第三話:銀行の裏口、重い扉

第三話:銀行の裏口、重い扉


十二月二十八日。御用納めを目前に控えた街は、どこか浮き足立ち、誰もが「数へ日」の終わりを惜しむように早歩きで過ぎ去っていく。


紗理奈は、都心のメガバンクの、通用口の前に立っていた。 正面の重厚な回転ドアではない。警備員が鋭い視線を光らせる、目立たないスチールの扉だ。事前に指定された電話番号に連絡すると、ほどなくして、隙のないスーツを纏った若い行員が現れた。


「……小林紗理奈様ですね。お待ちしておりました」


その声は、冬の「雪」のように静かで、一切の感情を排していた。 案内された先は、一般の窓口とは完全に切り離された別世界だった。 エレベーターを降りると、そこには深緑色の厚い絨毯が敷き詰められていた。一歩踏み出すたび、足が沈み込み、歩く音さえ吸い込まれていく。そのあまりの柔らかさに、紗理奈は自分が、泥だらけの靴で聖域を汚す「場違いな石ころ」になったような感覚に襲われた。


(……怖い。帰りたい)


喉の奥が「霜」が降りたように冷たく強張り、心臓の鼓動だけが耳の奥で激しく鳴っている。 通された応接室には、高級な沈香のような香りと、わずかに「炭」を焚いたあとのような乾いた匂いが漂っていた。壁には、冷たい川面に浮かぶ「真鴨」を描いたような、静謐な絵画が掛けられている。


「どうぞ、お掛けください」


向かい側に座ったのは、白髪混じりの、穏やかだが射抜くような瞳をした初老の男性だった。役職は、支店長代理。


「小林様。お手元の当せんくじ、拝見いたします」


紗理奈は、震える指先で、ビニールケースに入れた一枚の紙を差し出した。 行員がそれを専用の機械に通し、数分間の沈黙が流れる。 その間、紗理奈は机の下で、自分の膝をきつく握りしめていた。爪が食い込み、痛みが現実へと繋ぎ止めてくれる。


「……間違いございません。ロト6、一等。当せん金、六億円。本日、全額を小林様のご指定口座へ入金いたしました」


さらりと言われた。 「おめでとうございます」という爆辞も、ファンファーレもない。 ただ、事務的に。六億円という、一生掛かっても稼げない大金が、私の名前の横に刻まれたのだ。


「そして……こちらをお渡しいたします。当せんされた方、皆様にお配りしているものです」


差し出されたのは、一冊の薄い冊子だった。 タイトルは『【その日】から読む本』。 手に取ると、紙の質感が驚くほどしっとりと指に馴染んだ。高級なクリスマスローズの花びらを触っているような、しなやかで、しかしひどく重い手触り。


「小林様。これから申し上げることは、非常に重要です」


支店長代理のトーンが、一段階下がった。 窓の外を、冬の「鷹」が横切るような鋭い緊張感が部屋に走る。


「まず、誰にも言わないでください。 ご家族、親友、恋人。どんなに信頼している相手であってもです。お金は、人を狂わせます。そして、教えた瞬間に、あなたの人間関係は二度と元には戻りません」


「……誰にも、ですか? 母にも?」


「お勧めしません。善意のつもりで分け与えたとしても、それが争いの種になります。この冊子には、当せん者のその後が詳しく記されています。……不幸になった方々の例も」


紗理奈は、冊子を握りしめた。 昨夜、真由に「具だくさんのカップ麺」を返したときの、あの形容しがたい疎外感が蘇る。 あの時感じた「透明な壁」の正体を、この男ははっきりと言葉にしたのだ。


「あなたは今日、六億円を手に入れました。と同時に、誰とも共有できない**『孤独』**を買い取ったのです。……それが、この金の対価です」


孤独を、買い取った。 応接室に用意された、上品な「九年母(くねんぼ)」の香りがするお茶は、もう冷め切っていた。 一口啜ったが、味はしなかった。ただ、喉を冷たく通り抜けていくだけ。


「……私、普通の介護士なんです。手取り十八万で、二十パーセント引きの惣菜を買うのが楽しみで。……そんな私が、この重さに耐えられますか?」


「それを決めるのは、あなた自身です。……ただ、一つだけ。この部屋を出るときは、何食わぬ顔をしてください。板橋の街に戻り、いつも通りの生活を送るのです。それが、あなたを守る唯一の方法です」


支店長代理は立ち上がり、深々と頭を下げた。 儀礼的で、しかし絶対的な決別の礼。


応接室を出て、再び通用口から外に出た瞬間、冷たい風が紗理奈の頬を叩いた。 目の前には、年末の買い出しに急ぐ人々。八百屋の店先で、定価の蜜柑を品定めする主婦。 世界は、さっきと何ら変わっていない。 なのに、紗理奈の目には、すべてが書き換えられた暗号のように見えた。


「……よし」


彼女は、鞄の中の重い冊子を、他人の目から隠すように強く抱きしめた。 六億円。 それは、温かな「温め酒」のような救いではない。 誰もいない雪原を、たった一人で歩き続けるための「年歩む」覚悟そのものだった。


家路につく電車の窓に、自分の顔が映る。 その目は、さっき支店長代理が言った通り、どこか光を失った、深い孤独を湛えていた。


板橋の駅を降りると、いつものスーパーの看板が見えた。 紗理奈は、深呼吸をした。 冷たい空気が肺を満たし、少しだけ正気に戻る。


(私は、私だ。……まだ、何も壊れていない)


自分に言い聞かせながら、彼女は雑踏の中へと消えていった。 ポケットの中で、昨日の夜勤で汚れたままのハンカチが、やけに生々しく指先に触れていた。


【第四話へ続く:はじめての「お金の勉強」】


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