第4話
それから幾日かのあいだ、私は両親と同じ道を歩きながらも、心だけは別の方角へ向いていた。観光名所と呼ばれる建物の前に立っても、その姿はどこか遠い絵葉書のようにしか映らず、胸の奥では、あの細い旋律の残り火が、消えぬまま静かに燻っていた。私は隙を見つけるたび、あの日の池へ足を運んだ。
午後の木陰は、以前よりもいくらか深みを増していた。池の水面は、風に揺れながら雲の切れ端を映し、光は波紋の間を縫うように震えていた。そのそばで、少女――リルは、いつものように笛を手に、静かに佇んでいた。私が近づくと、彼女は気づいたらしく、穏やかな微笑みを浮かべて軽く会釈をした。
私は前から胸に引っかかっていた疑問を、どう言葉にすればよいのか分からぬまま抱えていた。音のない世界とは、いったいどのようなものであるのか――その問いは、軽々しく触れてはならぬもののように感じられ、しかし同時に、私をじっと離そうとはしなかった。私はためらいがちに彼女を見つめた。
するとリルは、私の心の動きを読み取ったかのように、柔らかな笑みを浮かべた。そして、何の説明もなく、両の手を静かに耳へ当てた。白い指先が髪に沈み、音を閉ざす仕草は、どこか祈りにも似ていた。次の瞬間、彼女は「こう」と言うかわりに、静かなまなざしで私を見つめた。
私は息を整え、同じように両手で耳を塞いでみた。世界はゆっくりと遠ざかり、さまざまな声やざわめきが、波の裏側へ滑り落ちていくようであった。私はそのまま目を閉じた。すると、風の気配だけが、体の周辺に薄く残った。
しかし、静寂の底に身を置いたはずの私の耳に、やがて微かな震えが滲み出すように戻ってきた。それは確かに、笛の音であった。細く細く延びるその音色は、閉ざした耳の内側から湧き上がってくるようでもあり、同時に遠い空の上から降りてくるようでもあった。
その瞬間、私は自分の意識が体からふわりと離れ、風になったような心地を覚えた。池の上を渡る風は、木々の梢を抜け、並木道を過ぎ、石畳の広がる街へと流れ出していった。私はその風の流れとともに、パリの上空を静かに漂っていた。
街は、上から見ると、無数の線と影とで編まれた網のようであった。屋根の赤茶けた色が夕陽に染まり、セーヌの水は、ゆるやかな金色の帯となって街を抱き締めていた。笛の音は、その帯の上を渡り、橋の下をくぐり、遠くの鐘楼の影にまで届いているように思われた。私は夢を見ているのだと一瞬考えたが、その光の確かさと風の温度は、どうにも現実から乖離しているとは思えなかった。
音は景色と寄り添い、景色は音の形に沿って静かに変化していった。観光客のざわめきは色彩に溶け、馬車の軋む響きは光の粒となって舞い上がる。私は言葉を持たない世界の真ん中に立ち、ただ、音と風とが織りなす遥かな往復の中に身を委ねていた。
どれほどの時間が経ったのか、判然としない。やがて、笛の震えが一度だけ細くたわみ、次の瞬間、すべての光景がゆっくりと水の底へ沈むように遠ざかっていった。私ははっとして、耳に当てていた手を下ろした。目を開けると、池の水面が、先ほどと変わらぬ静けさで風を受けていた。
目の前にはリルが立っていた。彼女は私の顔をじっと見つめ、ほのかに微笑んだ。言葉はなかったが、その微笑みの揺れ具合から、私が見たものを、彼女もどこかで感じ取っているのだと、私は直感した。私の胸の中で、現実と夢との境い目は、薄い霧のように溶け合っていた。
私はありがとうと言うべきなのか、あるいは何も言わぬままでいるべきなのか、判断がつかなかった。ただ、胸の奥に宿った静かな震えをそのまま抱え、そっと頭を下げた。リルも小さく頷き、笛を胸に抱えると、風の方を向いた。
そのとき、木立の上を渡る風が、再び私の肩を撫でて通り過ぎた。私は、自分がいまどこに立っているのか確かめるように周囲を見回した。池も、並木も、石の道も、確かにそこにあった。しかし同時に、私の内側のどこかでは、まだ旅の続きが静かに鳴り続けていた。
その音は、遠くへ消えてしまうことなく、ただ、風の中に溶け込むようにして、いつまでも薄く残っていたのである。
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