さいごの掛け声

青川メノウ

第1話 さいごの掛け声

自分ではほとんど動けないお年寄りを、車椅子からベッドに移す時、

「よっこいしょ!」

という掛け声は、新人介護士の杏奈あんなにとって、必須の言葉だ。


杏奈はこの春、高校を卒業して、高齢者施設で働き始めた。

体つきが小柄で、体力にあまり自信がない杏奈だったが、「よっこいしょ!」と言って、細い腕に力を込めれば、かなり体重のある人も、持ち上げることができた。


「ハンマー投げや、ウェイトリフティング、剣道とかだって、声、すごいじゃない。掛け声って大事だな」

と杏奈はつくづく思う。


人間は通常、潜在能力の三十パーセントしか使えないというけど、声を出すことで、残りの七十パーセントも使用できるって、言ってたのは、ブルース・リー? 違ったっけ?


まあ、とにかく、ようは気合いなのだ。

『気合いこそ、介護の神髄』なんてね。


けれどもある時、

「だめよ、杏奈さん。『よっこいしょ』なんて言っちゃ。それって、重い物を持ったりする時の掛け声でしょ。施設の利用者さんは物じゃないんだから」

と先輩に注意されてしまった。

「すみません……」

言われてみれば、確かにその通りだ。

杏奈は反省した。


「よっこいしょ」

「ほら、また」

「あ、すみません、つい」

「『つい』じゃ、ないでしょ!」

また叱られた。

どうもいけない。

いくら気をつけても、力を入れると、口から出てしまう。

癖なのだ。

「はあ……でも、しょうがないじゃない。すっごく重いんだもの」


寝たきりで自力で動けない人と言うのは、実際の体重以上に重いのだ。

それを二人がかりで、両脇と両足を抱えて持ち上げ、車椅子からベッドへ移すのは、体力のある男性職員でさえ、きついと感じるほどの力仕事だ。


「『せーの、はいっ』の『はいっ』で、力を入れるのよ。いい?」

というのは、先輩のアドバイスだ。

「わかりました。せーのっ、よっこいしょ」

「だから、『よっこいしょ』はダメだって! 何度言ったらわかるの?」

「すみません」


「ほんとに、もう。じゃあ、『いち、にの、さん』の『さん』で、やってみましょう。わかる?」

「えっと、『さん』で力を入れるんですね?」

「そうよ。数字なら、大丈夫でしょ。やってみて」

「はい、じゃあ……いち、にの、よっこいしょ」

「あなた、ふざけてるの!」

「すみません……」


「職員さんたち、ほんとにごめんなさいね、わたくし、重くて」

と申し訳なさそうに言うのは、今、まさに杏奈と先輩が、ベッドに移したばかりの利用者・寛子ひろこさんだ。

七十八歳の大柄な女性で、体重が八十キロある。

たぶん、施設で最も重い人だ。

「いえ、寛子さん。どうか、そんなことおっしゃらないでください。こちらこそ、申し訳ありませんでした」

と言って、杏奈と先輩は謝った。

利用者さんに気を遣わせてしまうなんて、プロの介護士として失格だ。


「あの、『よっこいしょ』でも、『どっこいしょ』でも、わたくしはぜんぜん気にしませんけれど、もし職員の皆さんがそれを言えないのでしたら、わたくしが代わりに言いましょうか?」

と寛子さんが、遠慮がちに言った。

「え? でも、さすがにそれは……」

「いつもお世話してもらうばかりで、なにもできませんし、せめて掛け声だけでも、掛けさせてください」


利用者さん自身が言うのなら、ということで、以後そのようにしてもらった。

ベッドから車椅子、そして車椅子からベッドへと移る度に、寛子さんが「よっこいしょ!」と掛け声を掛ける。

しかし、ある時……


「よっこいしょういち!」


「ははっ、寛子さん、それって、昭和の古いギャグですよね?」

とたまたま知っていた杏奈は、思わず笑った。

「よかった。うけなかったら、どうしようかなって、思いました」

いきなりギャグを言うなんて、寛子さんは案外お茶目な人かもしれないなと杏奈は思った。


寛子さんは続ける。

「実は、わたくしの亡くなった父も、有名な帰還兵のヨコイさんと同世代で、戦争に行きましたので。満州にいる時、冬季の戦線で、凍傷にかかり片足を失いましたが、どうにか帰って来ました。なんの因果か、わたくしも、今度、手術で片足を取ることになってしまって」

寛子さんは、長年患ってきた糖尿病が悪化して、片足の切断を迫られていたのだ。

「ええ、手術のことは、聞いています。無事に終えられるといいですね」

と杏奈は気遣った。


一旦施設を退所した寛子さんは、ひと月後、手術を終えて、帰ってきた。

「おかえりなさい、寛子さん」

と杏奈たち職員が温かく迎えると、寛子さんは、

「麻酔で眠っているうちに、向こうへ逝けたら楽でしたのに、この通り、恥ずかしながら帰って参りました。また皆さまのお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」

と笑顔で挨拶した。


寛子さんの左足は、太腿の中ほどから下がなかった。

「足一本分だけ、軽くなりましたから、皆さんの負担も減ると思います」

「どうかそんなこと言わないでください」

寛子さんは、ショックで落ち込んでいるはずなのに、冗談まで言って、明るく振舞っていたので、杏奈たちは却って、いたたまれなさを覚えた。


片足を失った寛子さんだったが、相変わらず重かった。

つまり片足だけだと、持ちにくいので、介護する職員が、却って重さを感じてしまうのだ。

それで以前のように、寛子さんに『よっこいしょ』と言ってもらうことになった。


残念ながら、寛子さんの病状は良くならず、だんだん痩せていった。

骨と皮のように細くなっても、意識のあるうちは、ずっと『よっこいしょ』と、言ってくれていたが、やがて声も出なくなり、足の手術から半年後に、とうとう亡くなってしまった。


ご遺体に清拭と着替えが施され、ご家族さんが対面された後、しばらくすると、葬祭業者がやってきた。

ベッドに寝かされている寛子さんのご遺体を、杏奈を含む四人の職員で抱えて、業者のストレッチャーに移した。

以前はあれだけ重かった寛子さんが、なんの掛け声もなく、すっと静かに持ち上がった。

まるで命の分だけ、軽くなったようだった。


さいごは骨しか残らないなら、『よっこいしょういち』なんて、冗談を言いながら、わたしたちに笑いかけていた寛子さんは、一体どこへいってしまったのだろう、と杏奈は寂しく虚しい感情が、こみ上げてくるのを感じた。


※関連小説 [小さくて温かな面会]

https://kakuyomu.jp/works/822139838626183472

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さいごの掛け声 青川メノウ @kawasemi-river

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