Ep1.嫌な男


「国立部長!言っていた話と違います!」


朝礼を終えて各々が仕事に取り掛かる中、杏華は即座にデスクを離れ、国立歩<くにたち・あゆむ>の元へ来ていた。


国立の方も、彼女がくることは予想できていたらしく、ズカズカと部長室に入ってくるなりそう声を上げた安積杏華<あづみ・きょうか>を目の前にしても顔色ひとつ変えない。


コーヒーの香りが立ち込めるこの部屋で、優雅に読み物をしていたらしい。

杏華には到底楽しめそうにない難し気なタイトルの分厚い書物を閉じると、穏やかな視線を向けてくる。

言葉はなく、ただ目だけでこちらを捉える。

とりあえず落ち着け、と言ったところだろうか。

そんな国立に対して杏華は一層表情を険しくさせた。


国立は普段から物静かで温厚な性格だ。

彼が焦ったり感情を剥き出しにして怒る姿など、この六年間杏華は見たことがない。

優しげな瞳に柔らかな口調。それでいて芯があり、三十五歳という若さですでに部長として勤めて三年になるということも、彼のような男であればおかしくない。


——来年度のチーフの人選に、君の名前を挙げようと思う。


国立にそう告げられたのはつい半月前のことだ。

自分にその意思はあるかと問われ、もちろんだと澄ました顔で言ったものの、本当は心底嬉しくて浮き足立っていたことは記憶に新しい。

ただでさえ仕事人間だった杏華のやる気に、さらに拍車をかけるような話だった。


それなのに——何が転じてアシスタント、つまり前年度と同じ役職止まりになってしまったのか。

この男の悠然とした態度を見ていると、どれだけ内心腹を立てていようと、くってかかる気も失せてしまうのだが、今回ばかりはそうもいかない。

腹を立てているわけではない。杏華は妙に焦燥に駆られていたのだった。


「今年度は私をチーフにしていただけるということでしたよね?それなのにまたアシスタントというのはどういうことですか?」


国立はまだ何も言わずに杏華を見つめたまま。恐らく彼女がまだ言葉を続けることを見据えているのだろう。


「この半月の間に、私がチーフになるのにそぐわないことがあったのでしょうか?」


ここでようやく口を開いた国立は、きっぱりと「そんなことはない」と答えた。

それには内心安堵の息を零しながらも、それならばどうして——と再び口を開きかけたが、それは国立が先に言葉を発したことで制された。


「香港支社から清水という男が戻ってくる。安積が入社した時にはすでに向こうにいたから、直接会ったことはないと思うけど」


国立は静かにそういうと、きちんと整頓されたキャビネットから何やらファイルを取り出し、あるページを開いて杏華へと差し出した。


「清水瑛人、そうフルネームで言えばピンとくるかもしれないね」


国立から手渡されたのは、ビジネス雑誌の一ページを切り抜いたものだった。


『企画部の若きエース、その素顔に迫る』


「…しみず、あきと…」


そこに映った男の顔を見ながら、その名前を繰り返す。

写真からでも滲み出る、自信に満ち溢れたオーラ。

そして国立にピンとくるかもしれないと言われた通り、杏華はこの男の存在を知っていた。

恐らくこの会社で彼の名を知らない者はいないだろう。


経営状況が好ましくなかった香港支社に出向し、たった一年でV字回復へと導いた男——そんな人がいると、飲み会の席で先輩から聞いたことがあった。

しかも極上のイケメンだと。

こっちにいた時は女性社員達の視線の的だったらしい。

確かにこんなドアップの写真でも見劣りしない端正な顔立ちをしているのはわかる。

少しだけ冷たそうな印象を受けるけれど、こういう硬派な男がモテるのは知っている。

その上仕事もできるというのだから。天が二物も与えたということだ。


「…それで、この人と私の今回の件とどう関係が?」


「昨年度はかなり大きく経営方針が変わって人事異動もあった。その結果、五年ぶりに業績低下という結果になってしまった。その結果を聞いて、清水自ら帰国を申し出てね。元々あいつは二課のチーフだったから、そのまま戻って来てもらうことになったんだ」


「私がその清水さんのアシスタントということですか」


国立が「そういうこと」と少し肩をすくめるのに、杏華は盛大にため息を零した。

つまり、この清水という男の帰国のせいで私のチーフへの道が遠のいたということ。

ファイルを握る指先にプルプルと力が込もる。


「そんなすごい人のアシスタントが私に務まるのでしょうか?」


「もちろん。清水も君の素質をすぐに見抜いてくれるはず。あいつは人を見る眼も備わっているから」


「随分と清水さんに入れ込んでるんですね」


「今となっては数少ない同期の一人だからね」


その言葉を聞いて、もうこれ以上は何を言っても無駄だと悟った。

“同期のよしみ”というわけだ。


「今日顔合わせをするから、十三時に第三会議室に来てほしい」


「…かしこまりました」


「まあ、そう気を落とさないで。安積を二度とチーフにしないと言っているわけじゃないんだからさ」


ステップアップだと思って、と付け加えた国立に杏華は何も返す気になれず、そのまま部屋を後にしようと振り返り、取っ手に手をかけた。その瞬間——。


向こう側からもドアを押され、思わず後ろによろめく。

そして目の前に現れた長身の男の顔を見て、杏華は思わず


「清水瑛人…」


そう声に出してしまっていた。


ついさっき写真で見た男が、目の前に立っている。

杏華より頭二つ分は背が高く、目を細めてジロリと見下ろしている。

それは写真で見たよりもずっと厳格なオーラを放っていて、薄い唇の両端はぐっと締まり、こちらを見る目はたいそう冷ややかだ。

写真の中の彼にもどこか冷たい印象を抱いたが、あれでも一応“表向きの顔”だったのだと思った。


「いつまでそうやって進路の妨げを続けるつもりだ?」


「なっ…」


その視線だけで「退け」と言われているようで、体が勝手に後ずさってしまう。


「清水、これから相棒になる相手にそう交戦的になるなって」


「相棒?」


低い声と共に再びジリジリとした視線を落とされ、杏華はまた一歩後ずさる。

「今朝メールで送っただろう?安積杏華さん。彼女がお前のアシスタントチーフだ」


「さっき帰国したばかりでメールなど見ていない」


そう言いながら杏華を通り過ぎ、国立のデスクへ歩み寄る背中を視線で追いかける。

なんとなく出ていくタイミングを失った気がして、ただその場で立ち尽くす。

清水は持っていたビジネスバッグとキャリーケースをデスク脇に置くと、応接用のソファに腰掛けた。


「それに、俺にアシスタントは不要だと話したはずだが?」


「そうは言っても他のチーフにはアシスタントがいるのに清水だけいないっていうのも変な話だろう?それに、彼女は次期チーフ候補だから、清水の元でより一層の戦力として鍛えてほしい」


清水の威圧感のある声と目を前にしても、国立は全く気にせず淡々とそう口にする。

それに対して清水はいささか面倒そうな顔で、嫌味たらしいほど長い脚を組み替えるとため息混じりに零した。


「俺は社員の面倒を見に戻ってきたわけじゃない。会社の経営を立て直すためだ」


「今ここで何を言っても決まったことは変えられないから。それが例え同期の君の意見だとしてもね。だからほら、とりあえず挨拶をして」


威圧感は皆無でも、この清水という男が言い返さない程には国立も強者だ。


「友好的に、ね」


そう付け足したのに、清水はお手上げだというように肩を落とす。

そして空気のように扱われていた杏華の方へ視線を移し、そっと立ち上がると目の前まで歩み寄ってくる。


「…清水瑛人だ。……それにしてもまさかよりによって女のアシスタントとはな。君は何年目だ?」


この男の中で“友好的”とは、と内心沸々と苛立ちが沸き起こってくるのを抑えながら、杏華は極めて控えめに口角を上げた。


「安積杏華と申します。今年で六年目になります」


けれど頑張って上げた口角はすぐに解けることになる。


「先に言っておくが、俺に女として気に入られようと振る舞うだけで仕事は手を抜くようなら用無しだ。きちんとアシスタントの名に恥じないようにしろ」


その傲慢な物言いに、何かの聞き間違いかと杏華は目を白黒させた。


(初対面の人にこんな言い方って、ある……?)


杏華の中で何かがプツリと音を立てた。


「…そんなの、言われなくてもわかってます。女性を卑下するタイプの人のようですね。それなら望むところです。来年度は絶対にチーフになれるよう、あなたを踏み台にさせていただきますから。あまり馬鹿にしないでいただけます?」


まさか杏華が言い返してくるとは思っていなかったのだろう。

清水はそれに対して怒るでも呆れるでもなく、ただ興味深いと言ったように眉を上げた。


「ふうん。なかなか気の強い女だ。初対面で俺にここまで楯突いてきたのは君が初めてだ」


「私のほうこそ、初対面でこんなに馬鹿にされたのは初めてです」


キッと下から睨みつけると、清水は一層面白そうな目で杏華を見下ろした。


「ふっ。いいだろう。君が立派なチーフになれるよう育ててやってもいい」


そう言うと踵を返してソファへ再び腰を下ろした。


「えーっと。今日の十三時の顔合わせはもうなくて大丈夫そうだね?」


国立が少し呆気にとられた様子でそう尋ねるのに、清水は「ああ」と答える。


「何か他に物申しておきたいことがあるなら今ここで済ませろ」


「何もございません。今日はもうお会いしないことを願うばかりです」


杏華はふんと鼻を鳴らしながらそう告げてその場を後にした。

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