ルーメンフォール:物語の始まり

ユメフェル

第1章:「私」「君」それとも「私たち」

周囲は、完全な廃墟と化していた。

空は低く垂れこめ、幾重にも重なった暗雲が世界そのものの息を止めているかのようだった。雨は容赦なく降り注ぎ、地面や瓦礫、原形を留めないほど崩れ落ちた建物の残骸に激しく叩きつけられている。通りは浅い水たまりへと変わり、砕けたコンクリートの破片、割れたガラス、そして深紅に染まった水がそこかしこに散乱していた。


「……いや……いや……」


その声は、止むことのない豪雨にほとんどかき消されていた。


血の混じった水たまりの中央で、誰かが微動だにせず座り込んでいる。身体は激しく震え、呼吸は乱れ、まるで肺がうまく機能していないかのように荒い息を吐いていた。指は自分の太ももに深く食い込み、白くなるほど強く握りしめられている。うなだれた頭からは、雨に濡れた髪が顔に張り付き、水と、それよりも濃い何かが混ざり合いながら絶え間なく流れ落ちていた。


その時――

水たまりの底から、白い影が浮かび上がり始めた。


ゆっくりと。

静かに。

そして、恐ろしいほどに。


その姿は曖昧で、生き物の形を無理やり与えられた霧のようだった。足は決して地面に触れず――いや、正確には、水面に一切の痕跡を残していなかった。彼らは浮遊し、宙に留まり、この世界の法則など最初から存在しないかのようだった。白い影たちは、座り込む人物から数歩離れた場所で止まり……そして、ゆっくりとこちらを向いた。


ごくり、と喉を鳴らす。


全身が、さらに激しく震え出す。寒さでも、雨のせいでもない。胸を締め付ける、純粋な恐怖によって。太ももの傍らには、水に半ば沈んだ拳銃が横たわっていた。その金属の表面には、色を失った空からの微かな光が反射している。


――手が、動いた。


とても、ゆっくりと。


震える指が、ついに銃のグリップを掴み、引き寄せた。わずかに俯き、肩は不安定な呼吸に合わせて上下する。銃口が持ち上げられる――白い影たちに向けてではなく、自分自身の頭へと。


呼吸が、喉で詰まる。


残されたわずかな力と感情を振り絞り、彼らは叫んだ。

それは絶望と恐怖、そして諦めに満ちた悲鳴――

直後、銃声が鳴り響き、雨と沈黙の両方を切り裂いた。


身体は前のめりに崩れ落ち、震える水の中へと倒れ込む。白い影たちは動かず、すべてが再び静まり返るまで、ただ見つめ続けていた。


――エリザベスは、はっと目を覚ました。


彼女は勢いよく身を起こし、荒い息を繰り返す。胸は激しく上下し、背中には部屋の壁が押し当てられていた――冷たく、硬く、夢の残滓とは思えないほど現実的な感触。手を顔へと伸ばすと、指先が小刻みに震えている。まるで、まだ雨や血の感触、銃声の反響が残っているかのようだった。


「……なに……今の……?」


深く息を吸い込み、必死に気持ちを落ち着かせようとする。しかし、あの光景は執拗に脳裏に張り付き、あまりにも鮮明で、あまりにも具体的だった。不安が胸の奥に広がっていく。思考の中で、ただ一つの問いだけが、何度も何度も繰り返された。


――あれは、本当にただの夢だったのか……?

それとも、未来の光景……?


夢と呼ぶには、あまりにも現実的すぎた。

無視するには、あまりにも残酷すぎた。


激しく巡る思考は、突然、扉の向こうから響いた大きな声によって遮られる。


「お姉ちゃん! もう起きて! 遅れちゃうよ!」


エリザベスが返事をするよりも早く、彼女の部屋の扉が乱暴に開け放たれた。

迷いなく中へ入ってきたのは、青い髪の少女だった。日に焼けた肌と、鋭い紫色の瞳がひときわ目を引く。表情にははっきりと苛立ちが浮かび、今しがた押し開けた扉を片手で掴んだままだった。


「はぁ! やっぱり、いつも起きるの遅いよね!」


どこか投げやりな口調だった。同じ言葉を何度も何度も繰り返すことに、すでにうんざりしているかのように。


エリザベスは素早く着替え、機械的な動きで髪を整える。まるで、思考を伴わずに身体だけが勝手に動いているかのようだった。

雨、血に染まった水たまり、そして銃声の反響――その映像はまだ頭の中に残り、決して消えない染みのようにまとわりついていた。


ヘレナの後を追って家を出る前に、エリザベスは一瞬、立ち止まった。


最後にもう一度、リビングへと視線を向ける。

明かりはまだ点いており、壁や整然と並んだ家具を温かく照らしていた。あまりにも穏やかで、あまりにも平和――つい先ほど眠りの中で見た光景とは、あまりにも対照的だった。

唇の端が、わずかに持ち上がる。ほとんど見えないほどの、かすかな微笑み。


エリザベスは、電気を消した。


カチッ。


部屋は闇に沈む。

そして彼女は、ほんの小さな音さえこの壊れそうな静寂を壊してしまうのを恐れるかのように、そっと扉を閉めた。


外では、すでにヘレナが待っていた。

エリザベスが近づくと、ヘレナは振り返り、満面の笑みを浮かべながら背後の建物を見渡す。


「へぇ〜」


軽い調子で、満足げに言う。


「この角度から見ると、こんなに大きな家だったんだね! 予想外!」


いつもの自信に満ちた様子で腰に手を当て、顎を上げると、それ以上の返事を求めることもなく、くるりと背を向けて歩き出した。


エリザベスは小さく息を吐き、その後を追う。


二人の足音は自然と揃っていく。だが、エリザベスの思考だけが、はるか後方に取り残されていた。

あの夢が何度も頭の中で再生され、意識の隅々までかき乱していく。一方で、ヘレナは話し続けていた。些細なこと、不満、思いついたことを次々と。

かつては心地よかったその声も、今ではエリザベスの絡み合った思考の中で、ただの雑音へと溶けていく。


道のりは長かった。

時間が過ぎるにつれ、周囲は次第に静まり返り、見覚えのない景色へと変わっていく。建物は消え、道は細くなり、やがて――人目から隠された、ひっそりとした場所へと辿り着いた。


ヘレナは、苔と雑草に覆われた洞窟の壁の前で立ち止まった。眉をひそめると、露骨に嫌そうな表情で手を伸ばし、その表面に触れる。


「うわ……服、絶対汚れるじゃん……」


小さく呟くが、その動きはそこで止まらなかった。

ヘレナは手のひらを、自然の表面の下に巧妙に隠された検知装置へとずらす。肌が触れた瞬間、光のラインが走り、洞窟の壁を完璧な精度で切り裂いた。


ゆっくりと、扉が開く。


ヘレナとエリザベスは中へと足を踏み入れた。境界を越えた途端、空気が一変する。

石の壁は鋼鉄の構造物へと置き換わり、足音は冷たい金属の床に鋭く反響した。


ヘレナは再び腰に手を当て、通路の奥にあるエレベーターへと歩いていく。

その唇には得意げな笑みが浮かび、この見知らぬ場所がまるで自分の庭であるかのようだった。


エリザベスは、黙ってその後を追う。


二人はエレベーターに乗り込む。

重い音を立てて扉が閉まり、機械が動き出した。彼女たちを、さらに深い地下へと運んでいく。パネルの数字はゆっくりと変化し、沈黙は次第に重くなり、周囲を圧迫していった。


エレベーターの中で、ヘレナは背中を壁にもたせかける。片脚を気軽に持ち上げ、鋼鉄の壁に預けた。

わずかに首を傾け、待つ。


「……それで……」


ついに、エリザベスが口を開いた。


ヘレナは顔を上げ、鋭さを帯びながらもどこか本気ではない視線を向ける。


「もういいよ、姉さん」


どこか淡々とした口調で、エリザベスの思考がそれ以上広がる前に切り捨てるように言った。


「何が気になってるのかは知らないけど、今は脇に置いといて。大事なのは、全力を尽くすこと。それだけでしょ」


軽い言葉遣いとは裏腹に、そこには無視できない強さがあった。


エリザベスは黙り込む。

視線を落とし、指先をゆっくりと握り締めた。


「……そうね」


小さく、静かに答える。


その時、エレベーターが重苦しい音を立てた。酷使された機械が軋むような低い唸り。床に微かな振動が走り、やがて停止する。

数秒後、エレベーターの扉がゆっくりと開き、冷たい白光に満ちた広い空間が姿を現した。


先に踏み出したのはヘレナだった。足が床に触れると同時に、彼女は露骨に苛立った様子で服の裾を払う。


「はぁ……エレベーターの中、あんなに息苦しいとは思わなかった」


舌打ちをしながら呟き、本気で不快だったことを隠そうともしない。


エリザベスはその後に続き、すぐに正面の壁へと視線を向けた。


そこには、大きなエンブレムが掲げられていた。

鋭く、揺るぎなく、そして圧倒的な威圧感を放つ紋章。

その下には、一行の文字が刻まれており――それを目にしただけで、エリザベスの胸は不思議と重くなった。


A.G.E.N.T

(Agency for Global Eradication of Noxious Entities & Terrors)


室内は静まり返っていた。

整いすぎているほど整然としており、管理され尽くした空気。

ここが、決して普通の施設ではないことを雄弁に物語っていた。


やがて、ヘレナの視線が部屋の一角へと向けられる。


そこには、一人の人物が背筋を伸ばし、落ち着いた姿勢で座っていた。

褐色の肌。肩口を越えて流れる、深い青色の長い髪。

完璧に仕立てられた黒のスーツに、汚れ一つない黒手袋。

手には開かれた一冊の本があり、鋭い紫の瞳が静かに文字を追っている。


――落ち着いている。

あまりにも、落ち着きすぎている。


迷うことなく、ヘレナは大股で近づき、彼の目の前で立ち止まった。

両手を腰に当て、顎を上げる。その態度には、疑いようのない自信が満ちていた。


「あなたがブラックバックモロフ・ヘレンでしょ!」

「ユニットV!」


ヘレナの顔には、満面の笑みが広がる。

意欲に満ち、そして――わずかな傲慢さを孕んだ笑顔だった。


しかし、ヘレンはすぐには反応しなかった。


彼はゆっくりと本を閉じ、立ち上がる。

一言も発することなく、そのまま出口へと歩き出した。

まるで、ヘレナの存在など最初から眼中にないかのように。


だが――部屋を出る直前、彼は足を止めた。


ヘレンは、ふと首を巡らせ、エリザベスを見る。


視線が交わる。

ほんの一瞬。言葉もなく、静かに――しかし、奇妙なほど強く。


その瞬間、エリザベスの胸の奥が微かに揺れた。

見知らぬ感覚。けれど、どこか懐かしい。

まるで、思い出しかけた記憶が、掴む直前で再び沈んでいくような――そんな感覚だった。


背後で、扉が静かに、しかし確かな音を立てて閉じられる。


「ちょ、ちょっと!! それは失礼すぎでしょ!!」


ヘレナは、固く閉ざされた扉に向かって叫ぶ。

苛立ちで顔を赤くしながら。


「あとで同じチームになるんだからね!! この無愛想!!」


文句を言い続けるその声が、再び静まり返った部屋に反響する。


一方、エリザベスはその場に立ち尽くしていた。

視線は、たった今閉じられた扉から離れない。

思考は混乱し、絡まり合っていく。


――あの人……

――あの視線……


以前にも、どこかで会ったことがある気がする。

知っていたはずだと、心が訴えかけてくる。


でも……

どこで……?


突然、スピーカーから声が響き渡り、エリザベスはびくりと肩を震わせた。

同時に、ヘレナも驚いたように身を跳ねさせる。

その声は澄んでいて力強く、無視することなど許さない響きを帯びていた。


「おや、二人とも」


どこか楽しげな声音だった。その明るさは、張り詰めた空気とはあまりにも対照的だ。


「ちょうどいい時間に到着したね! もうすぐ任務が始まる。だから、コア・チャンバーへ向かってくれ」


通信はそこで途切れ、室内は一瞬で静寂に包まれた。

鋼鉄の壁の奥に隠された機械が、微かに唸る音だけが残る。


ヘレナは小さく息を吐いた。

先ほどまでの苛立ちが、まるで嘘だったかのように消え去ったようだ。

彼女は少し顔を背け、腕を組む。


「……ふん。まあ、いいけど」


そう呟いてから、エリザベスへと視線を向ける。


「行くよ、エリザベス姉さん」


エリザベスは答えなかった。

ただ小さく頷き、ヘレナの後ろを歩き出す。

足取りは重く、思考はヘレンの視線と、頭から離れない悪夢に絡め取られたままだった。

冷たい白光が鋼鉄の床に反射する、無言の通路を進んでいく。


やがて、二人は広い部屋へと辿り着いた。


室内の中央には、金属構造物に囲まれた、背の高い透明なカプセルが立っている。

その足元には、足跡のマークが刻まれた円形の表示――

まるで、踏み出されるのを待っているかのように、明確で正確だった。


シューッ……という小さな作動音とともに、カプセルの扉が開く。


ヘレナは迷いなく中へ入った。

エリザベスも続き、カプセル内に立つと、思わず身体に力が入る。

足元の床は冷たく、透明な壁越しに注がれる視線が――

観察され、評価されているかのような、落ち着かない感覚を与えた。


「準備はいい?」


再び、スピーカーから女性の声が響く。

今度は、より近く、より直接的に。


エリザベスは、そっと視線を横へと向けた。


隣のカプセルには、すでにヘレンが立っていた。

その姿勢は揺るがず、表情も相変わらず冷静なまま。

ほんの一瞬、再び視線が交わる。

言葉はなく、仕草もない――ただ、言葉にならない意味を孕んだ沈黙だけがそこにあった。


突然、三人の身体から、青い光が放たれ始める。


最初は淡く、やがて次第に強まり、頭から足先まで包み込んでいった。

エリザベスは前方へと視線を戻す。

胸は激しく脈打ち、感情の嵐の中で自分を保とうと、深く息を吸い込んだ。


そして、ゆっくりと息を吐く。


「……はい」


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