ある黒い鳥

みのりんご

ある黒い鳥

 仕事の帰り道、僕はあの森に寄るのがいつの間にか習慣になっている。

 疲れた頭を冷やすのに、木々のざわめきや土の匂いがやけに効くのだ。けれど何よりも、森の奥でひそやかに響く、あの黒い鳥の声を聞くためである。

 その鳥の鳴き声は二種類ある。ひとつは「ピーピー」と素っ気なく鳴く、よくある小鳥の声。散歩中に聞こえてきても、気にとめる人は少ないだろう。

 だが、もうひとつの声は違う。夜の気配が濃くなり始める頃、森の奥からふいに流れてくる透明なひと声。言葉では到底うまく表せないのだが、簡単に言うなら、空気そのものが澄み渡るような響きだった。

 初めて聞いたとき、なぜだか涙が出そうになった。だから、仕事がしんどい日ほど森に寄った。木の下のベンチに腰を下ろし、ただその声を待った。

 あの声が聞こえるだけで、どうにか明日もやれる気がした。


 ある日、森の入口に大型車両が並んでいるのを見つけた。ヘルメットをかぶった作業員たちが忙しなく測量をしている。嫌な予感が胸の奥でざわつき、近くにいた職員に声をかけた。


「ここで何してるんですか」

「ええ、ゴルフ場になるんですよ。ここ一帯、全部」


 耳を疑った。

 その晩、住民説明会が開かれ、大勢の人が反対の声を上げた。僕もその一人である。森は地元の人の憩いの場であり、何より、あの黒い鳥がいる。小さい森だが、あの鳥にとっては世界そのものだ。

 だが、ゴルフ場建設はあっさり決まっていたらしい。説明会はただの儀式で、反対意見など初めから考慮されていなかった。森は切り開かれる。鳥たちは行き場を失う。その現実を突きつけられた時、胸の中の何かが静かにひび割れた。


 そんな最中、ある研究機関の人たちが現れた。あの黒い鳥を保全するため、全ての個体を安全な施設に移して繁殖させるという。さらに、ゴルフ場の脇に“サンクチュアリ”—鳥たちの新しい生活圏—を作る計画まで持ち上がった。

 森はなくなるが、鳥たちは生き残る。あの声も、きっと残る。住民たちはいくばくか安堵し、僕も救われる思いだった。

 その後、鳥たちは一羽残らず捕獲され、研究施設へ運ばれた。森は半分ほど伐採が始まり、チェーンソーの音が昼夜かまわず響き続ける。反対に、あの透明な声だけは、ある夜を最後にぱたりと聞こえなくなった。

 鈍感な僕でも、それが“終わり”の合図だったのだと気づく。さみしいが、いつかまたあの声を聞ける日がやってくる。その日が来るまで、僕も頑張ろうと思った。


 それから数年が経ち、僕は結婚し子どもが生まれ、仕事も少し落ち着いた。森の跡地には立派なクラブハウスが建ち、季節になると観光客が大勢やってくる。

 そしてようやく、サンクチュアリが完成し、例の黒い鳥が戻ってきたという知らせが届いた。久しぶりに胸が高鳴る。鳥の声を聞かせてやろうと、僕は子どもの手を引いてサンクチュアリへ向かった。

 湿地帯に沿って遊歩道が整備され、観察デッキには家族連れが集まっていた。僕たちは柵の前に立ち、小さな黒い影を探す。

 やがて近くの枝に、一羽の黒い鳥がとまった。


「ピーピー」


 軽い鳴き声が響く。

 子どもは嬉しそうに笑いながら言う。


「かわいい声だね!」

「……ああ、かわいいな」


 そう返しながら、胸の奥がゆっくり沈んでいくのを感じた。


 鳥たちは、まるで決められた動作だけを繰り返しているように見えた。声も、動きも、どこか整理されすぎているのである。その均一さには美しさはなく、不気味さすら感じてしまう。

 あの声はしなかった。どこを探しても、あの日の夕暮れにだけ響いていた、あの透明な声はなかった。鳥が変わったのか。それとも、あの声はあの森でしか生まれなかったのか。僕には分からない。

 ただ、耳を澄ませば澄ませるほど、静かさだけが増していく。


 その日の夜、サンクチュアリの掲示板に貼られた紹介文を、何気なくスマホで読み返した。


 ――黒い鳥は、単純で覚えやすい鳴き声を持ち、子どもから大人まで親しまれる、地域の新たなシンボルです。


 僕はスマホをそっと伏せた。胸の奥に、何か小さくて柔らかいものが、ひっそりと沈んでいくのを感じた。あの美しい声の記憶だけを残して。

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある黒い鳥 みのりんご @Minori4pple

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ