ルミナスの卵

ルミナスの卵

砂は、夜でも熱い。

いや、正確には私の手袋の内側が熱いのかもしれない。


発掘用の照明が、白い柱みたいに砂漠を切り取っている。

その中心に、卵があった。


拳より少し大きい。滑らかで、陶器みたいで、でも陶器の冷たさがない。

温かい。

触れていないのに、掌がじんわりと温まっていく。


そして、縫い目のどこかから光が漏れていた。

漏れる、というより呼吸しているみたいに、明るくなって、暗くなる。

鼓動みたいな周期。


私は呼吸を飲んだ。

「……ルミナス……」

現場にいた誰かが、小さく呟いた。


仮称だ。発光する卵。だからルミナスの卵。

人類史上、初めての――たぶん、地球外生命の証拠。


私の指先が、手袋越しに殻へ触れた。

その瞬間。


殻の内側から、ひとつ、返事が来た。

コツン。


骨に響くほどではない。けれど確かに、私の触れた場所へ、同じ強さで叩き返してくる。

まるで、そこにいる、と言うみたいに。


「応答……?」

管制の声が、耳の中で震えた。

「触れるな。刺激するな。観測優先だ。繰り返す、観測優先」


分かっている。

――なのに、私は指を離せなかった。


コツン。

もう一度。

今度は、少しだけ周期が私の呼吸に寄ってくる。


私は、笑ってしまった。

「……ごめん。聞こえたんだ」


その時だった。

地面が揺れた。


発掘坑の縁に置かれていた回収カプセルが、勝手に起動した。

ありえない。まだ電源は落としてあったはずだ。


計器盤の表示が、一瞬だけ跳ねる。

磁気方位が、針じゃなく、線みたいに伸びた。


砂埃が舞い、固定杭が抜け、金属の塊が狂った獣みたいに暴れ出す。


「離れろ!」

叫んだのは誰だったか。


私は卵を抱えた。

抱えるつもりなんてなかったのに、体が先に動いた。

手袋越しの温かさが、胸まで移る。


次の瞬間、回収カプセルが私ごと飲み込んだ。

扉が閉まり、ロックがかかる。


「カイ! カイ、聞こえるか!」

管制の絶叫。


私は息を吐く。

酸素の匂い。金属の匂い。砂の匂い。

そして、卵の光。


「……閉じ込められた。卵も一緒だ」

「卵を捨てろ。緊急切り離しを――」


言葉の途中で、加速。

背中がシートに押し付けられる。

回収カプセルが、上へ、上へ。


砂漠の夜が、窓の外で遠ざかっていく。

人類史の発見は、三秒で遭難になった。


―――


宇宙は静かで、残酷だった。


通信は生きている。電源も生きている。

けれど推進は制御不能。

私は、カプセルの薄い壁一枚で、黒い無限に放り出された。


「カイ、状況報告。バイタルは?」

「生きてる。骨は……たぶん折れてない」


声が震える。

怖いからじゃない。寒いからだ。

宇宙は冷える。熱は逃げる。


そのはずなのに。


卵だけが温かい。


私は膝の間に卵を挟み、両腕で抱えた。

すると、光の周期が落ち着いた。

暗くなる時間が短くなり、明るい時間が長くなる。

まるで、安心しているみたいに。


「……お前、私の呼気が好きなのか」


マスク越しに息を吹きかける。

卵が、ふわりと明るくなる。

鼓動が、私の心拍と重なる。


コツン。

今度は内側からの叩きが、優しい。


私は笑って、すぐに泣きそうになって、喉を鳴らした。


「やめろ、情が移る」

管制の声は冷たい。

「対象は標本だ。生存のための資源は限られている。刺激は未知の反応を引き起こす」


「……標本が、私に返事をした」

「錯覚の可能性が高い。映像を送れ」


私はカメラを起動して、卵の光と、自分の手を映す。

画面越しに見ると、ただの物体だ。

ただの、光る殻。


でも、私の腕の中では違う。

温かくて。

私が息をすると、落ち着いて。

私が手を離すと、わずかに光が乱れる。


私は、生存手順を頭の中で並べた。

水。酸素。電源。温度。


卵は……生存手順の中にないはずだった。

ないはずなのに、私は卵のために毛布を引っ張り、ヒーターの出力を調整し、手袋を外して素手で撫でた。


素手は危険だ。未知の生体物質かもしれない。

でも、温かかった。

ぬるい、ではない。

誰かの体温。


「……大丈夫だ。ここにいる」


誰に言ったのか分からない。


コツン。

返事。


胸の奥が、ぎゅっとなった。


管制がまた言う。

「触るな。観測優先だ」


私は小さく首を振った。

「現場では、生かすのが優先だ」


優しさ、なんて言葉は嫌いだった。

自分が優しいだなんて思いたくない。

ただ、生きたいだけだ。

そして、この温かさを失いたくないだけだ。


―――


三日目。

卵が、変わった。


光が、強くなった。

明るい時間が増えた、ではない。

光そのものが、重い。

目を閉じても、瞼の裏が赤く焼ける。


「卵、発光量が上昇している。エネルギー源は不明。熱量も上昇」

管制が淡々と報告する。


私は息を吐く。

「……欲しがってる」

「何をだ」


私は、ライトを手に取った。

非常用の小さな懐中ライト。

それを卵の前で点ける。


卵が、光に向かって傾いた。

自分で動いた。


殻が転がるでもなく、磁石みたいに、すっと、向きを変えた。

カプセルの姿勢制御が、わずかに引っ張られる。

ジャイロの警告が、短く鳴る。


「やめろ! 姿勢制御を奪われる!」

管制が叫ぶ。


でも、卵はやめない。

ライトを追う。

さらに外の、窓の向こうの光へ。


太陽。

黒い宇宙に浮かぶ、遠い白。


卵の鼓動が速くなる。

コツン、コツン、コツン。

叩く音が、私の心拍と同調する。

まるで胎動だ。


私は、思ってしまった。

……かわいい。


言葉にすると気持ち悪いのに、心がそう感じる。


「お前、光が好きなんだな」

卵の光が、うれしそうに膨らむ。


私は、ライトを消した。

卵が、不安そうに暗くなる。


私は、ライトを点ける。

卵が、すぐに明るくなる。


……私は、操られている。

それでも、私は点けた。

点けてしまった。


「カイ。刺激するなと言った」

「……静かにさせるには、これしかない」


私の声は、言い訳に近かった。

卵が落ち着けば、カプセルの姿勢制御が保てる。

保てば、生きられる。


だから。

だから、私が光を与える。

その因果が、何を殺すかも知らずに。


―――


地球が見えたのは、四日目の終わりだった。

青い。

涙が出るほど青い。


帰れる。


その瞬間、救われた気がした。

けれど、同時に、恐ろしくなった。

卵も一緒に帰る。

それは、つまり――未知を連れて帰る。


「カイ。緊急手順により、カプセルを切り離せ。大気圏突入前に卵を投棄しろ」

管制の声は硬い。


「切り離したら、私は?」

「帰還率は下がる。だが生存の可能性はある」


嘘だ。

大気圏突入の熱と、姿勢制御不能の現状。

切り離した瞬間、私は燃える。


卵だけを残せば、私は助かるかもしれない。

卵を落とせば、卵は燃える。


……私は、卵を見た。

光が、私の顔を照らしている。

鼓動が、私の心拍に合わせている。


コツン。

返事。

私の指先に。


その小さな音が、私を縛る。


「……約束したんだ」


誰と?

分からない。

でも、私は言ってしまった。


「大丈夫だ。帰ろう」


罪の瞬間は、短い。

私は切り離しボタンから手を離し、カプセルの帰還角度を、卵に奪われないように必死で維持した。

卵にライトを当て、卵を落ち着かせ、太陽から目を逸らさせる。


それは、子守りだった。

子守りをしながら、私は地球へ落ちた。


生きるために。

生きると決めた、その瞬間に、もう世界は死に始めていたのかもしれない。


―――


帰還は、奇跡だった。


隔離施設。

透明な壁。

白衣。


「対象を刺激するな。光を遮断しろ」

統合対策本部の声が、スピーカー越しに言う。

宇宙の管制とは違う。声が多い。意見が割れている。


科学者達は、私を見ない。

卵だけを見る。


卵は、落ち着かない。

暗闇に置かれると、鼓動が乱れる。

光が、悲鳴みたいに点滅する。


私は、壁の向こうで拳を握った。

「……点けてやれ」

「ダメです。観測に影響が――」

「死ぬぞ。今、こいつは死ぬ」


自分でも驚くほど、大きな声だった。


誰かが渋々、薄い光を与える。

卵が、すぐに落ち着く。

私は、肩で息をした。


その夜から、地球は変わった。


最初は小さなニュースだった。

衛星が乱れる。磁場が揺らぐ。オーロラが異常発生。


次に、海が狂った。

潮汐がずれる。

満潮の時間が延び、干潮が短くなる。

海面が、呼吸するみたいに上下する。

卵の鼓動と同じ周期で。


「卵が……巣作りを始めている可能性がある」

対策本部が、そう言った。

巣作り。

地球の近傍で。


卵は、光を求めた。

外の光。

太陽だけでは足りない、と言うみたいに。


そして。


卵自身が、光になり始めた。


最初は微弱な輝きだった。

夜空に、第二の星が生まれたみたいに。


でも、それは星じゃない。


観測データが変わった。

卵の光のスペクトルに、見慣れた水素の線が並び始めた。


「……内部で、反応が起きている」

誰かが言った。

次の誰かが、言葉を選びきれずに吐き出した。


卵の内部で、微小な核融合が始まった。

観測データがそう示す。


「二つ目の昼が来る」

科学者が呟いた。


そして、来た。


夜が薄くなる。

日没が遅くなる。


夕方が長い、ではない。

昼が終わらない。


乾く。

畑がひび割れる。

川が細る。

砂漠が広がる速度が、地図で見ても分かるほど速い。


海面は上がり、同時に海は蒸発する。

雨が降らない。

降っても、熱で蒸気になる。


人は暑さで倒れ、電力は足りず、冷やすために燃やし、燃やすほど熱くなる。


卵は、悪意を持っていない。

ただ、防衛しているだけだ。

傷つけられると、守ろうとする。


対策本部は、卵を止めようとした。

レーザー。核。ミサイル。


けれど、攻撃は卵を怯えさせるだけだった。

怯えた卵は、もっと光を出した。

もっと熱を出した。

守ろうとした。


私たちを。

巣を。

つまり、地球を。


守るために、地球を焼いた。


―――


私は、隔離施設の中で、ただ見ていた。


地球の空が白くなる。

夕焼けが赤くなる。

赤が、濃くなる。


それは夕陽ではなく、燃焼の色だった。


「カイ。君しか近づけない」

誰かが言った。対策本部の声だったか、研究主任だったか、もう区別がつかない。


卵は、私の声にだけ落ち着く。

私の呼気にだけ、周期を合わせる。


最初に触れた瞬間の、親認定。

あのコツンが、今も続いている。


私は、卵の前に立った。

透明な壁の向こうではなく、同じ部屋の中に。


防護服を着ても、熱が肌を刺す。

呼吸のたびに、喉がひりつく。

口の中が、砂みたいに乾く。


卵は、私を見るみたいに光った。

鼓動が速い。

怖がっている。


「……大丈夫だ」

私は、嘘をつく。

声が震える。


「大丈夫だ。ここは家じゃない」


卵が、コツン、と返事をする。


私は、続けた。

「お前の家は、あっちだ」


窓の向こう。

太陽。

白い、遠い白。


「行け。光のところへ」


背後で、誰かが息を止める気配がした。


私は、卵に手を当てた。

素手。

温かい。

人の体温。


「……ごめん」


その一言が、喉で詰まった。


私は、最後の通信を開いた。

全世界へ、ではない。

卵へ。

卵に聞かせるための、私の声。


「大丈夫だ。お前はひとりで行ける」


嘘だ。

お前はひとりでは行けない。

でも、親はいつか離す。

離さなければならない。


私が与えたのは、光だった。

だから最後に、光へ返す。


卵の鼓動が、ゆっくりになる。

私の心拍から離れていく。

親離れ。


卵が、ふわりと浮いた。

施設の天井を突き破らずに、まるで空間の縫い目を見つけたみたいに、外へ出る。


そして、太陽へ向かって飛び始めた。


第二の光源が、遠ざかる。


それでも、地球は冷えない。

遅い。

もう遅い。


二重の昼は、乾いた地表を焼き尽くし、海を薄くし、空気を熱で歪ませ、呼吸を奪った。

卵が去っても、熱の慣性は残る。

磁場の乱れも、潮汐の狂いも、戻らない。


私は、窓の外の夕陽を見た。

夕陽は沈むはずなのに、沈まない。


沈まないから、世界が燃え続ける。


唇が、ひび割れて血の味がした。

息が熱い。

吸っているのは空気じゃなく、湯気みたいだった。


「……ありがとう」


私は、誰に言ったのか分からない。

神様か。

卵か。

自分の愚かさか。


最期に、私に声を残してくれたことに。


コツン。

遠い遠いところで、返事がした気がした。


その小さな音だけが、私の中に残った。


救ったのに、救えなかった。

私が抱きしめた温かさが、世界を乾かした。


そして、世界は、沈む夕陽みたいに、ゆっくり燃えて終わった。

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