風が吹いた空っぽのバケツ

朝はまだ暗かった。

目覚ましが鳴る前に目が覚め、天井の染みを一つ数える。

数は増えていない。

増えていないことを確かめてから、布団をたたむ。


台所では母が湯を沸かしている。

やかんの音はしない。

火はついているが、湯気は出ていない。


私は茶碗を二つ並べる。

一つは欠けている。

欠けていない方を手前に置く。


母はそれを見て、何も言わずに位置を戻す。

欠けた方を手前にする。

私はもう一度並べ直さない。


学校へ行く道で、風が強くなる。

風は強いが、音は少ない。

旗が揺れているのに、鳴らない。


交差点の角に、バケツが置いてある。

金属製で、底が少し歪んでいる。

昨日はなかった。


バケツは倒れている。

風が吹くと、少しだけ転がる。

音は出ない。


学校では出席を取る。

名前が一つ飛ばされる。

誰も指摘しない。


午前の授業は途中で終わる。

先生はノートを閉じ、窓を一度だけ開ける。

すぐに閉める。


昼休み、私は校舎の裏に行く。

理由はない。

日陰に線が引かれている。


線は消えかけている。

踏んでも注意されない。

踏まないことも決めていない。


背後から声がする。

知らない人の声ではない。


「あんたは、まだ音がしてないわ。空っぽのバケツが、風に吹かれて転がっているみたいな感じ」


振り向くと、近所の人が立っている。

名前は思い出せるが、呼ばない。

その人は校舎の方を見ている。


私は何も返さない。

返す言葉を探さない。

探さないまま、立っている。


その人は、それ以上何も言わずに歩いていく。

足音は途中で聞こえなくなる。

姿は校舎の角で見えなくなる。


放課後、交差点のバケツを見る。

まだそこにある。

位置は少しだけ変わっている。


家に帰り、手を洗う。

蛇口を強くひねり、すぐに弱める。

水の音を聞くが、評価はしない。


夜、布団に入る。

窓の外で風が吹く。

何かが転がる音はしない。


明日の順番を思い出す。

変える理由はない。

変えない理由も考えない。

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