白鳥虐殺者
馬野
白鳥虐殺者
一
あれは春の瞬く間に光が跳躍する最中、新しい季節の眩きを纏って喜んでいた、愛すべき小川だった。その川の両岸に甦った、うら若い叢草の上を、二匹の蝶々が暖かな目覚めを祝うようにして、艶やかに舞踏しながら、ひらひらと煌めくように飛翔していた……
私が遠い春の思い出に没頭していると、男はまるで虚ろな心を満たそうとでもするかのように、グラスに入った透明な水を飲み干した。
「春になると白鳥どもがやってくるんだよ」
そう言って、男は散弾銃に弾をこめた。
窓の向こうには、依然として重い濃霧に埋もれた山々があった。
「山向こうのどこかから湧いてきてな。ここ数年居ついた外来種なんだとよ」
すると、男は私に銃口を向けた。
私は思わず悲鳴を上げた。
「ズドン。狩猟用の銃と前に言ったが、本当は白鳥をこらしめるために買ったんだよ、これ」
「こっちに向けないでください!」
凍てつくような笑い声が私に降り刺さった。
「冗談だよ。ジョーク、ジョーク」
私は弁当を掴み、大部屋を飛び出して自室に閉じこもった。
二
四方を白い壁で囲まれた質素な部屋で、私は配給された極才色の弁当を貪る。机の端に置いてあった冊子──禁水蟹農園と大きく書かれている──を開くと、さっきの男の笑顔の顔写真が載っていた。辺鄙な山奥のプールで、禁水は小型の蟹を養殖しているのである。
すると、ドアを叩く音がした。
開いたドアの隙間から、禁水が顔を覗かせた。
「ちょっと来い」
禁水が怒っているのか笑っているのかわからない顔で私を呼んだ。曲がりくねりする廊下を言われるがままついて行った。
「ほら、あれ」
見ると、向こうの山から、ひとひらの白い光がこちらへ向かってくるのが見える。
「あれなんだかわかるか」
私は首を振った。
「白鳥だよ」
白鳥。確かに、言われてみればそれは白鳥だった。
濃密な大気をかきわけながら、白鳥は閃く電光のように濃霧の煙る山々を渡ってくる。
「白鳥注意報が発令されたから用意しておいたが、いやぁ、本当によかったよ」
禁水が散弾銃を持って様子を伺っている間、白鳥はプールの透明な水面へと降り立った。
「何をするんですか」
「白鳥を殺すんだよ」
「え、なんで」
すると、遠くの方から光の一群がやってきて、瞬く間に五、六羽の白鳥が一斉にプールへ降りてきた。
「なんでって、見せしめに駆除すればもうやって来ないだろ。こいつら俺の蟹を食うんだよ。わかったら邪魔しないでくれ」
私は硝子戸越しに一部始終を見守るしかなかった。禁水は、沈黙したまま散弾銃を構えて白鳥の群れににじり寄っていく。白鳥たちは、湖の女神のような声を上げて、水面を優雅に、幸福そうに泳いでいる。彼らを、ゆたかな太陽の光が鮮やかに照らしている……
世界が崩れ去るかのような異音が辺りを支配した束の間、永遠にも似たひとときがわれわれの元から残酷に去っていったことを、私は理解した。
白鳥たちの臓物、白鳥たちの血飛沫が空中に放たれる。この世の純白から姿を現した美の御使が、天空を捨てて、地上の肉に堕ちようとする瞬間……白鳥たちは破滅から逃れようと翼をはためかせるが、その行為すらも冷酷な虐殺者の前には死への飛翔という意味をしかなさない。
禁水が一匹の白鳥の首を掴み、高くかかげる。濁流のように血を放出する白鳥は、苦痛に霞む目をこらして、その生の最後、受難の叫びを上げた。存在の一切を虐殺者に委ねた証、そしてまた、虐殺者の力の一切を存在のうちに受け入れた証、その倒錯の声。
禁水は欲望の絶頂を宣言するかのように、ぎらついた貪欲な笑みを無我夢中でふりまいた、白鳥の首を握りしめながら。
三
霧の中、プールに餌を撒き続けてかれこれ二十分は経った。今頃は蟹たちが餌の雨に小躍りしながら水底の暗がりにひしめき合っていることだろう。私は蟹の夢をたった一度だけ見たことがある。崖にある施設で、私は海にせり出した離れのトイレに向かう。トイレの穴から下を覗いてみると、波のぶつかる岩場がある。しかしその岩場は蠢いている。よく見るとそれは蟹の大群で、蟹たちは集まって一つの山を作り、人間の排泄を今か今かと待ち構えているのである。頂上にいる蟹が上にいる私をじっと見つめている。その野蛮で、下劣で、冷酷で、しかし幾分かの崇敬もこもっているような眼差しはひどく不気味だった。
白鳥が銃殺されたあと、沈んでいる肉片に蟹たちが群がっているのを見ると、やはり私はあの夢のときと同様の嫌悪を抱くのだった。下界でひしめき合う亡者たち……私は蟹たちに対してなにか底知れぬ恐怖を感じていた。
夜、自室で床についていると、禁水が部屋に入ってきた。
「お前も相当たまってるんじゃないか」
寝床に禁水が入ってきた。
「やめてください!」
私は本能的に禁水を突き飛ばした。
「出てってください!」
「お前がしょぼくれてるから俺が歩み寄ってやってんだろうが!」
私は震える両手で椅子を持ち上げ椅子の脚を精一杯禁水に向けた。
「俺が無理に襲おうとしない人間で本当によかったな。感謝しろよ」
禁水は勢いよく扉を叩きつけて出て行った。
電気の音だろうか、空調の音だろうか、得体の知れない重低音がずっと鳴り響いている。その音がよりここの閉塞感を際立たせ、一種の眩暈のようなものを私にもたらす。まるで水底に沈んでいるような、そんな奇妙な感覚……
四
「俺の性処理か、白鳥の処理、どっちか選べ」
ミルクを飲みながら、禁水はマグカップの上にある野蛮で冷酷無比な眼のぎらつきをずっと私に向けていた。
「今日はな、白鳥注意報が出てるんだ」
朝の光が差し込み、新鮮なミルクが照り輝く最中、禁水は生きている蟹の背中をもぎ取り、中の身を猛烈な勢いで喰らった。また、蟹の脚を丁寧にナイフで切断し、ミルクにつけて食べるなどして、蟹の踊り食いを十二分に堪能していた。
「辞めたいって言うなら止めはしないが、一般的に二週間はまだ働いてもらわないとダメだ。お前が早く辞めるせいでまた募集をかけないといけないし手間もかかる。白鳥の駆除ぐらいはやってほしいもんだ。それか、それ相応の労いをな」
午後になって激しい雨が山を撫でた。
白鳥はプールに降り立って暗然と浮かんでいる。
重たい雨の中、私を突き動かすのは亡霊のような意志に他ならなかった。朧げな義務感に取り憑かれ、私は何も知らぬ白鳥のもとへ一歩ずつ近づいていく。生きるためには白鳥を殺さなければならない。生きる? こんなにも生きた心地がしないのに、私は生きているとなぜ確信できるのだろう。もはや、自分にとって、白鳥を殺すことが手段であるのか目的であるのかさえわからなくなってきた。
暴風雨が私を吹き崩そうとする。自分が泣いているのか雨に濡れているだけなのかすらもう検討がつかない。
銃口を白鳥に向ける。
冷酷に降りしきる雨を一身に引き受け、私は重たい引き金を引いた。
五
粛々と、テレビが火災現場を映していた。
「あーあ、火って簡単に消し止められないんだなぁ。すげえ燃えてるじゃねぇか」
火は人間の底知れぬ欲望のように勢いよく燃え立っていた。
「おい、見ろよ」
いつの間にかテレビは気象情報に切り替わっていて、複数羽の白鳥のマークがここの区域に出ていた。
「白鳥警報か。久々だな。こりゃ明日すげえ数の白鳥が来るぞ」
禁水は振り返った。
「もちろん……駆除するんだよな?」
私は頷いた。禁水は高らかな笑い声を上げた。
「まったく、そんな強がらなくてもいいんだがな」
私はプールの薬剤を棚に仕舞って足早に自室へ向かった。
浴槽に私は座り込んでいた。水滴が肌を伝う。蛇口を捻って、ほとばしる湯を両手で受け止める。ゆらめく水面に、白鳥たちの苦しむ姿が見えた。水は、白鳥たちがいたときにはあれほど輝いて見えたのに、あの男の手に堕ちてしまうと、途端に死んだ生き物の体液みたいに光を失ってしまう。虚しい水の音が響く。
私は知られざる白鳥の湖を想像した。そこではすべての白鳥たちが水底にいる柔らかな蟹を食し、光り輝く水面を掬って長い喉を潤している。
しかし、秘密の湖での振る舞いも、ここでは一切が禁止されるのだ。その飛翔、その存在、すべてが抑圧され、阻害される。
一つの疑問が思い浮かんだ。湖が自然で、プールが人工なら、人間はどちらの産物なのだろう。はたして人間は、自然物なのだろうか、それとも人工物なのだろうか、あるいはその両方か……
しかし、ただ一つだけ述べることがあるとすれば、私はやはり自由主義者だった。禁水の管理する大プールの病的な静寂、そこに内在する極端なほどに洗練された均質さよりも、白鳥の翼の動的な肉肉しさ、おおらかな飛翔、輝かしい姿を好んだ。
私は立ち上がって、浴槽を出た。タオルで顔を拭った。私の背後で、白鳥の幻影が死の水面から飛び立つのを感じた。
六
爽やかな五月晴れの空を浴びて、私は恍惚としていた。目の前には、プールを埋め尽くす白鳥たちの姿があった。白鳥たちはまるで初夏の光の使者のように、燦然と白く輝いていた。
私は銃が故障したふりをした。
「どうしたんだ」
禁水が出てきて、不思議そうに近づいてくる。
「禁水さん!」
私は顔が力んでいるのに気づいて、慌てて笑顔を作った。
「白鳥と蟹、どっちが好きですか?」
「あ?」
私は禁水の横っ腹を撃ち抜いた。
禁水は獣のような叫び声を上げた。あれほど偉そうにしていた大の男がそうやって情けなくもがき苦しんでいるのを見るとあまりに面白おかしくってつい笑ってしまった。
「蟹に決まってますよね馬鹿ですよね私」
いまや地上の支配権は完全に逆転した。太陽があまりにも眩しかった。
「禁水さんは蟹が大好きなんで、蟹の餌になりたいのかな、なんて思って」
白鳥たちは向こう側に寄り集まってこちらを警戒している。空いた水面で助走をつけ、飛び立つものまで現れた。
「ふふっ。ジョークですよ、ジョーク」
禁水は絶叫しながらも必死に逃げようとする。
私は猶予を与えることにした。三十秒経って、私は走り出した。
散弾銃を持って男を殺そうと駆けている間、私は自分が白鳥のように光の中を跳躍していると思った。血の跡を見て、私は別の道筋から玄関へ向かうことにした。玄関に来たが、血の跡はない。私がずっと廊下を凝視していると、禁水がやってきて、私と目が合った。
「ほらほら、早く逃げてください!」
また三十秒数えて、私は歩き出す。奥に進んでいくと、窓の向こうのプールサイドに禁水が突っ立っているのが見えた。
「結局同じところに帰ってきましたね」
白鳥たちが頭上を飛び去っていく。光の矢尻の数々が五月の快晴の空を鮮やかに掠めていくのは美しかった。
「ズドン!」
禁水は空中を跳躍して、プールの水面へと向かっていく。それは、この男が単なる肉塊と化すまでの鮮やかな超越であり、滅びゆく刹那の躍動でもあった。
水飛沫が上がった。
五月は鬱屈とした月だと人は言うが、私は反対に、こんなに美しい季節はないと思った。自由と調和の季節。光が辺りを跳躍し、白鳥が水の上を幸せそうに泳いでいる。
生きようと思った。プールの水面に輝く光が美しかったから。
白鳥虐殺者 馬野 @umano2004
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