下北沢の目撃者

不思議乃九

下北沢の目撃者

第1章:それぞれの下北沢


Part A:白鳥聖来


二月下旬の下北沢は、春の予感と冬の居座りがせめぎ合う、少し騒がしい風が吹いていた。


「わあ……! この看板、めっちゃいい感じ!」


ロングヘアの少女、白鳥聖来は、細い路地裏の角で足を止めた。茶色がかった明るい髪が風に踊り、彼女の頬を撫でる。聖来はすぐさまスマホを構えた。錆びついた鉄製の看板に、手書きのフォントで書かれた古着屋の名前。その絶妙な枯れ具合が、彼女の好奇心をくすぐる。


カシャ、カシャ。

小気味よいシャッター音が響く。聖来にとって、これは呼吸と同じだ。心が動いた瞬間に指が動く。無意識にシャッターを切るこの癖は、彼女が「世界」と繋がるための儀式のようなものだった。


「ふふ、いい顔してる」


スマホの画面を確認し、聖来は満足げに微笑んだ。その頬には、深いエクボがくっきりと浮かんでいる。彼女が笑うだけで、薄暗い路地裏に陽が差し込んだような錯覚さえ覚える。


「すみませーん!」


聖来は、近くで段ボールを畳んでいた雑貨屋のおばさんに、迷いなく声をかけた。初対面の相手だろうが関係ない。彼女のコミュ力は、もはや天賦の才だった。


「この先にある雑貨屋さんって、有名なんですか? さっきからオシャレな人がたくさん入っていくのが見えて」


おばさんは突然の問いかけに一瞬戸惑ったが、聖来の屈託のない笑顔と、深いエクボを前にすると、自然と目尻を下げた。


「ああ、そうねえ。あそこはこの辺じゃ老舗よ。掘り出し物が多いから、若い子にも人気なのよ」


「老舗! ますます気になります。ありがとうございます!」


聖来は元気よく頭を下げると、弾むような足取りで歩き出した。推薦入試で合格を決めた某美術大学。春から始まる新しい生活への期待が、彼女の全身から溢れ出していた。東京は、どこを撮っても面白い。ファインダー越しに見る世界は、いつだってキラキラと輝いている。


そんな彼女の足が、ふと止まった。

賑やかな通りから一本外れた、少し奥まった場所。古いビルの入り口に、一枚の控えめな看板が立っていた。


『シアター・エコー』

その下には、モノクロのスタイリッシュなポスター。

『今夜19時開演 夜の底 作・演出:桐島悠人』


「……演劇、か」


生の舞台なんて、一度も見たことがない。けれど、その古いビルの、どこか退廃的で重厚な雰囲気が、聖来の「撮りたい欲」を強く刺激した。


「せっかく東京に来たんだし、冒険してみようかな」


好奇心が不安を軽々と飛び越える。聖来は迷わず階段を駆け上がった。

二階にある受付カウンター。


「あの、当日券ってありますか?」

満面の笑みで尋ねる聖来に、スタッフの女性が「はい、2000円です」と答える。

「じゃあ、一枚お願いします!」

チケットを受け取りながら、聖来はこっそり劇場の外観をスマホに収めた。カシャ。無意識のシャッター。その時の彼女はまだ知る由もなかった。この好奇心が、平和だった彼女の世界を一変させることになるなんて。


「どんな舞台なんだろう。楽しみ!」


開演までの時間、近くのカフェで今日撮った百枚以上の写真を見返しながら、聖来はまた、幸せそうにエクボを浮かべていた。


Part B:式守奈々未


午後六時三十分。開演三十分前の『シアター・エコー』の受付は、外の喧騒を遮断したような静謐さに包まれていた。


「……九十七、九十八、九十九」


式守奈々未は、伏し目がちにパンフレットの束を整理していた。肩につかない程度の黒いボブヘアが、彼女の白い首筋に影を落とす。黒のタートルネックにグレーのカーディガンという地味な装いだが、その隙のない佇まいは、周囲を拒絶するような鋭いオーラを放っていた。


カツ、カツ、と乾いた足音が近づき、一人の男性客がカウンターの前に立った。

奈々未がゆっくりと顔を上げる。

その瞬間、客の男が、小さく息を呑むのが分かった。


伏せられていた長い睫毛が上がり、大きな、けれど温度を感じさせない瞳が、真っ直ぐに自分を捉えたからだ。

明らかに、目を引くほどの美女だった。

だが、その美貌は他人を惹きつけるためのものではなく、近寄らせないための障壁のように機能している。


「いらっしゃいませ」


予想外に低く、けれど芯の通ったクリアな声。

客は気圧されたように、慌ててチケットを差し出した。奈々未が事務的に半券を捥ぎると、男は逃げるように客席へと向かっていった。


(……また、避けられた)

奈々未は小さく、自分にしか聞こえないような溜息をついた。

慣れている。物心ついた時から、自分は常に「外側」にいた。他人に干渉せず、干渉させない。それが、孤独に慣れすぎた彼女の処世術だった。


「奈々未さん、照明の準備は?」


背後から神経質そうな声がした。劇団『夜想曲』の主宰、桐島悠人だ。黒縁メガネの奥で、異様な熱を帯びた瞳がギラついている。


「……問題ありません」

奈々未は感情を削ぎ落とした声で答える。


「今日の公演、完璧にしてくれ。主演の彩には、最高の舞台を用意してあるんだ」


桐島の言葉に、奈々未は視線を楽屋の方へと向けた。そこから、一人の女性が現れる。主演女優、川崎彩。

華奢な肩が痛々しいほど痩せ、色白の肌は透けるほどに青ざめている。目の下の深いクマは、メイクでも隠しきれていない。


(……彩さん、また酷くなってる)

最近の彼女は、明らかに異常だった。限界を超えて、何かに取り憑かれたような危うさがある。

けれど、奈々未は何も言わない。それが彼女のルールだからだ。他人の脚本に口を挟む権利は、自分にはない。


奈々未は受付を他のスタッフに任せ、客席後方の狭い照明ブースへと移動した。


そこは、彼女にとっての聖域だった。

古い調光器の感触を確かめ、プログラムをチェックする。手つきに迷いはない。

彼女は、この劇場のすべてを知っている。

どの扉の建付けが悪く、どの通路が倉庫を抜けて裏口に繋がっているか。配線の位置から、非常階段の鍵の癖まで。まるで舞台装置の設計図が頭の中に焼き付いているように、この複雑な構造を完璧に把握していた。


「私は、いつも観る側」

照明ブースの小窓から、埋まり始めた客席を見下ろす。

舞台に立つ勇気はない。自分をさらけ出すことなどできない。けれど、照明という光の脚本を書くことで、演劇の一部になれる。それで十分だと思っていた。


「……まもなく、開演」


奈々未は冷たい指先で、メインフェーダーに触れた。

客席が暗転し、重苦しい静寂が劇場を満たす。

それが、すべての崩壊と、そして新しい「絆」の始まりを告げる幕開けになるとは、この時の奈々未もまだ、気づいていなかった。


第2章:目撃と追跡の始まり


Part A:公演『夜の底』


午後七時。客席の照明がゆっくりと落ち、シアター・エコーは完全な闇に包まれた。


聖来は、後方のパイプ椅子に深く腰掛け、膝の上でパンフレットを握りしめていた。客席は五十席ほど。手の届きそうな距離に舞台がある。観客たちの吐息や、衣擦れの音さえもが、濃密な空気となってこの狭い空間に充満していた。


(小劇場って、こんなに近いの……?)


期待と、少しの気圧されるような感覚。聖来の心臓は、いつもより少しだけ速く鼓動を刻んでいた。

やがて、一本のスポットライトが舞台中央を射抜いた。


そこに立っていたのは、主演の川崎彩だった。


舞台『夜の底』は、孤独に苛まれる一人の女性が、自らの狂気と対峙し、やがて崩壊していくまでを描く密室劇だった。幕が上がった瞬間、聖来は息をすることさえ忘れた。


「……あ」

言葉が漏れそうになり、慌てて口を押さえる。

そこにいるのは、さっき廊下で見かけた、やつれた女性ではなかった。

圧倒的な熱量。叫び。震える指先。

彩の独白が響くたび、劇場の空気が物理的に震えているように感じられた。


(すごい……これが、本物なんだ)


いつもなら無意識にスマホを構えるはずの聖来の手が、動かない。ファインダー越しに世界を切り取る必要なんてなかった。剥き出しの感情が、直接彼女の心に突き刺さってくる。


けれど、物語が終盤に差し掛かった時。


彩が床に崩れ落ち、虚空を見つめて笑うラストシーンで、聖来の胸に微かなざらつきが走った。


「……?」

彩の瞳が、異様に大きく見開かれている。その視線はどこも見ていないようでいて、何かに必死にしがみついているようにも見えた。床についた彼女の手が、演技とは思えないほど激しく痙攣している。


(今の……演技、だよね?)


違和感はすぐに拍手にかき消された。

カーテンコール。鳴り止まない拍手の中、彩は何度も深々とお辞儀を繰り返した。客席からは「ブラボー!」という声が上がる。


けれど、聖来は見逃さなかった。

舞台の袖へ戻る際、一瞬だけ見せた彩の笑顔が、まるで糸で吊り上げられた人形のように、硬く、不自然に歪んでいたことを。


「お疲れ様でした……」

聖来は小さく呟き、拍手に加わった。凄まじいものを見た。けれど、その余韻の中には、拭いきれない冷たい不安が混じっていた。


Part B:決定的瞬間


終演後のロビーは、興奮冷めやらぬ観客たちで溢れかえっていた。

聖来は人混みを避け、トイレを探して奥の通路へと足を踏み入れた。


「あれ、こっちじゃないのかな……」


案内板が見当たらない。古いビルの廊下は迷路のように入り組んでいる。さらに進むと、客の声は遠ざかり、代わりにひんやりとした静寂が漂い始めた。壁には古い公演のポスターが何枚も貼られ、照明も心許ないほどに暗い。


(やばい、楽屋の方に来ちゃったかも)


引き返そうとした、その時だった。

すぐ近くの、半開きになった扉の向こうから、低く押し殺したような声が聞こえてきた。


「——彩、これを飲め」


聖来は凍りついたように足を止めた。桐島悠人の声だ。昼間の冷徹な響きとは違う、執着に満ちた、威圧的なトーン。


「もう……無理です。桐島さん、限界です……。体が、変なんです」


それは、川崎彩の声だった。舞台上の力強さは微塵もなく、今にも消え入りそうな、震える懇願。


「演技のためだ。お前の『夜の底』を完成させるには、これが必要なんだ。いいから、飲め」


聖来の心臓が、耳の奥でドクドクと鳴り始めた。

見てはいけない。関わってはいけない。

そう理性が叫んでいるのに、好奇心、あるいは反射的な正義感が、彼女の視線を扉の隙間へと向かわせてしまった。

隙間から見えたのは、凄惨な光景だった。


狭い楽屋。桐島が彩の肩を強引に掴み、彼女の口に、中身の見えないペットボトルを押し当てていた。彩は首を左右に振り、弱々しく抵抗している。けれど、桐島の力に抗う術はなく、液体が彼女の喉へと流し込まれていく。


(何……あれ、何してるの!?)


恐怖が全身の産毛を逆立たせる。

けれど、その時、聖来の指が動いた。


恐怖で頭が真っ白になっても、「記録しなければならない」という彼女の習性が、筋肉の記憶となってスマホを構えさせた。


——カシャ。


静まり返った廊下に、無慈悲なシャッター音が響き渡った。


時間が、完全に停止した。


楽屋の中の動きが止まる。


桐島が、ゆっくりと首を巡らせた。


黒縁メガネの奥にある、氷のように冷たい瞳。


そこには、自分たちの領分を侵された者特有の、純粋な殺意が宿っていた。


聖来と桐島の視線が、扉の隙間越しに衝突した。


「……誰だ!!」


「っ……!!」

聖来の喉から短い悲鳴が漏れた。


扉が勢いよく開く。

パニックで足がもつれそうになりながらも、彼女は反射的に叫んだ。


「ご、ごめんなさい!!」


けれど、謝って済む状況ではないことは、相手の目を見れば一瞬で理解できた。

聖来は踵を返し、薄暗い廊下を全力で疾走した。


「待て! 止まれ!!」


背後から追いかけてくる、激しい足音。桐島の怒声。

階段を駆け下りる際、チラリと振り返ると、桐島の背後からもう一人の男——スタッフの佐々木が、獲物を見つけた獣のような顔で飛び出してくるのが見えた。


(怖い、怖い、怖い……!)


いつもなら笑顔で溢れているはずの聖来の顔から、エクボが完全に消えていた。


ロビーの人混みに飛び込み、まだ残っていた観客たちの間を縫うようにして、彼女は劇場を飛び出した。

冷たい夜風が頬を打つ。


下北沢の街灯の下、震える手でスマホを握りしめた。

そこには、確かに写っていた。

桐島が彩の口に無理やり液体を流し込んでいる、決定的な「犯罪」の瞬間が。


「……どうしよう。どうすればいいの……」


聖来は闇に包まれた裏路地へ、逃げるように駆け込んだ。

追跡者の足音は、まだ遠くで響いていた。


第3章:尾行と再会


Part A:翌日、聖来の不安


翌日の下北沢は、昨日までの陽気が嘘のように、厚い雲が空を覆っていた。時折吹きつける風は冷たく、街を行く人々は皆、襟を立てて足早に通り過ぎていく。


駅近くにあるカフェの窓際。聖来は、まるで世界から身を隠すように小さく縮こまっていた。

昨日の明るい色のカーディガンは脱ぎ捨て、ホテルの近くで急遽買い求めた黒いパーカーのフードを目深に被っている。


(怖い……。どうしよう、本当に)


テーブルに置かれたカフェラテは、一口もつけられないまま完全に冷めきっていた。

スマホの画面には、あの一枚の写真。

画面をズームすれば、桐島の歪んだ表情と、必死に抵抗する彩の姿が、残酷なほど鮮明に浮かび上がる。


昨夜は一睡もできなかった。まぶたを閉じれば、あの楽屋の扉の隙間から見えた、桐島の氷のような瞳が追いかけてくる。

警察に行くべきだ。それは分かっている。けれど、もしあの人たちが、私の名前を、私の家を突き止めたら?


「……消さなきゃ」


震える指が、ゴミ箱のアイコンに触れかける。これを消せば、自分は自由になれる。元の、ただの能天気な高校生に戻れる。

けれど、ゴミ箱を押す寸前で、指が止まった。


脳裏に浮かぶのは、彩の絶望に満ちた瞳だ。

もし私がこれを消してしまったら、あの女優さんはどうなる? 誰が彼女を救ってくれる?


(消せない。……私、こんなの、消せないよ)


「削除」ボタンの代わりに、聖来はスマホを胸に抱きしめるように強く握りしめた。

窓の外を見れば、楽しそうに歩く修学旅行生や、談笑するカップルたちが目に入る。昨日までの自分がいたはずの「平和な世界」。

けれど今の自分は、薄いガラス一枚を隔てて、真っ暗な奈落の底に立っているような気分だった。


「……とりあえず、一度家に帰ろう。地元に帰って、お父さんとお母さんに相談して……」


自分一人では抱えきれない。聖来は逃げるように立ち上がろうとした。

その時、ふと視界の端に、違和感が引っかかった。

通りの向かいにあるベンチ。

そこに、黒いジャンパーを着てニット帽を被った男が座っていた。


「……え?」


見覚えがあった。昨日、劇場で桐島の背後から飛び出してきた男——スタッフの佐々木だ。

男はスマホをいじるふりをしながら、けれどその視線は、明らかにこのカフェの窓に向けられていた。


聖来の全身から、一気に血の気が引いた。


Part B:尾行者の存在


気のせいだ。そう自分に言い聞かせようとした。けれど、記憶がパズルのピースのようにはまっていく。

さっき駅の改札を出た時、背後にいた影。

路地を曲がった時、遠くに見えた人影。


(ずっと……ずっと、ついてきてたんだ)


男がベンチから立ち上がった。

そして、迷いのない足取りで、カフェの入り口に向かって歩き出す。


「っ……!!」


聖来は座席に崩れ落ちるように座り直した。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

店の出口は一つ。今、男が向かっているあのドアだけだ。

逃げ場がない。

カフェの中には他にも客がいる。けれど、誰も彼女の異常なまでの怯えには気づかない。


「すみません、助けてください」


そう叫ぼうとして、喉がひきつった。もしここで騒いで、あの男を刺激したら? もし男がナイフでも持っていたら? そもそも、自分は何と言って助けを求めればいい?


『劇場の楽屋を覗き見して、怪しい写真を撮ったから追われています』

そんな話、誰が信じてくれるだろう。警察でもない普通の人たちが。


佐々木がカフェのドアに手をかけるのが見えた。

カランカラン、と無邪気な入店を告げるベルの音が、聖来には死刑宣告の鐘のように聞こえた。

彼女は震える手でスマホを掴み、祈るように目を閉じた。


誰か。


誰でもいいから、助けて。


Part C:奈々未との再会


その時だった。

佐々木がドアを開けるのとほぼ同時、一人の女性が外から滑り込むようにして店に入ってきた。

黒いコートにグレーのマフラーを巻き、ノートパソコンのバッグを小脇に抱えた女性。

伏し目がちに、周囲に目もくれずカウンターへ向かうその横顔を見た瞬間、聖来の心臓が大きく跳ねた。


(……あ、あの時の!)


昨日の劇場で、受付に座っていた美しい女性。

氷のように整った顔立ち。人を寄せ付けないオーラ。


奈々未は淡々とコーヒーを注文すると、空いている席を探して店内を見渡した。そして、窓際で青ざめている聖来と、その背後から近づこうとしている佐々木の姿を、同時に視界に収めた。


奈々未の動きが一瞬、止まった。


聖来は、藁にもすがる思いで立ち上がった。足がガタガタと震え、うまく力が入らない。それでも、必死に奈々未のテーブルへと歩み寄った。


「あ、あの……!」

掠れた声。奈々未がゆっくりと顔を上げる。

伏せられていた長い睫毛が上がり、大きな、深い瞳が聖来を捉えた。

「昨日の……劇場の方、ですよね?」


聖来の瞳からは、今にも涙が溢れそうだった。いつもの太陽のような笑顔も、深いエクボもどこにもない。そこにあるのは、死に物狂いで助けを求める、一人の少女の剥き出しの恐怖だった。


「助けてください……。あの人が、ずっと私を……」

聖来が窓際の入り口を指差す。そこには、奈々未の登場で一瞬入店を躊躇し、ドアの影で様子を伺っている佐々木の姿があった。

奈々未の視線が、佐々木に向く。

その瞳に、鋭い光が宿った。


(……劇場の佐々木。桐島の飼い犬)


奈々未は一瞬で、すべてを理解した。

昨日、彩の体調が急変して搬送された後、桐島と佐々木が血眼になって「目撃者」を探していたこと。

そして今、目の前の少女が、その「目撃者」として追い詰められていること。

奈々未の脳裏に、いつものルールが浮かぶ。


『他人に干渉しない。深入りしない。それが私の平穏を守る唯一の方法だ』


けれど、目の前の少女の、震える小さな手を見て。

自分に縋り付くような、絶望的な瞳を見て。

奈々未の心の中で、何かが音を立てて崩れた。


「……分かった」


低く、けれど氷を割るような力強い声。

奈々未は注文したばかりのコーヒーには目もくれず、ノートパソコンをバッグに押し込んだ。


「え……?」

「今すぐここを出る。私についてきて」


奈々未は迷いのない動作で聖来の手を掴んだ。

触れた奈々未の手は驚くほど冷たかったが、その確かな力強さに、聖来の全身の震えが少しだけ収まった。


「あ、でも、あっちのドアには……」

「大丈夫。この店には、搬入用の裏口がある。店員には後で私が謝っておく」


奈々未は聖来を引き寄せるようにして、カウンターの奥へと向かった。

劇場の構造を設計図のように把握する彼女の頭脳は、このカフェの動線さえも瞬時に計算し尽くしていた。


「他人に干渉するのは……私の趣味じゃないけれど」


奈々未は、裏口の重い扉を開け放ちながら、一度だけ聖来の顔を見た。


「舞台の台無しにするような『悪役』を見過ごすのは、もっと我慢ならないの」


冷たい風が吹き込む裏路地へ、二人は駆け出した。

背後で、佐々木が血相を変えてカフェに踏み込んでくる気配がした。


けれど、奈々未の手は離れなかった。


下北沢の複雑な路地裏。そこは、もう一人の「観察者」である奈々未にとっての、巨大な舞台装置だった。


第4章:逃走と推理


Part A:下北沢の迷宮


「こっち。私の手を離さないで」


カフェの裏口を蹴り出すようにして飛び出した瞬間、奈々未の声が低く響いた。

聖来は、反射的にその冷たい手を握り返した。


「はっ、はっ……どこに、行くんですか……!?」


「話は後。今は走って」


奈々未の足取りに迷いはなかった。下北沢の複雑怪奇な路地裏。地図にも載らないような細い抜け道や、民家の軒先を掠めるような私道。奈々未はそれらを、まるで自分の部屋の動線を歩くように完璧に把握していた。

背後から、荒々しい足音が追いかけてくる。佐々木だ。


「……!!」


裏口から飛び出してきた佐々木が、獲物を逃がすまいと猛追してくるのが気配でわかった。

聖来の長い髪が風に乱れ、肩で息をする。恐怖で足がもつれそうになるたび、奈々未の手が、強引なほどの力で彼女を前へと引き寄せた。 


(この人、冷たい手なのに……なんでこんなに温かく感じるんだろう)


「この角を曲がったら、すぐに壁に隠れて」


奈々未の鋭い指示。

細いT字路を右に折れた瞬間、奈々未は聖来の背中を押し、古びたレンガ壁の死角へと滑り込んだ。


二人は壁に背を預け、互いの心臓の鼓動が重なるほど近くで息を殺した。

ドタドタと重い足音が近づき、角を曲がっていく。


「……どこだ。クソッ、消えやがった」


佐々木の苛立った声がすぐそこまで迫り、そして遠ざかっていった。

奈々未は数秒間、彫像のように動かなかった。大きな瞳が、獲物を狙う鷹のように周囲の音を拾っている。


「……今。逆方向に走る」


「はいっ」


二人は再び走り出した。今度はもう、聖来に迷いはなかった。

路地を三つ抜け、住宅街の隙間を縫うように進むと、見覚えのある古いビルが視界に飛び込んできた。


「……ここ」


聖来は驚きに目を見開いた。


「劇場に、戻るんですか!?」


「ここなら、私が有利。劇場の構造を設計図のように知っているのは、私だけだから」


奈々未はスタッフ用の鍵を取り出し、迷いなく裏口のシリンダーに差し込んだ。


Part B:閉ざされた迷宮


ガチャン、と重い金属音がして、二人はシアター・エコーの内部へと滑り込んだ。

昼間よりもさらに深く、沈黙が支配する劇場。昨日、聖来が迷い込んだあの薄暗い廊下だ。

聖来は思わず身をすくませたが、奈々未が背中からそっと手を添えた。


「大丈夫。私がついてる」


奈々未は迷わず、廊下の突き当たりにある舞台道具の倉庫へ聖来を導いた。

そこは、埃っぽい匂いと、大道具の木材の匂いが混ざり合う、行き止まりの空間だった。


「ここ、袋小路じゃ……」 


「見かけ上はね」


奈々未は雑然と置かれた書き割り(背景板)の裏側に手をかけ、壁の一部を特定の角度で押し込んだ。

すると、軋んだ音と共に、壁の一部が隠し扉のように内側に開いた。


「えっ……?」


「照明のメンテナンス用の、古い隠し通路。今は私しか使っていない。入って」


二人が中に入ると、そこは人が一人通るのがやっとの、狭く暗い階段室だった。

奈々未は静かに扉を閉め、内側から閂をかけた。

その直後だった。

外の廊下に、激しい足音が響き渡った。


「……どこだ! 中に入ったのはわかってんだぞ!」


佐々木の怒声。ドアノブを乱暴にガチャガチャと回す音が、薄い壁を隔てて聞こえてくる。

聖来は恐怖のあまり、自分の口を両手で塞いだ。心臓が爆発しそうなほど跳ね、涙が瞳に溜まっていく。

奈々未は聖来の肩を抱き寄せ、その耳元で消え入るような囁き声を落とした。


「……静かに。あの扉は開かない。鍵が特殊なだけじゃない。内側から別のボルトで固定してある。あいつには絶対に開けられない」


奈々未の低い、けれど確信に満ちた声。

佐々木はしばらく扉を蹴ったり怒鳴ったりしていたが、やがて「……チッ」という激しい舌打ちを残して、足音は遠ざかっていった。


「……行った」


奈々未の言葉に、聖来は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。


「はぁ……はぁ……、怖かった……。本当に、死ぬかと思った……」


膝を抱えて震える聖来の隣で、奈々未は静かに座り込んだ。

伏し目がちな彼女の横顔は、暗がりの中でも月のように白く、凛としていた。


「……もう安全。ここは、誰にも見つからない私の場所だから」 


Part C:残酷な脚本


「あの……、これ、見てください」


少しだけ落ち着きを取り戻した聖来は、震える手でスマホを差し出した。

小さな画面に映し出された、あの一枚の写真。

奈々未は、無言でそれを手に取った。

大きな瞳が、画面を凝視する。指先で細部を拡大し、桐島の手、彩の喉、そして周囲に散らばる小道具の一つ一つまでを、スキャンするように読み取っていく。


「……やっぱり」


奈々未の低い声が、冷たく響いた。


「桐島は、彩さんに薬物を常用させていたんだわ」 


「薬物……」


「そう。彩さんの最近の変貌は、演技の追求だけでは説明がつかない。あの異常な痩せ方、瞳孔の開き、指先の震え……。それは、舞台上の『狂気』を演出するために桐島が与えた、残酷な『脚本』だったのよ」


奈々未の言葉は、まるで法廷で証拠を提示する検察官のように論理的だった。


「このペットボトルの形状……市販のものじゃない。薬剤を溶かしたものだわ。昨日、彩さんは拒否した。自分の体が壊れていくことに気づいて。でも、桐島にとって彼女は、最高の舞台を完成させるための『装置』に過ぎなかった」


聖来は息を呑んだ。


「だから、あんなふうに無理やり……」

「この写真は、桐島にとっての死刑宣告。薬物使用の強要、傷害。これを公にされれば、彼のキャリアも人生もすべて終わる。だから、彼はあなたを消そうとした」


奈々未はスマホを聖来に返し、ゆっくりと顔を上げた。

伏せられていた長い睫毛が上がり、大きな瞳が、真っ直ぐに聖来を射抜いた。


「式守、先輩……?」


「白鳥さん。あなたは、この街に遊びに来ただけの、ただの女の子のはずだった。こんな汚れきった裏側に触れる必要なんてなかった」


奈々未の手が、聖来の頬を伝う一筋の涙を、そっと拭った。


「でも、大丈夫。あなたがこの写真を撮ったのは、あなたの『正義感』が、誰かを救いたいと願ったからでしょう?」


奈々未の瞳に、初めて微かな、けれど確かな温度が灯った。


「他人に干渉しないのが、私の唯一のルールだった。でも、あなたのその勇気まで、なかったことにはさせない」


「先輩……」


「私が、あなたを守る。……そして、この汚い舞台を終わらせる」


暗い隠し部屋の中で、二人の視線が重なった。

恐怖に歪んでいた聖来の顔に、微かな、けれど確かな信頼の光が宿る。


「はい……。お願いします、先輩」


奈々未は立ち上がり、非常階段へと続く重い鉄の扉に手をかけた。


「行きましょう。警察へ。……今度は私たちが、彼らの結末を書き換える番よ」


第5章:告発と絆


Part A:真実の脚本


非常階段の重い鉄の扉を押し開けると、夜の下北沢の冷たい風が二人の頬を撫でた。

奈々未は聖来の手を離さず、迷いのない足取りで裏通りを抜けていく。


「大丈夫。もうあいつは追ってこない」


奈々未の低い、けれど確信に満ちた声に、聖来は何度も頷いた。

下北沢警察署の無機質な照明の下に辿り着いた時、聖来は大きく深呼吸をした。奈々未がその肩をそっと叩く。


「……行きましょう」


署内の取調室。聖来は震える指でスマホの画面を操作し、あの一枚の写真を提示した。


「これを……撮ってしまって。昨日の夜、劇場の楽屋で……」


続いて奈々未が、凛とした声で証言を重ねる。


「私は劇場の照明スタッフ、式守奈々未です。主演の川崎彩の異変を、数ヶ月前から観察していました。激しい痩身、手指の震え、情緒の不安定さ。……彼女は、桐島悠人によって薬物を常用させられていた可能性があります」


一人の少女による「記録」と、一人の観察者による「分析」。


完璧な証拠と論理的な証言を前に、警察は即座に動いた。


「分かりました。すぐに捜査を開始します」


その言葉を聞いた瞬間、聖来の張り詰めていた糸が切れ、彼女はその場に泣き崩れた。奈々未はただ黙って、その小さな背中をさすり続けた。


Part B:春を待つ約束


事件から三日後。桐島悠人は薬物使用の強要と傷害の疑いで逮捕され、川崎彩は病院で適切な治療を受けながら回復の兆しを見せているというニュースが流れた。


聖来と奈々未は、あの日と同じカフェの窓際の席にいた。

窓の外には、柔らかな春の気配が漂い始めている。


「先輩!」


聖来が顔を上げる。そこには、出会った時と同じ——いや、それ以上に明るい笑顔があった。頬には深いエクボがくっきりと刻まれている。


「本当に、ありがとうございました。先輩が助けてくれなかったら、私、今頃どうなってたか……」


「……あなたの写真がなければ、彩さんは救えなかった。これは、あなたの勇気の結果よ」


奈々未は伏し目がちに、けれど少しだけ唇の端を上げて微笑んだ。

聖来は目をごしごしと拭うと、決意を込めた瞳で奈々未を見つめた。


「この恩、絶対に忘れません。いつか、私も先輩を助けられるくらい強くなりますから!」


「……そう」


奈々未は少し照れくさそうに視線を逸らした。けれど、聖来が差し出したスマホに、自分の連絡先を静かに入力した。他者と繋がることを拒んでいた彼女の指が、初めて「他人の脚本」に自らの名前を刻んだ瞬間だった。


「またどこかで会えたらいいな、先輩」


「……そうね。今度は、もっと平和な場所で」


Part C:エピローグ——始まりの春


翌年、四月初旬。

某美術大学のキャンパスは、満開の桜と新入生たちの活気に包まれていた。


「三年生か……。そろそろ自分の作品もまとめないと」


式守奈々未は、映像学科棟へ向かう並木道を歩いていた。ボブヘアが春風に揺れる。相変わらず人を寄せ付けない美貌は健在だが、その瞳にはどこか穏やかな光が宿っていた。


ふと、前方で足を止めた。


桜の樹の下で、一人の女の子が夢中でスマホを構えている。

茶色がかったロングヘアが風になびき、彼女の全身を桜の花びらが包み込んでいた。


(……まさか)


奈々未が立ち止まると、その女の子がぱっと振り返った。


「奈々未先輩!!」


弾けるような声。満面の笑み。そして、深く刻まれた愛らしいエクボ。

聖来はロングヘアをなびかせ、全力で奈々未に駆け寄ってきた。


「先輩! 私、推薦で受かっちゃいました! 視覚伝達デザイン、写真コースです!」


「……あなた、ここの学生だったの」


奈々未の大きな瞳が驚きに丸くなる。

運命——そんな言葉を、かつての彼女なら鼻で笑っていただろう。けれど今、目の前でエクボを全開にしている少女を見ていると、それ以外の言葉が見つからなかった。


「あの時の恩、絶対に返させてください! ていうか、学食案内してくださいよ! 私、お腹空いちゃって〜」


聖来が迷いなく、奈々未の腕を引く。


「……また、事件に巻き込まれそうね」


奈々未は低い声で呟いた。けれど、その声は以前よりもずっと柔らかく、温かい。


「今度は私が先輩を守る番ですってば!」


笑いながら歩き出す二人。

舞い散る桜の中、ボブヘアとロングヘアが並んで揺れる。


(……でも、悪くないかもしれない。この子となら)


奈々未は、自分の腕を掴む聖来のぬくもりを感じながら、静かに目を細めた。


(今度は、私が守られる番かもしれない)


キャンパスの喧騒の中、聖来が最後の一枚を撮影した。

後で確認したその写真の隅には、満開の桜の下で、見たこともないほど優しく微笑む式守奈々未の横顔が、小さく、けれど確かに写り込んでいた。


——これは、二人の物語の、始まり。


  (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

下北沢の目撃者 不思議乃九 @chill_mana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画