第23話:解体される台本(Deconstructing the Script)

### 第二十三話:解体される台本(Deconstructing the Script)


 

 

 フロントガラスを叩く雨粒が、街灯の光を乱反射させ、慶太の視界を幾千もの破片に断片化していた。

 

 

 深夜、二時。

 

 

 社用車の車内に充満する、湿ったシートの匂いと、微かに残るタバコのヤニの臭い。慶太はハンドルを握りしめたまま、数メートル先に聳え立つ白亜の要塞――佐藤健司が収容されている聖マリアンナ記念病院を見つめていた。

 

 

 その建物の最上階。ナミが特別に手配した、音も光も遮断された完全なる「管理室」。

 

 

 ナミにとって、そこは単なる病室ではない。

 

 

 自分を裏切った、あるいは自分から逃げようとした男たちを、二度と外界へ逃さないための、精神的な「標本箱」なのだ。慶太は、神代毅から盗み出した病院の機密データを頭の中で反芻する。ナミは、深夜の回診が終わるこの時間に現れる。彼女が最も愛するのは、誰にも邪魔されない深夜、自らの手で完成させた「無力な傑作」を慈しむ時間なのだから。

 

 

 

 

 

「……山伏くん。君が今、見つめているその暗闇。……それは、ナミさんが見ていた景色と、何が違うんだ?」

 

 

 取調室。

 

 

 刑事・富樫の声が、慶太の鼓膜を不快に震わせる。富樫は卓上の灰皿を慶太の方へ押しやり、冷徹に言葉を続けた。

 

 

「君はナミを壊すと言った。……だが、君が用意した『佐藤薫』という名の偽物は、もはや君の支配下にある。……相手に衣裳を着せ、髪型を整え、台詞を教え込み、自分のために死地へ向かわせる。……それは、ナミがサキに対して行っていたことの、完璧なコピーじゃないのか?」

 

 

 慶太は、富樫の問いを、降りしきる雨音のように受け流した。

 

 

「……いいえ。ナミは、他人を自分の一部にしようとしました。……俺は、自分の一部を、彼女たちの『地獄』の中に返してやるだけです」

 

 

 

 

 

 助手席のドアが開いた。

 

 

 冷たい夜気と共に、あの「百合の香り」が車内に流れ込む。

 

 

 乗り込んできたのは、紺色の事務制服を着た女性だった。低い位置でまとめられたポニーテール。ピンクのシュシュ。暗がりの中、彼女の横顔は、あの日、銀座の路上で慶太のネックレスを拾い上げた「サキ」そのものに見えた。

 

 

「……準備は、いいですね。薫さん」

 

 

 慶太は一度も彼女を見ようとせず、前を見据えたまま問いかけた。

 

 

 薫は、膝の上に置いたあの「泥まみれのネックレス」の鎖を指先に絡ませ、小さく、しかし鋼のような硬さを持った声で応えた。

 

 

「……いいえ。佐藤薫は、もういません。……私は、あの子を殺しに来たの」

 

 

 あの子。

 

 

 薫の言う「あの子」が、ナミを指しているのか、それとも自分自身の「平凡だった過去」を指しているのか。慶太には分からなかった。ただ、隣に座る彼女の存在感が、一秒ごとに希薄になり、代わりに無機質な「復讐の記号」へと変質していくのを肌で感じていた。

 

 

「ナミは、自分の計画にない『バグ』を極端に嫌います。……彼女の目の前に、死んだはずのサキとして現れてください。……彼女の理性が、その不合理を処理できず、パニックに陥るその瞬間が、唯一の勝機です」

 

 

 慶太は、神代から託された「録音機」を薫に手渡した。

 

 

「これには、神代さんが命を懸けて集めた、ナミさんの過去の『譲渡記録』がすべて入っています。……彼女の積み上げてきた蜃気楼を、内側から爆破するための火薬です」

 

 

 薫は、その小さな機械を、愛おしい子供の手を握るように、強く、強く握りしめた。

 

 

「……行きましょう。慶太さん。……私たちが、本当のサヨナラを言うために」

 

 

 慶太は社用車のギアをドライブに入れた。

 

 

 ナミが作り上げた、完璧な対称性を持つ世界。

 

 

 慶太は今、その台本の最終章を、誰の許可も得ず、自分の血で書き換えようとしていた。

 

 

 病院のゲートが開く。

 

 

 雨音は激しさを増し、世界の境界線を曖昧に溶かしていく。

 

 

 鏡の国での、最後のダンス。

 

 

 その幕が、今、不吉なサイレンの音と共に、音もなく上がった。

 

 

 

 

 

(つづく)


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