込んだ。顔を起こして時計を見てみると、夜の8時を指していた。ここで須藤は死体を山に捨てるための準備を何1つしていないことを思い出し、急いで着替えて車を出し、近所のホームセンターへと赴いた。
駐車場に着いて入る前に、一度出ようとした軽自動車と鉢合わせになり、バックして譲ってやると相手はウィンカーを出して、フロントガラスの奥で軽くお辞儀している姿が見えた。運転手の女性は中年で、助手席には息子と思われる子供が座っていた。母親があちこち見回して不安そうに運転している一方、息子は興味なさげに外を見つめている。その息子とも目が合うと、相手は気まずそうに目を逸らした。
カートの中にスコップやら大きめのゴミ袋やら、その他役立ちそうなものを放り込んで、須藤は遠くのレジに向かって歩いた。その間、陳列棚が作るいくつもの長い廊下では他の客が品定めをしていた。どれも悩んでいるように振る舞っていた。互いに会話してるのもいた。須藤があまりにも執拗に見続けるので、睨み返す者もいた。そして誰かと目が合うたびに須藤の心臓はビクリと跳ね上がり、たちまち全身に細かい震えが走るのだった。こうして他人を観察している間も、須藤は自分の何処かに血がついていないか心配で仕方がなかった。
レジにカゴを置いた瞬間、須藤に妙な緊張が走った。レジ打ちがカゴの中身を見て、買い物の目的を見抜いたら?いやいや、あり得ない。こいつはきっと上がりの時間しか気にしていない。そんな推理眼なんか持ってるわけない。
「袋はお付け致しますか?」
須藤はビクリとした。驚いたんで口があかなかった。そういう態度の客だと思ったのか、レジ打ちは特に聞き返すこともなかった。
「5820円になります。」
須藤はレジ打ちの対応を一部始終眺めた。ごく普通に接客をしていて、レジの打ち方もわきまえてるし、手際よくテトリスのようにカゴからカゴへと商品を移している。須藤はこのレジ打ちの顔に見覚えがあった。ホームセンターに来るたびちょくちょく見かけるパートの女性で、唇の下の大きなほくろが目立つ。彼女に対しては以前から薄っすらとした印象があり、見かけるたびにその域を出えなかったが、今回ばかりは少し異なるように見えた。途端に彼女の動きが機械的で非人間的に見え始めたのである。須藤は若干の嫌悪を覚えずにはいられなかった。捨てるように紙幣を置いてその場を去った。
店から出て駐車場に向かった瞬間、眼の前の通りを一両のパトカーが通り過ぎた。その瞬間、彼の中で一種の恐怖が蘇った。正義に対する恐れだった。須藤が殺したのものが何にせよ、彼の名を持つ紙の上の存在を理由に罰せられるだろう。買った商品を腕で抱えながら須藤は急いで車に戻り、エンジンをかけた。
目を開けるとすでに夕方だった。目覚めるとともにどっと記憶が押し寄せてきて、このおぞましい経験が夢ではないことを思い知らされた。昨日の夜なんとか死体を運び出して、数十キロ先の山に捨てたことも思い出した。彼のベットは、彼が昨日から着ているままの服と同じように土と泥で汚れていた。まず思い立ったことはシャワーを浴びる事だったが、折れ戸を開けた瞬間目に入ったのは湯船の血溜まりだった。まだ終わっていなかったのだ。その非人間の血と悪臭は未だにこの家に残っている。須藤はどうにかして嫌悪感を押しのけ、少し粘つく液体の中を探って、排水栓を引っ張り上げた。湯船の内壁にこびりついた血をスポンジで擦り落とし、赤く染まったスポンジを切り刻んでゴミ箱に捨てた。汚れの方は取れたものの、悪臭は依然として消えなかった。須藤は持っていた香水や芳香剤をできる限り浴室内にかき集めてみたが、匂いは甘みを含んで更にひどいものになった。換気扇を回そうにも近隣に悪臭をばら撒くわけには行かないので、その悪臭を浴室に閉じ込めておく以外に方法はなかった。
体に何時までもこびりつく汗と泥の忌々しい感触を拭い去るために須藤は近場の銭湯へと向かった。券を買って従業員に渡し、更衣室の一番隅で着替えた。浴場に入ると数人の老人が散らばっていて、人は少なかった。洗い場の仕切りの隙間から、まだらにしわがれた背中が露出している。須藤は濡れてる石床の上に立った途端転びそうになったがなんとか持ち直した。手っ取り早く空いてるところに座り、土の汚れを隠すように背中で覆って洗い落とした。彼は浸かるつもりは毛頭なく、さっさと体を洗ってしまうとフェイスタオルを掴んで出ていった。浴室にいる間、ずっと視線を感じていたためである。広間で食事や談笑に勤しむ人々の間を通り抜けて、須藤は出口に向かおうとした。ところが、突然横から現れた中年の男にぶつかり、彼が持っていた食事のプレートを落としてしまった。皿の割れる音が広間に響き、あらゆる会話が静まり返った。その場に居合わせた全員がこちらを見つめており、肝心の中年の男は、今にも破裂しそうなほど顔を赤くしている。
「何するか、お前!弁償しろ!」
その男は勢いよく叫んだ。須藤はひたすらお辞儀をして落ちたものを拾い上げようとしたが、とても食べられる状態ではなかった。
「すいません、その、弁償しますから。」
須藤はポケットから財布を取り出した。男はまだブツブツとぼやいている。
「1050円だぞ。まったく、また待たにゃならんのかいな。」
「すみません。」
金を渡すと男はさっさと歩いていた。須藤が周りを見渡すとまだチラホラこちらを見つめる人間がいたが、多くはすでに関心を失っていた。一人の老人がこちらを憐れむような眼で見つめていた。
「お兄さん災難だったなぁ。」
須藤は逃げるようにその場を離れた。
最大限人目を避けたかったにも関わらず、先程の出来事で須藤は大いに消耗していた。彼の中では一種のやり場のない怒りが煮えたぎっていた。一体何だってこんな事が起きるんだ。あのくそオヤジめ、目ぇ腐ってるんじゃないのか。そこで須藤は妙な言い訳を思いついた。あのオヤジ、きっと脳がないんだ。馬鹿野郎め、そっちが先にぶつかってきたんだ。
須藤の怒りはどんどんと肥えていった。それは冷静さすら飲み込んでしまった。そうだ、あのオヤジ、殺してやる。その頭かち割って、脳がないことを証明してやる。須藤はそれまで歩いていた道を引き返し、銭湯へと戻っていった。銭湯の横の道路を歩き、大広間が見える窓から中を覗き込むと、その男はすぐに見つかった。だが、須藤はそこで急に冷静になった。その男は妻と見られる人物と、子供二人とともに食卓を囲んで座っていたのだ。須藤は考えを改めて、その場を去った。
須藤がアパートに戻ったとき、彼は妙な安心感に包まれて、突如として尿意を催した。トイレに駆け込んで、用を足してから水を流したが、タンクから流れ落ちた水が下水道の奥に消えることはなく、水位は上がるばかりだった。トイレが詰まったのだ。須藤は便器の横においてあったスッポンを取り出して、便器と長い事格闘を続けた。しかし、水位は依然として下がらない。気づけばトイレ周りは跳ねる水のせいでびしょ濡れになっていた。外ではすでに日が降りていた。仕方なく須藤は冷蔵庫に貼ってある広告の数字をゆっくり照合しながら、それをスマートフォンに入力した。
半時間ほど後に、作業服を着た老いた男がインターホンを鳴らした。
「失礼します、クラシアンの者です。」
須藤は彼を玄関に通し、若干ソワソワしながら男の対応を待っていた。
「お茶とか出したほうがいいですかね?」
「いえいえお構いなく」
状況を説明したあと、男は手慣れた様子で作業を始めた。静かな夜だった。須藤はテレビを付けて誤魔化そうとしたが、部屋の中で響き渡る水の跳ねる音と作業音は彼の耳に届き続けた。自宅、そして犯行現場に他人がいる事実とこの騒音のせいで、須藤の神経は少しずつすり減っていった。
「お兄さん、大学生かい?」
男は訪ねてきた。
「いや、高卒で働いてます。」
「そうかい、俺と一緒だな。俺ぁ金がなかったんで大学行かせてもらえなくてな。高校出たあとは必死に働いて、金ためて旅に出たのよ。」
「すごいですね。」
「そんでねぇ、色んなところに行ったよ。インドネシアとかモンゴルとか、アフリカにも行ったなぁ、サバンナの動物も見たよ。ありゃ美しかった。」
「はぁ。」
「お兄さんも若いんだから、いっぱい旅行しなさんな。頭が文字通り入れ替わるぞ。」
須藤が気だるそうに返事している間も作業員は無駄話を続けた。彼の武勇伝は大変聞くに値するものだったが、須藤にはそれどころではなかった。
「あの、終わりそうだったら早くしてほしいんですけど。」
「ああ、ごめんね。」
作業員はそれっきり黙り込んだが、それから暫くの間作業しても進展がないように見えた。それから徐々に息を切らし始め、ゼェゼェ言う声が聞こえてきた。
「お兄さん、これ普通のつまりじゃないねぇ。」
作業員はとぎれとぎれに言った。
「配管の合流地点で何かが詰まっとるな。もしかして、お風呂でなんか流したか?」
須藤の心臓がビクリと跳ね上がった。彼は脈打つ鼓動を抑えて、静かに告げた。
「……今朝ちょっと掃除しました。」
「ちょっとワイヤー通してみますわ。」
作業員の男は工具箱から電動ワイヤーを取り出し、それを水道管の奥の方に突っ込んだ。金属のぶつかる音が床の下の方から伝ってきた。やがて、ワイヤーを引っばって戻してみると、その先に赤黒い複数の塊が絡みついていた。便器の水が赤く染まると同時に、作業員の鼻を血なまぐさい匂いが通り過ぎた。彼はそのまましばらく硬直し、なにか考え込んでいる様子だった。作業員の男が何か言いたげに振り返ると、彼の真後ろに須藤が立っていた。須藤は手に握った大きな斧を振り上げていた。
須藤は力いっぱいに斧を振り下ろした。その刃は避けようとした作業員の首と肩の間に当たり、大きな溝を作った。須藤はもう一度斧を振り上げ、作業員めがけて振り下ろした。今度は頭に直撃した。作業員はその場で力が抜けたように倒れ込み、斧が刺さったままの頭は肩と壁の間に挟まれたまま静止した。須藤は倒れ込んだ肉体の上に片足をかけ、斧を引っ張り上げた。床はみるみる血に染まっていったが、その殆どは首からの出血だった。須藤は斧をソファに投げ捨て、濡れた手のままスマホを操作し、ライトを付けた。彼はしゃがみ込んで、死体の後頭部から前髪のラインにかけて走っている裂傷を覗き込んだ。骨と皮と、脳を覆うはずの複数の膜が断面を形成する渓谷の奥には、一切暗闇のみが広がっていた。作業員は脳無しだった。
この時点で、須藤はある種の快感に包まれていた。その空洞は依然として彼に安心を与え、今度は人ならざる何かを殺したことに英雄的な快楽すら見出したのである。その空洞の意味を須藤は未だに理解できなかったが、もはや彼には理解する必要がなかったのだ。
足が浸かる血の冷たさが彼を現実に連れ戻した。靴下の足首までが赤く染まり、しゃがみ込んだときに不用意に着いた尻もちもきっと汚れている。英雄的な自惚れももはや続かなかった。もはや魂を灯さない肉塊の不気味さの圧倒されたのだ。
須藤はその時逃げ出したいという欲望にのみ支配されていた。ろくに支度もせず、季節不相応な外套とロングブーツが血痕を隠してくれることを祈って、夜道に駆け出したが、一度アスファルトで転んでしまった。もう深夜近くだったので彼には行く宛が思いつかなかった。そこで脳裏に彼の恋人の顔が浮かび上がった。それ以外に手段はなかった。須藤は夜空に大きな足音を響かせ続けた。やがて彼女の家に近づいた頃、見覚えのある景色がいくつか目に入った。安堵の息をつこうとするのも束の間、須藤の目には二人の警官が写った。二人は真夜中に息を切らして、暑苦しそうなロングコートを羽織った須藤に近づいていった。
「こんばんは、お兄さんちょっといいかな。」
年配の警官が訪ねてきた。須藤は今にも逃げ出したかった。その意志をぐっとこらえて、平常な素振りを見せた。
「……どうかしましたか。」
「いやー、ここ最近空き巣が多くてね。一応念のためにね」
「身分証は持ってますか?」
二人目の若い警察が言った。須藤はポケットに手を当ててみたが無駄だった。彼は何も掴まずに部屋から飛び出したのだ。
「ちょっと今持ってなくて」
年配の警官が怪訝そうにこちらを睨みつけていた。
「お兄さんさ、首のあたり汚れてない?ちょっと見せてくれる?」
彼は須藤の首の方を指した。若い警官も同じように目を細めた。
その瞬間、須藤は全速力で二人の間を駆け抜けた。
「あ!ちょっと待ちなさい!」
すかさず二人も追いかけた。須藤のちょうど5メートルほど後ろで二人の警官が彼にピッタリくっついてきた。須藤はできる限りすべての曲がり角をあちこち曲がって二人を撒こうとしたが、若い方だけはくたびれず着いてきた。須藤は眼の前に迫ったT字路を左に曲がり、その先にあった公園の茂みに飛び込んだ。あとから付いてきた警官はその茂みの中に薄っすらと見える黒い影に一目散に突進しなぎ倒した。だが、それは彼が先ほどまで身に付けていた外套にほかならなかった。
薄暗い廊下の奥から3番目の部屋のインターホンを鳴らしてから、須藤は恐る恐る階下を見下ろした。奥の方の道路で、先程の警官が見えた。こちらには気づいていない様子だった。5分ほど何度もインターホンを鳴らしても反応がないので、しびれを切らして須藤はドアを力強く叩いた。そうして音を立てるたびに振り返って道の様子を眺めた。やがて四度目に扉を叩こうとした瞬間に鍵の回る音がした。
「何なの?この遅くに何しに来たの?」
「頼むよ梨香、入れてくれ。」
「この時間に急に来られたら怖いんだけど、なんで事前に連絡してくれないの?」
「いいから!」
須藤は無理やり押し込む形で梨香の部屋に入った。暴力的な形で強行突破された梨香は須藤を罵倒する準備ができていたが、その様子が妙なのに気づいた。
「ねぇ、大丈夫なの?」
「本当にひどいことが起きた、今日は本当に大変だった。」
彼女は怪訝そうに彼を見つめていた。依然不機嫌なのは変わりなかった。
「とりあえず、私もう寝るから。寝るならソファ使って。」
梨香はそう言うなり部屋の奥に消えた。一人取り残された須藤は洗面所で顔を洗ったあと、ソファに無力に横たわった。彼は梨香にすべて打ち明けるつもりで来たが、そっけない態度で跳ね除けられたことがショックだった。そして今まさに起こっていることが受け入れられず、彼はソファで少し泣いてから眠りに落ちた。
「どいて、邪魔。」
梨香に足を殴られて起きた須藤は、彼女のために足をどけて、ソファのもう一方で滑稽に縮こまってる姿勢からなんとか起き上がった。彼女は何事もなかったかのようにテレビを見て、自分の分の朝食を食べていた。テレビでは、巨額で落札された近代芸術が報じられていた。梨香はその話題に興味を持ったのか、テレビの音量を上げた。
「……日にロンドンのクリスティーズでオークションが行われました。落札されたのは現代芸術の巨匠ゴルフチ・イワーノヴィチの作品「容器」で、なんとその金額は日本円にして15億円以上とされています。」
「あれただのマネキンじゃん。」
梨香が皮肉っぽく笑った。画面に写っていたのは、白いマネキンの頭部だった。ただ、その額が乱暴にくり抜かれている。まるで彼が見た死体たちのようだった。
「……ゴルフチ氏の作品は、人間の自意識の欠如が招く危険性を表現しており、各々が社会の一員としての自覚を持って……」
「私もマネキン売ったら儲かるのかなー」
「最近の芸術なんてみんなおままごとだろ」
「えー私が儲かるなら別にいい」
会話を中断するように突如インターホンが鳴った。
「はーい」
梨香は立ち上がって室内機のボタンを押した。
「すみませーん。警察のものなんですけど。」
「え、警察?」
須藤は飛び上がって室内機の電源を切った。
「は?何すんの?」
「なぁ、いいか。あいつら絶対入れんなよ。」
「入れなきゃやばいでしょ。どういうこと?」
「いいか、あいつら警察なんかじゃない、ニセモンだ。さっきのマネキンと同じだ。」
「ちょっと待って、意味がわからない。」
「いいから絶対に開けるな。」
「開けてくださーい。」
外にいる警察官は今度はドアを直接ノックし始めた。
「ご友人の須藤成人についてお尋ねしたいことがあるのですがー」
「は?あんた目当てじゃん。誰か殺した?」
梨香は冗談めいた口調でいったが、それがかえって須藤を激昂させた。
「殺してなんかない!」
あまりの気迫に、梨香は恐怖で黙り込んでしまったが、扉の向こうの来客はいるはずのない声を聞いて途端に静かになった。
「殺してなんかないぞ、あいつらは人間じゃなかった。あの老人だって、作業服着ただけのマネキンなんだよ、空っぽだったんだ!お前の友達の洸汰も殺してやったよ。金を返さない上に逆ギレするもんだから、斧で頭をかち割ってやった。そしたらな、何も入ってなかったんだ!」
梨香は何も言わず、静かに涙を流しながら震えていた。その足はゆっくりと玄関の方へと後退りし、助けるようにそちらの方角を見ていた。
「開けるなよ、梨香。俺はお前を信頼してるからそう言ってるんだ。お前もマネキンじゃない限り、そいつらの手助けなんてしない。」
「やめて、お願い。」
梨香は静かにせがんだ。その足は未だ玄関へ一歩一歩へと近づいている。
「それ以上玄関に近づくな!」
須藤の叫び声を恐れて、梨香は無意識に後退りした。
「お前も同類か!」
須藤はそう叫んでから、梨香の腕を引っ張り込んで彼女をなぎ倒した。
「きゃーっ!」
須藤はそのまま彼女の上に馬乗りになって、その首を締めた。
「なぁ、梨香。俺達は愛し合ってるんだ。だからこそ俺にはわかる、お前は本物なんだ。きっとその可愛らしい顔の裏には、立派な脳みそが実ってるんだよ。」
梨香が悶え苦しむ傍らの玄関のドアでは、警官の叫び声と、ドアを蹴破ろうとする音が何度も響いていた。
「それが奴らの手助けをするとは、お前も同類なのか。いや、今に確かめよう。お前が一度眠ったあとに、その額をこじ開けて見てみよう。」
「開けなさい!警察だ!彼女に危害を加えるな!」
「黙れ!お前らなんぞ人間じゃない!マネキンなんだ!容器なんだ!同類が殺されて激昂してるんだ!俺達人間はお前らなんかに負けないぞ!」
梨香のジタバタと暴れる音と、ドアを蹴破らんとする音が今この空間にリズミカルだが不規則な音色を与えて、それが須藤には心地よかった。手の先で軋む気管がまるでフルートのように見えて、彼はその入口にキスをせずにはいられなかった。だが、熱烈な接吻を交わしたあとに眼の前に広がっていたのは、青白く染まった恋人の顔だった。
「……梨香?俺は、何して……」
「開けろ!最後の警告だ!」
動転した須藤には、もはや現状を正常に把握する能力がなかった。彼はキッチンから包丁を取り出し、玄関にその刃先を向けた。
「は、入ってくるんじゃないぞ!くそっ、化け物め、この俺の脳を奪うつもりなんだろ!」
須藤の両手は震え、足はおぼつかず常にあちこち安定する位置を探っていた。が、その足の片方が滑り、彼が真ん前に倒れ込む直前に見たのは自分の額に刺さらんとする包丁の姿だった。
「いやはや、しかし本当に悲惨な事件だった。」
木村署長は片手にコーヒーを飲みながら、もう片方の手で持つ新聞を睨んでいた。
「あんな若い男が三人も殺してしまうとは。」
杉水巡査は何か言いたげな様子だった。
「何だね、杉水くん。何か言いたいことがあるのか。」
「えっと、検死の結果では、須藤成人の死因は転倒によって、包丁が頭に刺さる外因死でしたよね?」
「そうだが、それがどうした?」
「でも、検死官が言うには、まるで死ぬ理由がないんですよ。」
「どういうことだ?」
「だって、」
杉水巡査は一呼吸置いてからこう言った。
「脳みそがないんだもの」
容器 @Mugikundesu
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