第3話
翌日の朝、私は目を覚ますと、まだ薄い靄を含んだ風が窓の隙間から忍び込んで来るのを感じた。その風は、昨夜から胸の奥に残り続けている細い旋律を、もう一度静かに呼び覚ますかのようであった。私はしばらく枕に顔を伏せたまま、音のない記憶を手探りするように思い返していたが、やがて荷を背負うような気持で身を起こした。
朝食の席で、母は旅程の紙を折り畳みながら、私の方へちらと視線を送った。
「今日は川の方へ行くらしいわ。人も多いでしょうけれど、きれいよ」
そう言ったあと、母は何かを思い出したように微笑し、簡単な自己紹介の言い回しを、ゆっくりと口にして聞かせた。私はうなずくでもなく否定するでもなく、曖昧な返事をして、ただその言葉の響きだけを、胸の奥へしまい込んだ。
その日の午後、私は両親と連れ立ちながらも、どこか上の空で石畳を踏みしめていた。街の騒めきは、遠い海鳴りのように耳を掠めるばかりで、私の注意は、別の場所へ引き寄せられていた。ふと風が吹き、木立の方角からかすかな気配が漂って来る。私は立ち止まり、両親にひと声かけると、再び公園の奥へ足を向けた。
前日と同じ道を辿るつもりでいたが、木々の影はすでに違う形をしており、光の筋は別の位置を走っていた。それでも池のほとりへ近づくにつれ、胸の内の鼓動は、あの旋律の残り火と寄り添うように静かに高まっていった。やがて水面の揺らめきが視界に現れ、そのそばに少女の小さな背中が浮かび上がった。
私は一歩踏み出し、意を決して声を発した。母に習った通りの言葉を、たどたどしく口に運んだのである。しかし、その声が空気の中に溶けきらぬうちに、少女はゆっくりと振り向き、耳のあたりに手を添えると、困ったように微笑みながら静かに首を振った。その仕草は、拒絶というより、どこか優しい戸惑いを含んでいた。
私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。少女は鞄から小さな手帳を取り出し、鉛筆を走らせると、私の前へ差し出した。紙の上には短い文字が一つだけ浮かんでいた。
――**LiL**
その文字は、風に揺れる水面の映り込みのように、私の胸の奥へ静かに沈んでいった。私は思わずうなずき、指先でその名をそっとなぞるふりをした。少女はそれを見ると、少し安堵したように目を細めた。
音の届かぬ世界にいるという事実を、私はそこでようやく悟った。しかし、それは悲しみでも同情でもなかった。ただ、彼女の沈黙の周囲に、柔らかな輪郭を与えるもののように感じられた。私が戸惑いを抱えたまま立っていると、少女は小さく頷き、唇に笛を寄せた。
笛の音は、相変わらず細く、静かであった。けれどその震えは、水辺の光を越え、私の胸の奥へと真っ直ぐに届いてくるように思えた。彼女の表情はわずかに変化し、その陰影から、喜びや遠い寂しさが、言葉より確かな形で伝わってくる。私はそれを受け止めながら、足元の小石を拾い上げ、水面に投げ入れた。円を描いて広がる波が、音に応じるかのように静かに揺れた。
少女は私の仕草を見つめ、微かに口角を上げた。その笑みは、言葉の代わりに差し出された理解の印のようであった。私もまた、胸の奥に潜んでいた重さが、風に撫でられてほどけていくのを、ゆっくりと感じていた。
やがて音は途切れ、風だけが池の上を渡った。木の葉が淡く鳴り、午後の光が二人の影を長く伸ばした。私と少女は、互いに言葉を持たぬまま、しかし、言葉より深いものを手放さぬまま、その場にしばし佇んでいた。彼女の瞳に映る私の姿が、どこか遠い空へ溶け込んでいくように見えた。
私は再び軽く頭を下げ、名を呼ぶこともできずに視線だけで別れを告げようとした。すると少女は手帳を胸に抱え、小さく会釈を返した。風が二人の間を通り抜け、笛の紐がかすかに揺れた。その揺れの中に、言葉の代わりの返事が確かに在った。
私は振り返りながら、もう一度だけ池の方を見た。銀の髪が陽に溶け、少女の姿は木陰の向こうへ細く滲んでいた。胸の内には、名乗りきれなかった言葉と、名を得た沈黙とが、静かな風のように同居していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます