街に残る残響

影灯レン

第1話 近くに見えるもの

 私は、大学へ向かう途中だった。

 いつもの朝。いつもの道。いつもの歩幅。

 けれど、今日は胸の奥に、薄い膜みたいなものが張りついている。



 何かが引っかかって、何かがほどけない。そんな日だ。



 駅前の再開発で、建設中のビルが遠くからでも見える。

 鉄骨が空を切って、クレーンの腕が伸びている。


 朝の光を受けて、骨組みだけの建物が、まだ完成していない未来の形を浮かべている。

 あのビルは、どうしていつも『近く』に見えるのだろう。



 駅までは十分くらい歩く距離なのに、視界の中のビルは



 ―― まるで駅より手前に立っているみたいだ。



 高い建物は、実際の距離をずらす。

 私の中の地図を、少しだけ書き換える。



 「まだ遠い」より、「もうすぐ着く」が先に来る。



 その錯覚が、今の私にはありがたい。



 四年生。


 就職先は内定をもらっている。

 来年の今ごろ、私はこの街にいない。

 そう考えると、朝の空気さえ『借り物』みたいに思えてくる。



 引っ越しの段取り、卒論、研修、配属。

 聞き慣れない単語が、これからの時間を全部埋めていくのだろう。

 私は目立たないのが得意で、空気を乱さないのが得意で、問題を起こさないのが得意だ。

 だから、きっと社会でもやっていける。たぶん。



 でも、その「得意」は、私の中のどこかを、いつも薄く削っていった。



 誰かと仲良くすることはできる。

 笑えるし、相槌も打てる。



 ―― けれど、親友と呼べる関係には、どうしても届かない。



 向こうが一歩近づこうとする前に、私が半歩引いてしまう。

 嫌いなわけじゃない。

 むしろ、嫌われるのが怖いだけだ。


 引かれた線を跨ぐのが怖い。

 踏み込んで、踏み外して、嫌われるのが怖い。

 だから私は、上手に距離を保つ。


 安全な距離。


 傷つかない距離。


 その距離のまま、四年が過ぎた。



 駅に向かう道も、私の中でいつの間にか『安全』になっていた。


 朝はこの角で犬の散歩の人とすれ違う。

 昼はスーパーの前が少し混む。

 夜は街灯がひとつだけちらつく。

 知っている道は、予測できる。予測できるものは、怖くない。



 ―― 怖いのは、予測できない人だ。



 今日も、駅までは十分。

 私はスニーカーの紐を指先で軽く確かめ、歩く。

 肩にかけたバッグが、歩幅に合わせて小さく揺れる。



 早朝の住宅街は、まだ薄い眠気を残していて、窓のカーテンの隙間が淡く光っている。



 建設中のビルは、相変わらず近く見えた。

 近くにあるのに、まだ遠い。

 遠いのに、もうそこにある。


 まるで、私の卒業後みたいだな、と、ふと思う。

 来年のことを考えると、未来が『近い』のに『遠い』。



 その感覚を振り払うように、私は大学へ向かった。



* * *



 大学に着いて、ゼミ室の前で軽く息を整える。

 廊下の匂いは、どの季節でも同じだ。

 紙と、古いワックスと、遠くの自販機の甘い匂い。



 その混ざった空気を吸うと、身体が勝手に『学生』になる。



 ゼミでは、いつも通りに座った。



 先生の声は淡々としていて、同級生たちは資料をめくりながら小声でやり取りする。

 私は、自分の発言が必要なところだけきちんと話し、必要ないところは黙っていた。



 目立たないまま、ちゃんといる。

 それが私のやり方だった。



 ゼミが終わると、友達の何人かは講義に向かって教室へ歩き出した。



 「じゃ、次の授業行くわ」

 「おつかれー」



 そんな軽い会話が、廊下に散っていく。



 私は、三年の時点で単位を取り終えていた。

 だから今日は帰れる。


 帰って、部屋で少し片付けをして、買い物をして、夜は適当に動画でも見て。

 そういう一日が、私の生活の輪郭だった。



 講義を受けない友達は、「どっか行く?」と話している。



 楽しそうに見える。

 仲が悪いわけじゃない。

 誘われれば、たぶん行く。



 でも、自分から『行きたい』と言えない。



 「私は今日は帰るね」



 そう言うと、皆は「了解ー」「またね」と返してくれる。



 その優しさが、ありがたい。

 ありがたいのに、どこか申し訳なくもなる。



 私は、うまく溶け込めていないのではないか。

 溶け込めているふりだけが上手になったのではないか。

 そんな疑いが、時々胸の奥に浮かぶ。



 ―― でも、きっとみんなは、そんなこと気にしていない。



 気にしているのは私だけだ。

 私はいつも、私の頭の中で一人で騒いで、外では静かにしている。



 大学の正門を出ると、空が少し高く見えた。

 秋の光は、何かを終わらせる前の、やわらかい冷たさを持っている。

 私は駅へ向かって歩き出す。



* * *



 電車に乗り、降り、家の最寄りの駅まで戻ってきた。

 ホームに降りる。



 二階にあるホームは、街を少しだけ見下ろす。

 いつもなら、帰路につくかスマホを見て電車を待つだけの場所。



 けれど今日は、ふと空を見上げた。



 再開発のビルが近くに見える。

 それだけじゃない。



 その先にも、建設中のビルが、もうひとつ見えた。



 ……あっちでも再開発してるのかな。



 今まで気づかなかった。

 二階のホームから遠くを見るなんて、考えたこともなかった。


 視線を上げる余裕がなかったのかもしれない。

 あるいは、この街に、愛着がなかったのかもしれない。



 でも、今は違う。

 あと一年で離れると決まった途端、私はこの場所の輪郭を急に惜しく感じている。

 失うと決まってから、ようやく見えるものがある。

 それは、なんだかずるい。



 ―― 私も、あの建設中のビルみたいだ。



 骨組みだけのまま、どこかで止まっている。

 完成させる前に、別の場所へ移動する。

 そんな感覚。



 自分でもよく分からない動きだった。

 今日はどうしようかな、と、私は考える。



 独り暮らしにも慣れた。

 これからも続けることになる。


 実家は遠くないけれど、通勤できる距離ではない。

 「自立」という言葉は、私にはぴったり当てはまらない。



 ただ、流れのままここにいるだけ。



 でも、その流れは来年変わる。



 ふと、喉が乾いた。


 私は駅前の喫茶店に、ふらっと入った。



* * *



 店内は、昼下がりの静けさを含んでいた。

 コーヒー豆の匂いが強くて、空気が少し重い。


 レジでコーヒーを買い、空いている席を探す。

 ぽつりぽつりと人はいるが、混んではいない。


 壁側の席に座り、紙コップの温度を両手で確かめた。



 熱い。



 でも、この熱さは嫌じゃない。

 手のひらの温度に意識を向けると、頭の中のざわつきが少しだけ静まる。



 私は窓の外を眺めた。

 行き交う人の足音がガラス越しに小さく聞こえる。


 駅前の雑踏は、いつも他人事みたいだ。

 私はこの街の住人なのに、どこか観客のままだ。



 そう思っていたところで、視界の端に、二人組の男性が入った。

 少し離れた席。


 なんとなくガラが悪そうで、印象の良くない見た目。

 声が大きい。


 笑い方が、周りの空気を気にしていない。



 ―― 苦手なタイプだ。



 私の身体は、そう判断するのが早い。

 胸の奥が小さく縮んで、背筋が固くなる。



 男性たちは、こちらをちらちら見ながら何か話している。

 目が合わないように、私は視線をコーヒーへ落とした。

 こういう時は、気づかないふりをするのが一番だ。



 見えないふり。

 聞こえないふり。

 存在しないふり。



 でも、その「ふり」は、相手の勢い次第で簡単に壊れる。



 二人が立ち上がった。



 こちらに近づいてくる足音が、床を軋ませる。

 私の手が、紙コップの縁を強く握った。



 「俺たち今暇でさぁ。ちょっと一緒に楽しく話そうぜ」



 笑いながら言う。

 拒否の余地がない距離で。



 私は、迷惑そうな顔をしたつもりだった。

 でも、そういう顔は、私の得意な表情じゃない。

 どこか「困ってる」だけに見えるのかもしれない。



 男性たちは、気づいているのか、気づかないふりをしているのか、続けてくる。



 「今ここで何してるの?」

 「時間つぶし? 誰かと待ち合わせ?」

 「大学生?」

 「可愛い顔だね」

 「服も似合ってるよ」

 「彼氏いるの?」



 二人同時に、矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。

 質問の形をしているのに、答えを待っていない。

 言葉の洪水。

 私の身体は、呼吸の仕方を忘れそうになる。



 嫌だ。

 迷惑だ。

 やめてほしい。

 そう言いたいのに、喉が固まる。



 私はいつもこうだ。

 嫌なのに、相手もしたくないのに、上手く言えない。

 その場を穏便に終わらせたい、と思ってしまう。


 穏便に、誰も怒らせずに。

 相手を刺激しないように。



 ―― でも、そもそも私が『穏便』にしても、相手がそれを守る保証なんてない。



 分かっているのに、身体が動かない。



 「えっと……」



 言いかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 その小ささが、さらに相手を増長させるのが分かる。



 「ねえ、無視? 恥ずかしがり?」

 「マジ可愛いんだけど」



 笑い声。



 私の耳の奥が熱くなった。



 周りの客が視線を向けている気配がする。



 その視線が「助けて」じゃなく、「面倒事」みたいに感じてしまう。

 私の中で、焦りが膨らむ。



 逃げたい。



 でも、立ち上がって出ていくときに、何か言われそうで怖い。

 怖いから、動けない。

 動けないから、もっと怖い。



 そういう、悪いループ。



 その時だった。



 レジのほうから、コーヒーを持った女性が割り込んできた。



 女性は一人のようだった。



 けれど服装や雰囲気が、男性たちと少し似ている気がして、私は一瞬「知り合いが来たのか」と思ってしまった。



 逃げ場がなくなる。

 胸がぎゅっと縮む。

 少し泣きそうだった。



 女性が、私に話しかけてきた。



 「悪い、遅れた」

 「この男ども何?」

 「相変わらず迷惑なら、はっきり断れって言ってるだろ」



 私は、意味が分からず固まった。



 え、連れ?

 私たちは、会ったことがない。



 女性は、そのまま男性に向き直る。

 目が、鋭い。



 「あたしの連れに絡んでんじゃねぇよ」

 「迷惑なの見てわからねぇの?」



 声は低く、でもよく通った。

 店内の空気が一瞬だけ静まる。



 男性二人が、たじろいだ。



 「す……すいません」

 「独りで暇してるのかと思って」



 女性は鼻で笑う。



 「迷惑そうな顔してるのわかるだろ」



 男性たちは、何か言い返すこともできず、席に戻っていった。

 背中が小さくなる。

 さっきまでの勢いが嘘みたいに。



 私は、体の奥から力が抜けていくのを感じた。

 膝が少し震えていたことに、今さら気づく。



 女性は、私の前の席に座った。

 まるで最初からそこが自分の席だったみたいに自然に。



 「大丈夫か」

 「困ってそうだったからさ」



 声が、さっきより少し柔らかい。

 そして、ほんの少しだけ囁くように続ける。



 「……こういうの、慣れてないだろ」



 私は、やっと息を吐いた。

 見た目で判断しそうになった自分が恥ずかしい。

 でも、恥ずかしいより先に、助かったという事実が大きかった。



 「……ありがとうございます」

 「助かりました」



 女性は肩をすくめる。



 「別にいいよ。あたしも、独りだったし」

 「大人しそうで可愛い顔してるんだから、ちゃんと、はっきり言えないと面倒だろ」



 私は頷く。



 頷きながら、胸の奥が少し痛い。



 そうだ。



 私は、はっきり言えない。



 言えないことで、自分を守ってきたつもりだった。



 でも、守れていないことも多い。



 「よく……今みたいに声をかけられて」

 「でも、言い出しづらくて」



 女性は、テーブルに肘をつき、私の目をまっすぐ見た。



 「わかるよ」

 「でも、はっきり断らないと」

 「あんたみたいなのはさ、まくし立てれば勢いでいけるって、甘く見られてるんだよ」

 「言うときは言わないとな」


 「……はい」

 「そうですよね」

 「ありがとうございます」



 私は、ありがとうばかり言っている。



 それは癖だ。



 相手に嫌われないように、空気を柔らかくするための言葉。

 でも、今の『ありがとう』は、たぶん、ちゃんと本物だ。



 女性は、ふっと笑った。



 「そんなに、かたっ苦しくしなくていいよ」

 「もっと肩の力抜いてさ」



 そう言われて、私は自分の肩が上がっていたことに気づく。

 呼吸も浅かった。

 身体が緊張を溜めたまま、ほどき方を忘れていた。



 「……すみません、癖で」

 「謝るなって。悪いことしてないだろ」



 その言い方が、妙にまっすぐで、私は少し笑ってしまった。

 笑った瞬間、胸の奥の膜が、ほんの少しだけ薄くなる。



* * *



 それから私たちは、簡単な世間話をした。

 私にとってこの時間は、思っていた以上に長く、そして、静かに残るものになった。



 「大学生?」と、女性が改めて聞く。



 「はい。四年です」

 「へぇ。もう就活終わってんの?」

 「内定は……一応、もらってます」

 「すげぇ。えらいじゃん」



 褒められると、私は反射で否定したくなる。

 「そんなことないです」と言う癖。

 でも、女性の目は、否定を許さないみたいに真っ直ぐで、私は言葉を飲み込む。



 「……ありがとうございます」

 「ほら、また『ありがとう』」

 「悪い癖だな」

 「でも、嫌いじゃない」



 女性はそう言って、カップの縁を指で弾いた。

 小さな音が鳴って、店内の静けさに溶ける。



 「一人暮らし?」

 「はい。大学入ってからずっと」

 「この辺?」

 「駅の……反対側の、住宅街です」

 「ふーん。じゃあさっきのあいつら、余計に厄介だったな」



 女性は軽く眉を寄せる。

 私は、どう返したらいいのか分からず、コーヒーを一口飲んだ。



 苦い。



 でも、その苦さが、今は落ち着く。



 「……ああいうの、よくあるの?」



 女性が、少し声のトーンを落として聞く。



 「たまに……あります」

 「断れない?」

 「断りたいんですけど……言葉が、出なくて」

 「言葉、出す前に頭の中で“相手の反応”を全部予測しちゃうタイプか」



 図星で、私は目を瞬いた。



 「……なんで、分かるんですか」

 「分かるよ。昔のあたしも、ちょっとそうだった」

 「まぁ、今は見ての通りだけど」



 女性は笑う。

 私は、つられて笑った。



 この笑いは、不思議と疲れない。



 「名前、聞いてもいいですか?」



 私が恐る恐る言うと、女性はさらりと答える。



 「神谷梨沙、ありふれた名前だろ」

 「そんなことないです……神谷さん」

 「堅苦しいな、『ちゃんとしなきゃ』って感じか、梨沙で良いよ」



 私は、頷いた。



 確かに、私は「ちゃんと」してしまう。

 ちゃんと礼儀を守って、ちゃんと距離を測って、ちゃんと安全な場所に戻る。

 それが癖だ。


 「梨沙……さん」

 「呼び捨てで良いんだけどな、じゃあ、あんたは?」



 梨沙が聞き返す。



 「佐倉真帆です」



 梨沙は、軽く頷いて、それを一度だけ口の中で転がすように呟いた。



 「佐倉真帆、真帆か、へぇ。似合ってる」



 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 名前を呼ばれるのは、慣れているはずなのに、今日は少し違った。



 「真帆は大学ってさ、楽しい?」



 梨沙が、急にそんなことを聞いた。



 私は、答えに詰まる。



 楽しい、と思いたい。



 でも、楽しいと断言できるほど、何かに夢中だったわけでもない。



 ただ、日々が過ぎた。



 「……楽しい、こともあります」

 「正直だな」

 「でも、なんか……」



 私は言葉を探す。



 梨沙は急かさない。



 待つのが上手だ。



 その待ち方に、私は少し救われる。



 「……友達はいるんですけど」

 「親友、って感じの人は、いなくて」

 「私が……うまく距離取っちゃうから」



 言ってしまってから、恥ずかしさが押し寄せる。

 初対面の人に、何を話しているんだろう。



 でも、梨沙は笑わなかった。



 「ふーん」

 「じゃあ、今日あたしと話してんの、結構レアなんじゃね?」

 「……はい」

 「じゃあ、レア体験にしとけ」



 その言い方が、乱暴なのに優しくて、私はまた笑ってしまう。



 「……梨沙さんは、普段こういう店で……?」

 「ん? ああ。たまに来る」

 「一人の時もあるし、仲間と来る時もある」

 「でも仲間といると、うるせぇんだよな」



 梨沙は肩をすくめ、面倒そうに笑った。



 「仲間って……その、さっきの人たちみたいな?」



 私が言うと、梨沙さんは「違う違う」と手を振る。



 「さっきのは、知らねぇ」

 「ああいうのは、どこにでも湧く」


 「仲間は……まぁ、似た雰囲気のやつもいるけど」

 「根っこは悪くない」

 「ただ、声がでかい。酒が入ると、さらに」



 私は、少し想像して、苦笑いする。



 「……大変そうですね」

 「大変っていうか、飽きる」

 「だから、たまに静かな場所に避難する」

 「で、今日は真帆がいた。―― ラッキー」


 「ラッキー……?」

 「うん。助ける理由ができた」

 「正義感っていうより、気分」



 梨沙の言葉は、格好つけていない。



 だからこそ、信用できる気がした。



 私の中の警戒が、少しずつほどけていく。


 「……でも、ありがとうございます」



 私が言うと、梨沙はわざとらしくため息をついた。



 「だから、謝るな、礼言うな、ってわけじゃないけどさ」

 「『ありがとう』って言葉、便利すぎるんだよ」

 「便利すぎると、気持ちが薄まる」

 「……たぶん」



 最後の「たぶん」が、可笑しくて、私は笑った。



 梨沙も笑う。



 店内に、さっきまでの怖さの残り香が、やっと消える。



 私は、梨沙に好印象を抱いた。



 さっきまで「苦手」と決めつけかけた自分が、少しだけ情けない。

 見た目で判断するのは簡単だ。

 でも、見た目の奥にあるものは、話してみないと分からない。



 話してみる、ということ自体が、私には少し怖い行為だった。

 けれど、今日の私は、たしかにここにいる。

 怖さの中に座って、コーヒーを飲んで、笑っている。



 窓の外では、駅前の人の流れが続いている。

 再開発のビルは、きっと今も近くに見える。

 でも、今の私は、少しだけ違う距離で世界を見ている気がした。



 それが、ただの気のせいで終わるのか。

 それとも、何かの始まりになるのか。



 その答えは、まだ分からなかった。



 梨沙は、スマホの画面を一度だけ覗き込み、舌打ちみたいに小さく息を吐いた。



 「……やべ、時間」

 「もう行くんですか?」

 「用事ってほどじゃねぇけど、遅いと面倒になるやつ」

 「でも、まぁ……」



 梨沙は立ち上がりながら、私の紙コップをちらりと見て言った。



 「その顔、さっきよりマシになった」

 「……そうですか」

 「うん。だから今日は勝ち」



 勝ち、という言葉が、妙に胸に残る。

 私は勝ってなどいない。


 ただ、助けてもらって、話をしただけだ。

 でも、「勝ち」と言われると、ほんの少しだけ自分が強くなった気がした。



 「また、会うかもな」

 「え……」

 「駅前、狭いし。こういう店、他にもあるし」

 「……はい」



 私は、咄嗟に「また」と言い返せなかった。

 言えなかったことが悔しくて、でも追いかけるほどの勇気もなくて、ただ小さく頷く。



 梨沙は、ドアのベルを軽く鳴らして店を出た。

 背中は、思ったより小さかった。

 強そうに見えたのに、少しだけ寂しそうにも見えた。



 私は席に残り、冷めかけたコーヒーを一口飲む。

 窓の向こう、遠くに見える建設中のビルが、夕方の光で薄く霞んでいた。



 ―― 近くに見えるものは、時々、手を伸ばしても届かない。


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