Iris Out ―静寂の裁定者―

桃神かぐら

第1話 静寂の端(はし)

 冬の光は、ガラス越しに見ても冷たい。


 曇りガラスを透かして差し込む午前の光は、裁判所の廊下の空気から色を奪い、壁に掛けられた時計の針だけをやけにくっきりと浮かび上がらせていた。


 ──東京地方裁判所・○号法廷。


 開廷五分前。


 傍聴席のざわめきは、まだ本気になっていない。コートを畳む音と、スマートフォンを確認する小さなタップ音。報道カメラのレンズは、一応前方の被告人席を向いているが、誰もまだシャッターを切ってはいなかった。


 この事件は、世間的には“そこそこ”の注目度だ。


 高級外車でのひき逃げ。被害者は幼い子どもを連れた母親で、母親が死亡。子どもは重傷。運転していた男は、都内に複数の飲食店を抱える中小企業の社長で、テレビの情報番組にも時折出ていた。


 報道が飛びつきやすい条件が揃っていた。


 だが、ここはもう、テレビ画面の中ではない。

 ここに残されているのは、名前と年月日と、整えられた言葉だけだ。


 神代友輝かみしろゆうきは、弁護人席に静かに座っていた。


 薄いグレーのスーツ。よく手入れされた黒い革靴。ネクタイは落ち着いた紺。派手さはない。だが、ネクタイピンと時計の小さな金属の光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。


 顔立ちは、どこにでもいそうな「少し線の細い男」だった。

 だが、その目だけは、鏡のように澄んでいる。


 黒目と白目の境界が、妙にはっきりしている。

 光を受けると、虹彩アイリスの輪郭が、細く、固く、縁取られる。


 神代は、手元のファイルを一度閉じた。


 書面は、十分に頭に入っている。

 ここから先必要なのは、言葉を読み上げることではない。

 言葉を、どの順番で、どの強度で置いていくかだ。


 「……」


 傍聴席の最前列。

 被害者の遺族席には、黒い服を着た女性が座っていた。肩を落とし、手を固く握りしめている。目の下のくまは深い。


 彼女の隣には、中年の男性。

 被害者の父親だろう。唇を噛み、前を睨んでいる。


 その視線の先には、被告人席。


 そこに座る男──有沢ありさわは、どこか現実感のない顔で、前方の空間を見ていた。


 痩せてはいない。高価なスーツも、まだ似合っている。

 だが、目だけが落ち窪み、焦点が合っていない。


 神代は、その横顔を一瞬だけ見た。


 淡い香水の匂い。

 高い店で買ったであろうコートの生地の光沢。


 数か月前の――逮捕直後の取り調べ室での有沢の姿が、頭の中に浮かぶ。


 虚勢と、開き直りと、「自分は悪くない」と叫びたそうな顔。


(変わったな)


 人間は、時間で変わる。

 逮捕、勾留、起訴。

 名前が記事になり、ネットに晒され、見知らぬ誰かの怒りや憎しみの対象になる。


 それでも、法律は、その人間にも“手続き”を用意する。


 裁判所の扉が開いた。


「──全員、起立」


 書記官の声が、薄く響く。

 空気が一段、締まった。


 裁判官が入廷する。

 傍聴席のざわめきが、すっと引いていく。


    ◇ ◇ ◇


 神代にとって、法廷は“戦場”ではなかった。


 ここは、感情をぶつけ合う場所ではない。

 怒りや悲しみは、既に別の場所で溢れている。


 法廷で扱うのは、ただ“言葉”と“記録”だ。


 裁判長が手続きの確認を終え、検察官が冒頭陳述を読み上げる。

 神代は静かにそれを聞き、必要な箇所だけを固くメモしていく。


 論点は、ひとつではない。


 有沢が「酒を飲んでいたかどうか」。

 「飲んでいたなら、どの程度か」。

 「ひき逃げの故意があったか」。

 「救護義務違反の認識はどこまでか」。


 被害の重大さに比べれば、些末に見える議論だ。

 だが、法律の世界では、細部が「罪名と量刑」を決める。


 そして、その細部を詰めるのが、神代の仕事だった。


「弁護人。」


 裁判長の声が飛ぶ。


「本件事実関係についての意見を述べてください。」


「はい。」


 神代は立ち上がった。

 声は柔らかく、しかしよく通る。


「弁護人、神代友輝です。

 本件について、弁護人は、起訴状記載の事実のうち、“飲酒の有無”および“救護義務違反の認識”に関しては争いません。」


 傍聴席が、わずかにざわめく。


 争わない。

 つまり、有沢が酒を飲んでいたことも、ひき逃げをしたことも、認めるということだ。


 だが、神代は間髪を入れず続けた。


「ただし、“量刑判断において考慮されるべき事情”については、詳細な主張を行います。」


 裁判長の目が、わずかに細くなる。


「具体的には。」


「被告人の事故後の行動、被害者遺族への対応、ならびに、被告人自身の生い立ちと、事故に至るまでの生活状況です。」


 有沢は、視線を落としていた。

 その指が、膝の上で小さく震えているのを、神代は横目で見た。


 ここで、弁護人が何を言うかによって、傍聴席の受け止め方は変わる。

 「被告人を擁護している」と感じさせれば、遺族はさらに傷つくだろう。


 だから、神代は言葉を選ぶ。


「弁護人は、被告人の行為が重大な結果を招いたことについて、決して軽視していません。

 被害者の方の命は戻らない。ご遺族の悲しみも、消えることはない。」


 遺族席の母親の肩が、小さく震えた。


 神代は、その震えを真正面から見ない。

 見てしまえば、言葉の軌道が狂う。


「ただ、その上で──本件が、“社会全体の問題”でもあることを、裁判所には踏まえていただきたいのです。」


 裁判官が、わずかに首を傾げる。


「社会全体の問題、とは。」


「飲酒運転を許容する空気。

 深夜まで労働を強いる業務慣行。

 “成功”を追い続けた先に、“無理を重ねることが当たり前になる”社会。」


 一瞬だけ、傍聴席の視線が神代に集中する。


「本件で裁かれるのは、有沢被告人ただ一人です。

 しかし、彼ひとりが、突然この夜に現れたわけではない。

 彼をここに立たせた背景には、いくつもの構造が存在します。」


 それは、責任転嫁ではない。

 ただ、事実を示しているだけだ。


 神代は、淡々と続ける。


「被告人は、逃げました。

 救護義務を果たさなかった。

 しかし、事故直後の心理状態、アルコールの影響、その場に居合わせた周囲の人間の対応。

 “なぜ逃げたか”を、ただ“臆病だったから”と片付けていいとは、弁護人は考えません。」


 裁判所の壁は、感情を吸い込まない。

 だからこそ、ここでは言葉の形だけが残る。


「弁護人の最終的な求刑意見は、次回弁論期日において述べます。

 本日は、まず、被告人がどのような人生を歩んできたかを、証人尋問を通じて確認させていただきたい。」


 神代は、静かに頭を下げた。


 法廷に、短い沈黙が落ちる。


 裁判長が、わずかなため息を飲み込むようにして頷いた。


「分かりました。

 では、本日の証人を入廷させます。」


 扉が再び開き、証人が入ってくる。


 被告人の元妻。

 子どもの頃から有沢を知る幼なじみ。

 彼の会社の従業員。


 それぞれの口から語られるのは、「良い面」と「悪い面」が混じり合った、ひとりの人間の断片だ。


 神代は、それを淡々と拾い上げていく。

 決して、被害者の存在を消さないように。

 しかし、被告人だけを“記号”にしないように。


 ──この男は、裁かれる。

 それは揺るがない。


 だが、それでも、彼にも“人間としての輪郭”はある。


 その輪郭を、完全に削ぎ落としてしまうことには、神代は抵抗があった。


 それは、彼の“正義感”ではない。

 ただ、“仕事の流儀”だった。


    ◇ ◇ ◇


 午前の期日は、想定通りの時間で終わった。


 法廷を出ると、廊下には、既に次の事件の関係者たちが並んでいる。

 弁護士、検察官、被告人、家族、記者。


 人の出入りは多いが、音は薄い。


 神代は手帳を閉じ、事務所の事務員に簡単な指示を出す。


「次回期日の準備、証人のスケジュール調整をお願いします。

 あと、社会面での報道の切り抜きも、いくつか集めておいてください。」


「社会面、ですか?」


「はい。ひき逃げ・飲酒運転関連の記事を幅広く。

 世間がどう受け止めているかは、量刑判断に影響します。」


「分かりました。」


 事務員が去っていく。

 神代は、コートの襟を立てながら階段を降りた。


 裁判所の外は、まだ昼前の光だ。

 しかし、冬の空気はすでに夕方の気配を含んでいる。


 歩道には、報道関係者が数人。

 有沢の家族らしき姿を見つけて、遠巻きにカメラを構えている。


 神代は、そのカメラのレンズから距離を取るように歩いた。


 この事件で、自分が前に出るつもりはなかった。

 被告人の顔と名前だけで充分に“物語”が作られてしまう世界で、弁護人の名前は、邪魔にしかならないこともある。


 信号機の前で立ち止まる。


 隣に立ったサラリーマンが、スマートフォンでニュースをスクロールしていた。

 画面の一部が、視界に入る。


《贈収賄疑惑の○○代議士、自宅で急死。病死とみられる》


 神代は、特に興味を示すでもなく、その見出しを読み流した。


 大きく騒がれるだろう。

 数日はワイドショーのネタになる。


 その後は、忘れられる。


 ──多くの死が、そうであるように。


 信号が青に変わる。

 人の波が、横断歩道を渡っていく。


 神代も、その流れに乗った。


    ◇ ◇ ◇


 事務所に戻る前に、彼には一件のアポイントメントがあった。


 場所は、裁判所から徒歩十分ほどの、古いビルの二階。

 雑居ビルの一室を使ったNPO法人の相談窓口だった。


 「無料法律相談」と書かれたポスターが、階段の踊り場に貼られている。


 神代は、特定の団体に肩入れをするタイプではない。

 だが、“制度の隙間に落ちた人たち”を見過ごすのも、好きではなかった。


 ドアを開けると、狭い受付があり、若い職員が頭を下げた。


「神代先生、いつもありがとうございます。」


「こちらこそ。今日のご相談は。」


「三件です。

 生活保護の不支給の件が一件、DVの保護命令が一件、あとは……」


 受付の声が、少しだけ濁る。


「……“刑務所から出てきたけれど仕事がない”という方です。」


「分かりました。」


 神代は頷き、相談室のドアをノックした。


 一件目。

 不支給になった生活保護。

 窓口の対応に問題があるケースだった。

 必要な書類と手続きについて、淡々と説明し、行政不服申立ての可能性を示す。


 二件目。

 配偶者からの暴力。

 既に警察には通報済みだが、相手が「謝罪してきた」ことで、被害者が揺らいでいる。


「謝ってくれると、信じたくなりますよね。」


 神代は、決してそれを否定しない。


「でも、手続きは手続きです。

 謝罪と、暴力の事実は別です。

 “守られるための仕組み”を、一度止めてしまうと、次がいつになるか分からない。」


 依頼者の女性は、涙を拭きながら頷いた。


 三件目。


 相談室の椅子に座っていた男は、痩せていた。

 頬がこけ、手の甲には古い傷跡がいくつかある。


 元受刑者。

 窃盗と覚醒剤の前科があるらしい。


「出てきたはいいんすけどね。」


 男は、どこか諦めた笑い方をした。


「どこ行っても、“前科者はちょっと”って顔されるんですよ。

 面接までは行くけど、その先が。」


「刑務所での職業訓練などは。」


「フォークリフトの資格は取りました。

 でも、フォークリフトの仕事って、だいたい“過去に事故起こしてないやつ”が条件なんですよ。」


「なるほど。」


 神代は、メモを取りながら相槌を打つ。


「ハローワークには行ってますか。」


「行ってます。紹介状も何枚ももらってます。

 でも、“元服役者で”って言うと、だいたい表情が変わるんですよね。」


 それは、神代も知っている現実だった。


「それでも、行き続けるしかないのが、制度です。」


 神代は、淡々と言う。


「ただ、“ここ”で相談したことがある、という事実は、あなたにとっての“証拠”になります。

 “やるべきことをやっている人間だ”と示すための。」


 男は、少しだけ顔を上げた。


「……先生は、信じてくれるんですか。」


「何を、ですか。」


「俺が、もう盗まないって。

 薬もやらないって。」


 神代は、少しだけ目を閉じてから答えた。


「私は、あなたの“言葉”だけを信じることはしません。

 でも、“行動”は信じます。

 今日ここに来て、ここで話しているという行動は、十分な意味があります。」


 それは、慰めではない。

 事実の確認だった。


「……そんなもん、ですかね。」


「そんなものです。

 でも、“そんなもの”が、積み重なると、裁判所の判断を変えることがあります。」


 元受刑者の男は、しばらく黙ってから、小さく頭を下げた。


「……分かりました。

 もうちょっと、やってみます。」


「ええ。」


 面談が終わり、男が相談室を出て行く。


 その背中を見送りながら、神代は、ふと窓の外に目を向けた。


 冬の空は、低く、重い。

 雲の切れ間から、わずかな光が落ちてくる。


(ほんとうに、やってみるだろうか。)


 そう問いかける自分を、神代はひどく冷静に観察していた。


 人は変わる。

 変わらない人間もいる。


 そこに、自分の感情を混ぜないこと。

 それが、彼の“仕事の姿勢”だった。


    ◇ ◇ ◇


 相談窓口を出たのは、午後三時過ぎだった。


 事務所へ戻るには、少し時間がある。

 神代は、ビルの前の自販機でホットコーヒーを買い、歩道の端に立って缶を開けた。


 向かいのビルの壁面に、大型ディスプレイが設置されている。

 ニュース番組が街頭用のダイジェストを流していた。


《反社会的勢力関係者の急死相次ぐ 警察は“関連性なし”》


《贈収賄疑惑の代議士、自宅で死亡 持病の悪化か》


《不起訴処分となった強制わいせつ容疑者、今度は自宅で心筋梗塞》


 テロップが、静かに流れていく。

 通行人の何人かが立ち止まり、画面を見上げる。


「最近、“バチが当たった”みたいなニュース多くない?」


 若い女性の声が、耳に入った。

 隣を歩いていた友人らしき女性が笑う。


「ほんとそれ。

 “天罰”とか言い出す人もいるよね。」


「まあ、被害者からしたら、“ざまあみろ”って感じだろうけどさ。」


「でも、怖くない? なんか。

 犯罪者だけがバタバタ死んでいくとか。」


「マンガみたいだよね。」


 マンガみたい──。


 その言葉は、軽い。

 だが、その軽さの裏側にある“不気味さ”を、神代はよく知っていた。


 缶コーヒーを一口飲む。

 熱は、舌の上を通り過ぎ、喉の奥に落ちていく。


 そのときだった。


 視界の端で、何かが動いた。


 斜め前方。

 横断歩道の手前に、スーツ姿の男が立っていた。


 年の頃は四十代半ば。

 高級な腕時計。

 やや太り気味の体型。

 顔には、どこかで見たことのあるような“自信”が貼り付いている。


(……)


 見覚えがある。


 先月、テレビで見た。

 暴力団フロント企業への融資疑惑で名前が出ていた地方銀行の支店長だった男。


 続報はなかった。

 その手の案件には、よくあることだ。


 調査中。

 コメントは差し控える。

 捜査当局は慎重に──。


 そして、いつの間にか、別のニュースに上書きされていく。


 男はスマートフォンを握り、イアホンを耳に差し込んでいた。

 音楽か、通話か。

 顔には、退屈そうな、しかしどこか油断のない表情。


 神代の視線と、男の視線が、一瞬だけ交差した。


 その瞬間。


 時間が、わずかに伸びたような感覚があった。


 周囲の音が、遠のく。

 車の走行音も、人の話し声も、街頭スクリーンのニュースの音声も。


 色だけが、少しだけ淡くなる。


 男の虹彩に、自分の姿が小さく映っているのが分かる。

 その反射の中で、神代は、ごくわずかに目を細めた。


 ──アイリス。


 虹彩アイリスは、光を取り込む器官だ。

 しかし、同時に、“世界との境界”でもある。


 神代の声は、誰にも聞こえない程度の、かすかな囁きだった。


「……お疲れさまでした。」


 それだけ。


 謝罪も、怒りも、断罪も、そこにはない。

 ただ、ひとつの“終わり”を告げるような、静かな挨拶。


 信号が青に変わる。

 男は、一歩、横断歩道に足を踏み出した。


 その足が、ほんの一瞬、躓いたように見えた。


 膝が折れる。

 身体が前のめりに倒れかける。

 しかし、周囲の人間には、それはただの“つまずき”にしか見えない。


 神代は、目を逸らした。


 振り返らない。


 背後で、誰かの悲鳴が上がる。


「えっ──ちょっと、大丈夫ですか!?」


「救急車、呼んで!」


 人々が集まり始める。

 誰かが倒れた。

 意識がない。

 呼吸が──。


 そして、誰かが通報をする。

 救急車が来る。

 警察官が来る。


 その一連の流れは、神代の頭の中で、既に“想定される映像”として流れていた。


 まるで、何度も見てきた映画のシーンのように。


 缶コーヒーは、まだ半分ほど温かかった。


 神代は、それを飲み干し、空き缶を近くのゴミ箱に捨てる。


 ポケットからスマートフォンを取り出し、スケジュール確認アプリを開いた。


 今日中に目を通すべき書面が、いくつも並んでいる。


 それを見て、彼は静かに呟いた。


「……急がないと。」


 背後で鳴り始めたサイレンの音は、彼の歩みを止めなかった。


    ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 警視庁本庁舎・捜査第一課。


「……またですか。」


 氷川真衣ひかわまいは、配られた資料の束をめくりながら、眉を寄せた。


 タイトルには、《最近の不審死案件の一覧》(参考資料)とある。


 年齢、性別、職業、死亡日時、死因。

 どの項目も、形式としては整っている。


 ただ──一覧にされたことで、ある種の偏りが浮かび上がっていた。


「“暴力団関係者”“贈収賄疑惑の議員”“不起訴になった性犯罪容疑者”……。」


 氷川は、資料を指で辿りながら呟く。


「全部、“どこかで名前を見たことがある”人たちですね。」


 隣の席で、若い刑事が苦笑した。


「“バチが当たった”ってやつですかね。」


「バチ、ね。」


 氷川は、短く息を吐いた。


 部屋の前方。

 管理官席の真宮秋也まみやあきやが、別の資料をめくっている。


「統計で見れば、“有意な偏り”とまでは言えません。」


 真宮は、柔らかい声でそう言った。


「ただ、“現場感覚として気持ち悪い”という感覚は、共有しておいたほうがいいでしょう。」


「事件性は。」


「今のところ、いずれも“なし”です。

 解剖結果も、病歴も、現場状況も、“誰かの手が入った痕跡はない”と。」


「じゃあ、“偶然”ですか。」


 氷川の問いに、真宮は少しだけ目を細めた。


「“偶然”という言葉は便利です。

 説明できないものを、“偶然”と呼んでしまえる。」


 氷川は、その言い方に、僅かな違和感を覚えた。


「では、管理官はどうお考えなんですか。」


「私は、“今の時点では説明できない”と考えています。」


 それは、どこまでも慎重な言い方だった。


 決して、“何かがある”とも言わない。

 “何もない”とも言わない。


「ただ、“説明できないものが積み上がっていくとき”は、何かの兆候である可能性が高い。」


 真宮は、資料の束を指先で揃えた。


「だから、記録だけはしておきましょう。

 感想や噂話ではなく、数値と事実として。」


 氷川は、その横顔を見ながら思う。


(この人も、“全部を見てしまっている”わけではない。)


 真宮秋也は、決して超能力者ではない。

 彼が見ているのは、あくまで“紙と数字”だ。


 けれど、その数字の裏にある“人間の動き”を、誰より冷静に嗅ぎ取る。


 氷川は、資料を閉じた。


(……どこかで、道が交わるかもしれない。)


 そんな予感だけが、胸の奥に、小さく引っかかった。


    ◇ ◇ ◇


 夜。

 神代友輝の事務所。


 窓の外には、ビルの灯りが点々と浮かんでいる。

 机の上には、いくつものファイルと判例集が積まれていた。


 デスクライトの光が、紙の白さを際立たせる。


 神代は、ネクタイを緩め、上着を椅子の背に掛けていた。

 シャツの袖を肘までまくり、ペンを走らせる。


 有沢の事件の量刑資料。

 生活保護不支給の異議申立書。

 DV保護命令の申立書案。


 どれも、“誰かの生活の端”に関わる紙だ。


 彼は、一枚一枚、淡々と目を通していく。


 ふと、机の隅の小さなフレームに目が行った。


 そこには、陶器の小皿の写真が収められている。


 少し歪んだ丸。

 釉薬の色は、夜明け前の空のような薄い青。


 写真を撮ったのは、数か月前だった。


 知人の工房に遊びに行ったとき、ひとつだけ自分で手びねりしたものだ。

 焼き上がったそれは、正直言って、出来がいいとは言えない。


 だが、神代は、それを気に入っていた。


 「……」


 ペン先を止め、彼は静かに目を閉じる。


 今日一日の映像が、頭の中で逆再生される。


 法廷。

 相談室。

 街頭ビジョン。

 横断歩道。

 倒れた男。


 救急車のサイレン。

 通行人のざわめき。

 ニュースのテロップ。


 ひとつひとつが、“仕事とは直接関係のない映像”として脳裏に残っている。


(私は、正義ではない。)


 それは、自己弁護でも、偽悪でもなかった。


(私は、ただ、少しだけ静寂を増やしているだけだ。)


 騒がしい死。

 騒がしい犯罪。

 騒がしい怒号。


 それらが少しずつ減れば、誰かが少し眠りやすくなるかもしれない。


 その程度の、ささやかな願い。


 ペンを置き、彼は窓の外を見た。


 ビル群の灯りの中で、ひとつだけ、パッと照明が消えるのが見えた。


 オフィスの灯りかもしれない。

 家庭の灯りかもしれない。


 そこに、意味はない。


 ただ、「ひとつの光が消えた」という事実だけがある。


 神代は、小さく呟いた。


「……おやすみなさい。」


 誰に向けた言葉かは、自分でも分からなかった。


 ただ、冬の夜の空気は、その言葉を吸い込み、外の冷たい暗闇に溶かしていく。


 世界は、今日も回る。


 誰かが裁かれ、誰かが処分され、誰かが忘れられる。


 その隙間で、静かに終わらされる命があることを、ほとんどの人間は知らない。


 知る必要もない。


 ──そういう形で、世界は少しずつ、音を薄くしていく。


 神代友輝は、再びペンを取り、紙の上に戻った。


 やるべき仕事は、まだ山ほどあった。

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Iris Out ―静寂の裁定者― 桃神かぐら @Kaguramomokami

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