『6億円の介護士 ―24歳、紗理奈のお金の履歴書―』
春秋花壇
第1話「月曜日のバグ」
ご提示いただいた鋭い改善ポイントをすべて反映し、紗理奈の「地に足のついた恐怖と決意」をより鮮明に浮き彫りにした第1話の完成稿を執筆しました。
第一話:月曜日のバグ
十二月二十七日、月曜日。 冬の朝の空気は、キンと冷えた「霜」を孕んで、喉の奥を刺すように冷たい。
「……おはようございます」
紗理奈は、夜勤明けの重い体を引きずりながら、更衣室で制服を脱いだ。 指先が、洗い残した消毒液のせいでカサカサと白く乾き、ストッキングに引っかかって「チリッ」と嫌な音を立てる。いつもなら、このままコンビニで割引の蜜柑でも買って、泥のように眠るだけの一日だ。
だが、今の紗理奈のポケットには、たった一枚の「紙」が入っている。 昨夜、深夜のナースコールが止まった隙に、トイレの個室で確認したあの数字。
(……まだ、夢の続きみたいだ)
足元がふわふわと浮いているような感覚。 更衣室を出ると、廊下には「クリスマスローズ」の鉢植えが、冬の低い陽光を浴びて静かに俯いていた。
「紗理奈ちゃん、お疲れ様。顔色悪いわよ? ちゃんと寝なさいね」
ベテラン介護士の山根さんが、背中を叩いて通り過ぎる。その手のひらの温かさに、紗理奈は反射的に肩を震わせた。 もし、今この瞬間に「私、6億円当たりました」と言ったら、この人はどんな顔をするだろう。 優しく笑ってくれるだろうか。それとも、川面に浮かぶ「真鴨」の群れのような、冷たくて濁った目で私を見るようになるのだろうか。湿った川の匂いまで連れてくるような、あの拒絶の目で。
「……っ、お疲れ様です!」
逃げるように施設を飛び出した。 外に出ると、高架下をくぐる風が「ヒュッ」と鳴り、空には鋭い輪郭を持った「鷹」が、風を切って高く舞っていた。 自由。 そう、私は自由になったはずなのに、呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が苦しい。
紗理奈は、銀行でもらった薄い冊子の『当選者専用相談窓口』に震える手で電話をかけ、最短で取れた予約のメモを握りしめて、都心の古びたビルの一室を訪ねた。 「ファイナンシャル・コンサルティング」 看板の文字はひどく素っ気ない。扉を開けると、そこには「炭」を焚いたような、乾いた落ち着いた香りが漂っていた。
「……あの、予約していた、小林紗理奈です」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
出てきたのは、年の頃は五十過ぎ、整ったスーツを纏った「先生」だった。 彼は紗理奈の前に、湯気の立つ温かなほうじ茶を置いた。
「まず、おめでとうございます。そして、よくぞここまで、誰にも言わずに来られましたね」
先生の言葉は、冬の「雪」のように静かに、紗理奈の耳に届いた。
「先生、私……怖くて。残高のゼロが並んでいるのを見たら、自分の人生が『バグった』みたいで。このお金、どうしたらいいんですか? 誰かに言わなきゃいけないんですか?」
「いいえ。一番大切なのは、**『沈黙』**です」
先生は、一枚の真っ白な紙を机に置いた。
「いいですか、紗理奈さん。今、あなたの前にあるのは『6億円』という名の巨大なエネルギーです。これは包丁と同じ。美味しい料理を作ることもできれば、自分を傷つけることもある。だからこそ、まず最初にすべきは、**『情報の防衛』**です」
「防衛……?」
「そうです。誰にも言わない。SNSにも書かない。生活を変えない。今まで通り、夜勤に行って、今まで通り蜜柑の値段を気にする。それが、あなたという『個』を守るための、最強の盾になります」
先生の声には、圧倒的な説得力があった。 「数へ日」の慌ただしさの中で、この部屋だけが時間の止まった真空地帯のようだった。
「次に、**『人格を分ける』**ことです。6億円を一つの塊として見ない。生活のための口座、万が一のための防衛費、そして、将来の夢のための『種火』。……お金に人格を持たせて、別々の部屋に住まわせてあげなさい。そうすれば、数字はあなたを支配する魔物ではなく、あなたの味方になります」
「そして、もう一つ。『30日ルール』。どんなに欲しいものがあっても、30日間は買わない。その間に、その欲望が『自分のもの』か、それとも『お金の魔力が見せている幻』かを見極めるんです」
紗理奈は、渡されたメモをじっと見つめた。 書いてあるのは、ただ、**「自分という人間が、お金に食われないためのルール」**だけだった。
「……私、ずっと、お金さえあれば幸せになれると思ってました。でも、当たった瞬間に感じたのは、絶望的な『孤独』だったんです。私だけが、みんなと違う世界に行っちゃったみたいな……」
「それは、あなたが誠実な証拠ですよ。お金は孤独を連れてきます。でも、その孤独を愛せるようになったとき、お金は本当の『自由』に変わる。……今年の『年の内』に、じっくりと考えてみてください。あなたが、そのお金を使って、どんな景色を見たいのかを」
ビルの外に出ると、日は既に傾き、八百屋の店先には「九年母」の札が揺れていた。 街には「聖夜」の余韻を消し去るような、冷徹な夜風が吹いている。
紗理奈は、駅前のスーパーに寄った。 棚には、相変わらず「20%引き」のシールが貼られたお惣菜が並んでいる。 いつもなら、それを迷わず手に取っていただろう。 だが、今日は、その隣にある定価の、少しだけ高そうな鮭の切り身を見つめた。
(……30日、待とう。今はまだ、この20%引きの感覚が、私をこの世界に繋ぎ止めてくれる気がするから)
彼女は、値引きシールのついた惣菜と、一袋の蜜柑を買って、アパートへと歩き出した。 自転車のカゴで、蜜柑の袋が「ごとん」と重く鳴る。その振動が、なぜか頼もしかった。 冷えた指先で蜜柑の皮を剥くと、甘酸っぱい香りが、冬の乾燥した空気の中に弾けた。
「……よし。明日の夜勤も、頑張ろう」
残高6億円。 けれど、今日のご飯は、いつもの味がした。 それが何よりも、今の紗理奈を安心させた。
「年歩む」足音は、静かで重い。 板橋の空には、冬の月が、どこまでも澄んだ光を投げかけていた。 郵便受けに刺さった家賃の振込用紙を抜き取り、彼女は静かに、部屋のドアを開けた。
【第2話へ続く:18万円の価値】
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