部屋に柱が立っている
なんば
柱
目覚めの良い朝、水を飲もうとふらつく足でキッチンへ向かうと、そこには見知らぬ男が立っていた。
痩せた身体に黒いスーツをまとい、窓の外を見ているようだった。
洗面台へ向かい、冷水で顔を擦り、またキッチンへ向かう。
まだ男は立っている。
私は何度か目を擦ったり、頬をつねったりしたが、依然男は微動だにしない。
仕方がないので警察を呼ぶことにした。
携帯電話を手に取り、羅列されている数字を見つめていた。
警察に連絡するというのは、妙に緊張するな。
覚束ない手でボタンを押すと、すぐに繋がった。
「ご用件は」
受話器の向こう側はやけに静かで、雑音の一つもしなかった。
声は若くも老いてもいない。感情がない。
「部屋に知らない男が居るんです」
少し間が開く。
「分かりました。今からそちらへ向かいます」
携帯電話を机に置くと、男へ声を掛けてみる。
「すみません、ここは私の家なんです。帰っていただけませんか」
男は視線も動かさずに、ただ立っているだけだった。
その態度は、果たして言葉が耳に入っているかも疑問だった。
観察していると、すぐにインターホンが鳴った。
交番と家が近いので、普段はサイレンがうるさいが、こういう時はずいぶん頼もしく感じる。
扉を開けると、二人の警官が玄関へ入ってきて、口を開くのも億劫な様子で言う。
「通報の件ですが」
その無愛想な態度に少し驚いたが、部屋の中へ上がるように伝えた。
「ほら、あそこに立っているでしょう」
その姿に指をさすと、警官は妙な顔をした後に口を開いた。
「あれは柱でしょう」
私は真冬に裸で外へ放り出されたような心持ちになったので、顔をしかめた。
「あれが柱だと言うのですか、どう見ても男でしょう」
すると呆れたと言わんばかりの表情で、
「我々も暇じゃないんだよ」
そう言ってドアから出ていった。
部屋で二人きりになった私は、説得しようと試みたり、服を投げつけてみたりした。
それでも全くダメなので、諦めて本を読むことにした。
男に背を向けページを捲ってゆく。
私は読書が好きだった。
仕事が休みの日には必ず、こうして読書をするのが日課になっていた。
国内小説を読めばその言葉の光に魅了され、海外小説を読めば、ちょっとした旅行をした感覚を得られる。
だが今日はなぜだか、あまり集中できなかった。
その理由は分からずに、ついには本を閉じてしまっていた。
唯一の楽しみを失った私は、窓辺へ行き、日光を浴びることにした。
また明日から始まる刑務所暮らしを考え、憂鬱になっていると、男の顔が窓に反射している。
その視線の先はどこへ向かっているのだろうか。
そう思い、横に立って同じところを見ても、白い壁があるだけで暇つぶしにすらならなかった。
すると洗濯機が洗い終わったと合図を送っているのが聴こえた。
洗濯物を籠へ移し、ベランダへ干し始めた。
私はこのような面倒な作業が嫌いで、早く終わるように、とだけ思いテキパキ動いた。
ほとんどを干し終わった頃に気づいたのだが、スペースが少し足りない。
部屋にもそのような場所はなく、頭を抱えていると、一つの考えが巡った。
身体が自然と動いていた。
男の頭に残りの洗濯物を干すと、私はコーヒーを嗜み、再び読書を始めた。
次の日、目覚めると、男は同じ場所に立っていた。
今日は仕事だったので、急いで身支度を済ませて駅へ駆け出した。
職場の居心地はあまり良くなく、かと言って悪いわけでもなかった。
それでも電車に乗って通勤している際は気分が落ち込んでいた。
職場へ着くと、いつもの椅子へ腰を下ろし、パソコンと共同作業を始めた。
文字や数字を打ち込むだけで、ただ時間が消え去ってゆく。
私にとって、これが仕事だと思ったことはなかった。
仕事と呼ぶにはあまりに単純で、退屈で、価値を持っていなかったからだった。
昼休みになり食べ物を口に含んでも味はしないが、咀嚼を繰り返す。
食事で得られるものよりも、食べる動作によって消費されるものの方が多く感じられるほど、それは私にとって無意味な行為だった。
また仕事へ戻ると、今度は共同作業に睡魔も加わっていた。
そいつは足を引っ張るばかりで、邪魔になるばかりだった。
時計を見れば19時を指している。
鞄を肩に担ぎ職場を去ると、スーパーで惣菜を買い、家へ帰った。
部屋には相変わらず男がいた。
頭の上の洗濯物を片付けるのを忘れていたので、慌ててたたむ。
最後の一つを棚へ入れて男の方を見ると、昨日より少しだけ動いているような、そんな気がした。
私はこの生活に嫌気が差していた。
同じことを繰り返し、目的と手段が逆転しているような気さえしていた。
私は男の前に立ち、ネクタイを外した。
「今日も、何も終わらなかった」
返事はない。
「終わってないのに、帰ってきた」
言葉はそこで途切れた。
私は、そのままベッドに倒れこみ、眠りについた。
翌朝もベランダで洗濯物を干し、干しきれなかった分は男の頭へ乗せた。
今日は有給を使ったのでやることがなく、家でダラダラ過ごすことにした。
本を取りに行く途中、男の前を通りかかったので挨拶をした。
「おはよう。いい朝だね」
「今日は有給を取ったから休みなんだ」
返事はなかった。
ソファーに座ると部屋の暑さに気が付いた。
真夏なだけあって、日差しも激しく、湿気も嫌なぐらいに纏わりついてきた。
冷房も日影もない部屋を見回していると、男の影が目に入った。
私はその影に座り込み、本を開いた。
暑さが和らいだので集中して読み進めていくと、影が少し左へズレていたので、入りなおすとページを捲る。
黙々と読んでいると、あっという間に終わってしまったので、外へ行くことにした。
河川敷を散歩していると、たまたま会った友人に声を掛けられた。
「相変わらず部屋にこもってんのか?」
耳に響く高い声でそう言うので、無視しようか悩んだが、ちゃんと返事をすることにした。
「まあね。干す場所が一つ増えただけで、特に変わらないよ」
「なんだそれ」
友人は笑った。
脚が疲れたので家へ戻ると、男が立っている。
「散歩に行ったんだけど、たまたま友人に会ったよ」
「相変わらず嫌味な奴だった」
窓辺が暗くなっているのが見えたので、夕食を済ませて、寝室で仰向けになった。
私はすぐに目を開けていられなくなり、また朝が迎えに来た。
目を覚ますと、変わらず部屋には柱が立っていた。
部屋に柱が立っている なんば @tesu451
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