第二話:十八万円の価値
第二話:十八万円の価値
「……紗理奈ちゃん、聞こえてる? 四〇二号室、センサー鳴ってるわよ」
山根さんの低く、疲労の澱(おり)が沈んだような声がインカムから流れてきた。 紗理奈はハッとして、握りしめていたプラスチックのコップを置いた。深夜二時。施設内は「温め酒」を飲んで寝静まったあとのような、重く、どこか湿り気を帯びた静寂に包まれている。
廊下に出ると、ツンとした消毒液の匂いが鼻腔を突いた。 「霜」の降りるような外の寒さとは対照的に、暖房の効きすぎた廊下はどこか脂っぽく、肌にまとわりつく。リノリウムの床を踏み締めるたび、安物のナースシューズが「ギュッ、ギュッ」と、粘りつくような音を立てる。その一歩一歩の重さが、今の自分にはひどく不釣り合いに感じられた。
(私のポケットには、今、六億円が入っている。……いや、正確には銀行の数字だけど。でも、今から私は、オムツを替える。一回数百円の、労働として)
四〇二号室の扉を開けると、排泄物と古くなった体臭が混ざり合った、濃厚な生活の匂いが押し寄せた。
「……あ、サリナさん……ごめんね、また汚しちゃって」
ベッドの上で小さくなっているのは、かつて学校の先生をしていたという老婆だ。 紗理奈は無言でビニール手袋をはめた。指先がゴムの摩擦で軋む。テキパキとオムツを外し、温かい蒸しタオルで肌を拭う。指先に伝わる、他人の肌の、生々しくて、少しだけ心細い温度。
(この一連の動作に、いくらの価値があるんだろう)
脳の片隅で、卑しい計算が止まらない。 手取り十八万円。時給換算すれば千円ちょっと。深夜手当がついても、たかが知れている。 今この瞬間、六億円を運用していれば、ただ呼吸をしているだけで私の月収以上の金が生まれているはずなのだ。 そう思うと、目の前の「汚れた現実」が、急に色褪せて見えた。 いや、違う。色褪せたのは、私の方だ。
「……紗理奈さん? 手、止まってるわよ」
「あ、すみません」
老婆の痩せ細った足を戻しながら、紗理奈はめまいに似た感覚を覚えた。 お金の「先生」が言った人格の分離が、うまくいかない。 六億というバグった数字が、十八万の労働を「無意味な砂遊び」だと嘲笑っている気がした。
休憩室に戻ると、同僚の真由がカップ麺を啜っていた。 「真鴨」が冷たい水面で肩を寄せ合うように、彼女は小さなパイプ椅子で背中を丸めている。
「お疲れ、紗理奈。四〇二号室、大変だったでしょ。あの人、夜中になると活発だもんね」
真由は麺を啜りながら、スマホの画面を睨んでいた。 「九年母」の皮でも剥くように、彼女の指先はカサカサにささくれ立っている。
「……そうだね」
「あ、そうだ。紗理奈。先週、夜食のカップ麺貸したじゃん。あれ、今日返してくんない? 私、今月マジで詰んでて。給料日まであと三日なのに、財布に五百円しかないの」
真由は冗談めかして笑ったが、その瞳の奥には、生活に追い詰められた者特有の切実な光が宿っていた。 「数へ日」の焦燥が、彼女の毎日を容赦なく削っているのがわかる。
「カップ麺……」
「そう。コンビニのやつ。百五十円くらいの」
百五十円。 六億円の、四百万分の一。 今の紗理奈なら、この休憩室をカップ麺で埋め尽くすことだってできる。真由の奨学金を一括で返して、ハワイへ送り出すことだって、指先一つでできる。
「……わかった。後で買ってくるね」
「ごめんねー、助かる! 恩に着るよ。これで明日まで生き延びられるわ」
真由は嬉しそうに、安っぽい醤油味のスープを飲み干した。 その無邪気な感謝が、紗理奈の胸に、鋭い「鷹」の爪を立てたように突き刺さる。
(どうして、こんなに苦しいの)
真由は、百五十円の貸し借りで、今日を生き延びている。 私は、六億円を隠し持ちながら、彼女の困窮をただ眺めている。 「沈黙」を守るということは、こんなにも冷酷なことだったのか。
「……ねえ、真由」
「ん?」
「もし、宝くじとか当たったら、どうする?」
「またその話? 決まってるじゃん、速攻でこの仕事辞めるよ。南の島で、一生クリスマスローズでも眺めて暮らすわ。……でも、当たんないよねー。私たちみたいな人間にはさ」
真由は笑いながら、空の容器をゴミ箱に投げた。コンッ、という軽い音。 その放物線が、紗理奈には「絶対的な断絶」の形に見えた。 私たちは、十八万円で繋がっていた。 同じ苦しみを分かち合い、愚痴を吐き、安っぽいカップ麺を貸し借りすることで、孤独を凌いできたはずなのに。
なのに、私はもう、彼女と同じ場所にはいない。 六億円という透明な壁が、私たちの間に、冬の「雪」のように高く、冷たく、音もなく降り積もっている。
「……っ」
不意に、視界が滲んだ。 鼻の奥がツンとして、涙が一気に溢れ出した。
「え、ちょっと、紗理奈!? なんで泣いてんの? ごめん、カップ麺くらいで催促したから? 怒った?」
「ちが、違うの。違う……」
慌てて駆け寄る真由の、消毒液とカップ麺の匂いが混ざった「労働者の匂い」が、たまらなく愛おしく、そして恐ろしかった。 私は、この温かな泥の中から、一人だけ抜け出してしまった。 孤独を買い取ったという、あの先生の言葉が、今、猛烈な寒さと共に心臓を掴む。
「……ごめん。なんか、急に疲れちゃって。……今からコンビニ、行ってくるね」
紗理奈は逃げるように休憩室を出た。 深夜の廊下に、自分の足音だけが空虚に響く。靴底が床に貼りつく感覚が、やけに重かった。
外に出ると、空には月が冷たく輝いていた。 板橋の古い住宅街。窓から漏れる微かな灯り。 皆、明日の数千円、数万円のために、身を削って眠っている。
紗理奈は自販機の横でうずくまり、声を殺して泣いた。 六億円は、自由をくれたのではない。 世界との「繋がり」を、一本ずつ、残酷に断ち切っていく刃だった。
手の中の、十八万円の給与明細が入った財布。 それをぎゅっと抱きしめる。 今、私をこの世界に繋ぎ止めているのは、六億の残高ではない。 真由に返さなければならない、百五十円のカップ麺という、あまりにも小さくて、あまりにも尊い「義務」だけだった。
「……よし」
紗理奈は涙を拭い、立ち上がった。 「年歩む」夜の冷気に背中を押されながら、彼女は二十四時間営業の光の中へと、一歩を踏み出した。
(せめて、一番高い、具だくさんのカップ麺を返そう)
それが、今の自分に許された、精一杯の「聖夜」の代わりだった。
【第三話へ続く:銀行の裏口、重い扉】
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