悪役令嬢は仮面を脱いでも愛される

桃神かぐら

第1話 悪役令嬢は、骨の髄まで恋をする

 シャンデリアが、溶けた金みたいに輝いていた。


 王城の大広間。磨き上げられた大理石の床には、宝石を散りばめたようなドレスと軍服の群れが映り込んでいる。

 音楽。笑い声。グラスが触れ合う乾いた音。香水とワインと花の匂い。


 ――息が詰まるほど、完璧な夜会。


「ノワール公爵令嬢、クリスティア・ノワール!」


 高らかな声で侍従が名を告げる。

 その瞬間、ざわり、と視線が私に向いた。


 好奇。

 侮蔑。

 興味本位。

 そして、少しだけ嫉妬。


 私はゆっくりと、完璧な所作で一礼した。

 漆黒の薔薇を散らした濃紺のドレス。腰まで届く銀髪をゆるくまとめ、額から頬にかけて落ちる一筋だけを残す。

 背筋を伸ばし、視線を逸らさず、唇の端だけを持ち上げる。


 ノワール公爵家の一人娘。

 第一王子の婚約者。

 そして――社交界が好んで呼ぶ、“悪役令嬢”。


(今日もよく似合っているわね、この仮面)


 心の中で、自嘲気味に呟く。


「ごきげんよう、皆様」


 澄んだ声でそう言うと、近くにいた令嬢が小さく肩を震わせ、そっと視線を逸らした。

 その向こうで、紳士がひそひそと耳打ちをする。


「……あれがノワール家のお嬢様か」

「王太子殿下の婚約者でありながら、あの“聖女”をいじめているとか」

「怖ろしい方だわ。目を合わせたら呪われそう」


 聞こえないふりをするのは、もう慣れた。


 私は、聞こえている。

 聞こえていて、そのうえで――何ひとつ、表情を変えない。


 それが、「彼らの望むノワール公爵令嬢」であり。

 私が、自分の居場所を守るために選んだ役割だから。


(……本当はね。少しぐらい、目を合わせて笑い合ってみたかったのだけれど)


 そんな弱音は、喉の奥で押しつぶす。


 大広間の奥。王族専用の階段の上に、真紅の軍服に身を包んだ人物が姿を現した。

 黄金色の髪。まっすぐな青い瞳。

 ――私の婚約者、アルヴィス王国第一王子、レオンハルト・アルヴィス。


 彼は今夜、私を断罪する。


 公衆の面前で。

 誰もが見守るこの場で。


 私が“悪役令嬢”として完成するための、最後の舞台。


 胸の奥のどこかが、きゅっと軋んだ。

 そこには、まだ消し切れないものが残っている。


 あの人の、少し不器用な笑い方とか。

 ふいに見せる真剣な横顔とか。

 冬の日、凍えそうな手を何も言わずに包んでくれたこととか――。


 忘れたふりをしていただけで、本当は全部、覚えている。


「クリスティア様……」


 袖口を、そっと引かれる。

 振り向けば、黒髪の侍女が一人、心配そうにこちらを見上げていた。


 セレス・ロックウェル。私の専属侍女。

 そして、唯一、私の“仮面の裏側”を知っている人。


「本当に……よろしいのですか?」


「何が?」


 わざと首を傾げ、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべてみせる。

 それは“悪役令嬢クリスティア”の、いつもの表情。


 けれどセレスは、ごまかされない。

 私の指先が、かすかに震えていることを知っているから。


「殿下は……きっと、誤解しておられるだけです。

 もし、今からでも、きちんと――」


「セレス」


 名前を呼ぶだけで、彼女は口をつぐんだ。

 私が、これ以上踏み込まないで、という合図を送ったのを理解している。


「もう決めたことよ」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「私は悪役になる。そうすれば、すべて丸く収まるわ」


 王太子。

 聖女。

 王家と貴族たち。

 国のため、という言葉で塗りつぶされた、たくさんの思惑。


 ――誰かが、全部かぶればいい。


 誰か一人が「すべて悪かった人」になれば。

 あとは皆、綺麗な顔をして笑っていられる。


「……でも、お嬢様は」


「私は、最初からそういう役割なの」


 そう言って、セレスの手をそっと振りほどく。


 本当は、少しだけ、すがりつきたかった。

 今すぐにでもここから逃げ出して、馬車に飛び乗って、どこか名前も知らない土地へ行ってしまいたかった。


 ――それをしないのは、私が“ノワール公爵家の娘”だから。


 私一人が醜い役を引き受ければ、父も、家も、守れる。

 馬鹿げている、と笑う人もいるかもしれない。

 でも私は、そういうふうに育てられてきた。


 家を守るために微笑みなさい。

 誇りを守るために泣きなさい。

 そして、決して弱さを見せてはならない――と。


「……それにね、セレス」


 ほんの少しだけ、声を落として言う。


「私が悪役になれば、殿下は“正しさ”を選べるのよ。

 あの方は、ずっと迷っていたもの」


 王城のバルコニーで、夜風の中、吐き出した本音。

 聖女と呼ばれる少女の祈りに心揺らぐ彼の、不器用な顔。


 「君を傷つけたくはない」

 「でも、彼女を見捨てることもできない」


 優しい人だ。

 優しいがゆえに、残酷になってしまう人。


(……仕方ないのよ)


 私はワインのグラスを受け取り、深紅の液体をひと口含んだ。

 冷たさが喉を滑り落ちていく感覚に、余計な感情を流し込む。


(私は、彼の“正しさ”の邪魔でしかなかったのだから)


 楽団の演奏が一段落し、大広間に静けさが落ちる。

 レオンハルト殿下が階段を降りてくる。

 その横には、淡いクリーム色のドレスに身を包んだ少女が寄り添っていた。


 柔らかな金髪。涙を浮かべた大きな瞳。

 まるで物語から抜け出してきたような、清らかなヒロイン。


 ――教会付属学園で“聖女”と呼ばれている、アリシア・ベルネ嬢。


(完璧ね)


 王太子殿下と聖女。

 それに対比されるように、冷たい悪役令嬢。


 世界は、わかりやすい物語を好む。

 善と悪。光と闇。ヒロインと悪役。


 そして私は、その物語のためなら、いくらでも悪役を演じてあげる。


 ――ただひとつ、本音を言うなら。


(本当は、あなたにだけは。

 一度くらい、「やめろ」と言ってほしかった)


 そんな叶わない願いを、心の底に沈める。


「本日は、父王に代わり私が挨拶をしよう」


 レオンハルト殿下の声が、大広間に響く。

 私は遠くから、その横顔を見つめた。


 やっぱり、綺麗な人だ。

 心の奥まで真っ直ぐで、愚かで、優しい。


 ――恋をするには、十分すぎる。


 政略婚から始まった関係だった。

 最初から恋など期待していなかった。

 それなのに、笑ってしまうほど簡単に、私は彼に恋をした。


 剣の稽古のあと、汗まみれで真面目な顔で報告書を読んでいたこと。

 迷子の子どもに、王子だと知られないように膝を折って目線を合わせていたこと。

 嫌味な貴族相手にも、最後まで冷静であろうとしていたこと。


 そんな小さな瞬間の積み重ねが、私の胸の奥をじわじわと塗り替えてしまった。


(……ああ、やっぱり。ほんの少しだけ、悔しいわ)


 どうせ悪役になるのなら。

 一度くらい、彼の隣で“ヒロイン”を名乗ってみたかった。


 そのみっともない欲を認めたら、涙が出てしまいそうで。

 だから私は、余計に笑う。


 私は悪役。

 私は、“嫌われ役”を引き受けることで誰かを守る存在。


 そうやって、自分に言い聞かせる。


「そして、もう一つ。皆に伝えねばならないことがある」


 ついに、その時が来た。


 周囲の空気が張り詰める。

 さきほどまで笑っていた令嬢たちが、ひそやかに息を呑む。


 レオンハルト殿下の青い瞳が、まっすぐに私を射抜いた。


「ノワール公爵令嬢、クリスティア」


「……はい、殿下」


 グラスを置き、ドレスの裾をつまみ、ゆっくりと彼の前まで歩み出る。

 赤い絨毯を踏むたびに、足音がやけに大きく響く気がした。


 視線が突き刺さる。


 好奇の刺。

 侮蔑の棘。

 期待の刃。


 ――悪役の登場を待つ観客の目。


(見たいのでしょう? “悲劇の元凶”を)


 その期待に応えてあげる。

 ノワール公爵令嬢は、舞台の上でこそ輝くのだから。


「お前との婚約を――ここに、破棄させてもらう」


 その言葉を、私は何度も夢で聞いた。


 泣き叫ぶ夢。

 取り乱して縋りつく夢。

 すべてを失って崩れ落ちる夢。


 けれど今、この瞬間。

 私の口元に浮かんでいたのは、よく磨かれた微笑だけだった。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 形式だけの問い。

 本当は知っている。全部知っている。


 殿下は一瞬だけ視線を揺らし、隣のアリシアを見やった。

 アリシアはおずおずと一歩前に進み、震える声で言う。


「わ、わたくし……とても言いづらいのですが……」


 ここからは、台本通り。


「クリスティア様に、ずっと、いじめを……」


 すすり泣き。ハンカチで目元を押さえる仕草。

 それを見て、周囲がざわつく。


「まあ……」

「やはり噂は本当だったのね……」

「聖女様を虐げるなんて……!」


 噂はすでに流されている。

 今日の断罪劇は、巧妙に仕込まれた芝居。


 “聖女”は守られるべき存在。

 “悪役令嬢”は罰せられるべき存在。


 わかりやすい構図に、人々は快楽すら覚えているようだった。


 レオンハルト殿下は苦しそうな表情を浮かべ、拳を握りしめた。


「クリスティア。お前に弁明の機会を与えよう」


(優しいふりをするのね、殿下)


 胸の奥で、冷たい笑いが弾ける。

 けれど、外側の私は、相変わらず優雅な淑女のまま。


「殿下は、わたくしの言葉を信じてくださるのですか?」


「……もちろんだ」


「では、わたくしが『何もしていない』と言えば、アリシア様の訴えを疑ってくださる?」


 一瞬にして、大広間の空気が凍った。


 殿下の瞳が揺れる。

 アリシアの指先が、ぎゅっとドレスを握りしめる。


 周囲の視線が、“本当の悪役”を探すように忙しなく動く。


 私はゆっくりと肩をすくめ、ほんの少しだけ、意地悪な笑みを深めた。


「……冗談ですわ」


 軽く、笑ってみせる。


「殿下が何を信じ、誰の手を取るのか。それは殿下の御心のままに」


「クリスティア……」


「ご安心くださいませ、殿下。わたくしは“悪役令嬢”としての務めを、最後まで立派に果たしてみせますわ」


 その言葉に、数人が息を呑んだ。


 ――悪役令嬢。


 物語の中で、必ず最後に罰せられる役。

 主役に幸せをもたらすために、憎しみを引き受ける役。


 その役を、私は自分から名乗り上げた。


 レオンハルト殿下の表情に、かすかな痛みが過(よ)ぎる。


「……お前は、それでいいのか」


「ええ」


 迷いなく――そう、見せかけて言い切る。


 本当は、まったく迷っていないわけじゃない。

 迷った。何度も。何度も、何度も。


 でも、選んだ。


 自分の感情よりも、皆の“物語”を優先することを。


「殿下が“聖女アリシア・ベルネを選ぶ”と仰るなら。

 ノワール公爵家の娘として、わたくしは身を引きましょう」


 アリシアが、信じられないものを見るように私を見つめている。


(そう、その顔。そのまま、泣きながら幸せになればいいわ)


 あなたのためよ――とは、決して言わない。


 私が悪役になれば、あなたは「守られた可哀そうな少女」でいられる。

 殿下は「彼女を救う正義の王子」でいられる。

 王家も、公爵家も、誰も傷つかない。


 ――代わりに、私だけが「すべて悪かった人間」になればいい。


「ですから、殿下」


 私はすっと一礼し、顔を上げた。


「どうか堂々と、わたくしを“断罪”なさってくださいませ」


 静寂が落ちた。


 音楽が止んだからではない。

 人々が息をすることすら忘れて、この茶番の結末を待っているから。


 レオンハルト殿下は、ぎゅっと唇を結び――

 それでも、予定された台詞を口にした。


「ノワール公爵令嬢クリスティア。

 お前の行いは看過できない。

 よって、ここに、婚約の破棄と、王都からの追放を命じる」


 追放。

 ――そう、聞いていた。


 それは罰であり、救いでもある。


 私がいなくなれば、ノワール家に降りかかる火の粉も最小限で済む。

 そして、なにより。


 彼らの幸せを、遠くから願うことだけなら、できるから。


「謹んで、お受けいたしますわ」


 私は裾を広げ、優雅に礼をした。

 それは、ノワール公爵家の娘としての、最後の礼。


 ――そのときだった。


「――お待ちください」


 よく通る低い声が、冷えた空気を切り裂いた。


 ざわり、と大広間が揺れる。


 階段の踊り場から、一人の青年が姿を現した。

 夜色の髪。落ち着いた灰色の瞳。

 黒に近い濃紺の礼服を身にまとい、その佇まいはどこまでも静かだ。


「あ、あなたは……」


 誰かが名前を呼ぶ。


 ――エリアス・グレイ。


 王宮付きの文官。宰相見習い。

 若くして多くの政策立案に関わっていると言われる、秀才。


 けれど、私にとっての彼は、それだけではない。


 昼下がりの図書室で、書類の束越しに交わした、短い会話。

 疲れたとき、ふいに差し出されたハーブティー。

 誰もいない廊下で、私の靴紐がほどけているのを見つけて、黙って膝をついて結んでくれたこと。


 ささやかな、けれど忘れがたい、いくつもの断片。


 彼はいつも、私に“敬意”を持って接してくれた。

 誰もが私を悪役として扱う中で、ただ一人、私を“人”として見てくれる人だった。


 そんな彼が、今――断罪の夜会のど真ん中で、殿下の言葉を制した。


「エリアス、何のつもりだ」


 レオンハルト殿下の声が低くなる。

 エリアスは殿下の前で一礼し、そのまま顔を上げた。


「無礼は承知の上で申し上げます、殿下。

 婚約破棄というご決断そのものに、私は口を挟みません」


「では――」


「ただ、“すべての罪を彼女一人に着せる”というやり方には、異議がございます」


 ざわっ――と、先ほどとは質の違うざわめきが広がった。


 彼ははっきりと、言ったのだ。


 “彼女一人”に、と。


 私ではなく、“彼女だけに”。


 私の視界の端で、アリシアがびくりと身を震わせる。


「どういう意味だ、エリアス」


「言葉通りの意味です、殿下」


 エリアスは、微塵も動じていない。


 いつもの、少し冷めた目。

 淡々と事実だけを並べる、文官の顔。


 ――なのに、ほんの少しだけ。

 その灰色の瞳の奥底が、熱を帯びているように見えた。


「この件に関して、王都でも学園でも、噂はすでに広まっています。

 “悪役令嬢ノワールが、聖女をいじめている”と」


 やわらかく、しかし逃げ道のない口調で続ける。


「ですが私は、見ておりました。何度も」


「……何を」


「彼女が、意図的に距離を取り続けていたことを、です。

 アリシア様を“傷つけないように”、むしろ周到に、関わらないようにしていたことを」


 胸の奥が、きゅう、と締めつけられた。


 どうして、そんなものを見ているの。


 どうして、そんなふうに言うの。


「エリアス様。わたくしは――」


 アリシアが反論しようとする。

 だがエリアスはそれを遮らない。ただ、静かに受け止める。


「アリシア様。あなたのお気持ちも、理解はします。

 あまりにも立場の違う方が、そばにいるのは、怖かったでしょう」


 “優しい嘘”を織り交ぜながら。

 誰も直接は傷つけない言い方で。


「ですがその恐怖心が、“いじめられている”という形で周囲に伝わっていったのであれば――

 それは、あなたお一人の問題ではありません」


 ちらりと、レオンハルト殿下を見る。


「彼女を守ると決めた殿下の責任でもある。

 そして、“悪役令嬢”という物語を好んだ我々全員の責任でもある」


 責任――。

 そんな言葉、この場に似合わないと思っていた。


 誰もが、責任だけは取りたがらない世界で。

 さらりとそれを口にできるこの人が、少しだけ、眩しかった。


「ノワール公爵令嬢」


 エリアスが、私の名を呼ぶ。


 その声音には、軽蔑も、憐憫も、好奇心も含まれていなかった。

 ただまっすぐに、私という一人の人間を見ている声だった。


「あなたは、本当にそれでいいのですか?」


 胸の奥で、何かが弾けた。


 ――“それでいいのか”。


 誰かに、そう聞かれたことがあっただろうか。


 父はいつも、「家のために」と言った。

 母はいつも、「誇り高くあれ」と言った。

 殿下はいつも、「君なら大丈夫だろう」と言った。


 “どうしたいか”ではなく、“どうあるべきか”。


 そればかりを問われ続けてきた私に。


 エリアスだけが、初めて。

 “私自身はどうしたいのか”を、真正面から問いかけている。


 喉が、ひどく乾いていた。


 けれど、悪役令嬢は、みっともない顔をしてはいけない。


「……何をおっしゃるの、エリアス様」


 いつもの調子で返そうとする。

 いつもの仮面を、被ろうとする。


「質問にお答えください」


 けれど、エリアスの声は、ほんの少しだけ強かった。


 押しつけがましくはない。

ただ、逃がさないだけの強さ。


「あなたは、自分の感情を、誰かの都合のために切り捨て続けてきた。

 それでも構わない、と。

 本心から、そう思っているのですか?」


 本心、という言葉に、胸がひくりと痛んだ。


 本心なんて――。


 そんなもの、とうの昔に捨ててしまったはずなのに。


「……わたくしは、最初から悪役ですわ」


 絞り出すように言う。


「殿下の物語に、ハッピーエンドをもたらすための。

 “悪者”が必要なのでしょう? なら、わたくしが引き受けて差し上げますわ」


 笑う。

 完璧に。

 いつも通りに。


 ――そのつもりだったのに。


「だから、これでいいのです。

 婚約の破棄も、追放も。

 わたくしが悪役でいれば、皆さんお幸せなのでしょう?」


 最後の一言だけが、どうしても、震えてしまった。


 エリアスは、その揺らぎを見逃さなかった。


 灰色の瞳の底に、はっきりとした色が灯る。


 それは、静かな怒りにも似ていた。

 世界に対して。空気に対して。

 そして、何より――自分自身に対して。


「……そうですか」


 短く息を吐く。


「なら、覚えておいてください」


「……何を、ですの」


 エリアスは、一歩だけこちらに近づいた。

 私と殿下の、ちょうど間に。


 近い。

 こんなに近くで彼の顔を見たのは、はじめてかもしれない。


 夜色の髪の間から覗く耳。

 長い睫毛。

 冷静そうな灰色の瞳の中に、かすかな熱。


 胸の鼓動が、うるさい。


「あなたが“悪役の仮面”を外したくなったとき。

 そのときは――俺が、迎えに行きます」


 世界が、音を失った。


 さっきまでうるさいほど聞こえていたざわめきも、楽団の調律の音も、全部遠くへ追いやられる。


 耳の奥で響いているのは、自分の心臓の音だけ。


 ――何を言っているの、この人は。


 そんな約束、してはいけない。


 そんな甘い言葉、絶対に聞いてはいけない。


 だって私は、悪役なのだから。


「……エリアス様。あなた、正気かしら?」


 やっと、言葉を絞り出した。

 自分でも驚くほど、声が掠れている。


 エリアスは、ふっと笑った。


 それは、誰に見せてきたのか分からない、柔らかな笑みだった。


「さあ。

 “正気”の基準は、人によって違うでしょう」


「悪役を、迎えに行く、と?」


「ええ」


 頷くその仕草は、あまりにも自然だった。


「世界中の誰があなたを悪役だと言おうと――

 少なくとも俺にとって、あなたは“ひとりの人間”ですから」


 ひとりの、人間。


 言葉が、胸のどこか深い場所に落ちていく。


 今まで、そんなふうに扱われたことがあっただろうか。


 家のための娘。

 王家のための駒。

 物語のための悪役。


 役割でしか見られてこなかった私にとって。


 “人間”と呼ばれることは、思っていた以上に、重かった。


「……そんなことを言って、何の得があるのかしら」


 やっとのことで皮肉を返す。

 それが、私の最後の防衛線。


 エリアスは、少しだけ目を細めて言った。


「得、ですか。

 そうですね……」


 少し考えるふりをしてから、穏やかに微笑む。


「――あなたが仮面を外した顔を、俺だけが知っている、という優越感くらいでしょうか」


 息が、止まった。


 あまりにも、ずるい言い方だった。


 甘くて、意地悪で、誠実で。

 それでいて、どこまでも真剣な声音。


 周囲の令嬢たちが、きゃ、と小さく悲鳴を上げる気配がした。

 誰かがハンカチで口元を押さえている。


「「「なにあれ、プロポーズ……?」」」


 そんなささやきが耳に入る。

 違うわよ、と言い返したい。

 けれど、否定の言葉が喉でつかえた。


(……やめて。そんなふうに、優しくしないで)


 悪役は、そんな言葉をもらうべきじゃない。


 悪役は、一人で笑って、一人で罰を受けて、一人で幕を下ろすべきだ。


 ――それなのに。


 心のどこかが、どうしようもなく、温かくなってしまう。


 泣きたいような。

 笑ってしまいたいような。

 抱きしめられて、全部投げ出してしまいたいような。


 そんな、どうしようもない感情。


「ふふ……」


 気づけば、笑っていた。


 いつもみたいな、冷たい悪役の笑いではなく。

 少しだけ震えた、情けない笑い。


「楽しみですわね、エリアス様。

 わたくしのような悪役令嬢を、あなたは本当に“迎えに来る”のかしら」


 精一杯の虚勢をこめて、そう言う。


 だって、もし。

 本当に迎えに来てしまったら――

 私の人生は、間違いなく、変わってしまうから。


 エリアスは、その虚勢ごと包み込むように、静かに頷いた。


「ええ。約束ですから」


 約束。


 その言葉が、胸の奥に灯をともす。


 それはまだ小さくて、頼りない。

 風が吹けばすぐに消えてしまいそうな、小さな炎。


 でも――確かに、そこにある。


 断罪の夜。

 世界は私を悪役にした。


 王子は私を切り捨てた。

 聖女は守られる側として完成した。

 貴族たちは口々に、私を“最低最悪”と罵った。


 けれどそのすべての裏側で。


 たった一人だけ、物語から外れた男がいた。


 彼は、世界の物語を優先しなかった。

 “正しさ”のために、誰かの感情を切り捨てることを選ばなかった。


 そして――


 悪役令嬢クリスティア・ノワールという“ひとりの人間”を、迎えに行くと宣言した。


 ――そんなの、恋をしてしまうに決まっているじゃない。


 私は、もはや完璧ではない仮面の裏で、そっと目を閉じた。


 この夜が終われば、私は王都を追放される。

 “悪役令嬢”として、歴史の片隅に名前だけを残して。


 けれど、たったひとつだけ。

 誰にも奪われないものを手に入れてしまった。


 仮面を外しても、迎えに来てくれると言ってくれた人。


 そんな人が、この世界のどこかにいる、という事実。


 それだけで――

 ひどく、甘い。


 だから私は今日も、悪役として笑う。

 骨の髄まで“最低最悪”を演じ切ってやる。


 そのうえで――

 いつかきっと、約束を信じてしまう日が来るのだろう。


 断罪の夜。

 悪役令嬢は、世界の望むとおりに悪役として完成した。


 けれど同時に。


 誰にも知られない場所で、たった一人の男によって、


「仮面を脱いだ自分が帰っていける場所」


 という、救いにも似た約束を与えられてしまったのだった。

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