第4話 名前を与えない選択
支所の掲示板に、新しい通達が貼られた。
紙ではなく、電子掲示。だが、立ち止まる人は多い。
「探索者技能の仮称付与について」
仮称。
小百合は、その二文字を静かに読んだ。
――名前をつける。
理解のため。共有のため。教育のため。
正しい理由が、いくつも並んでいる。
「香月さん」
研究班の主任が声をかけてきた。
年配で、言葉選びが丁寧な人だ。
「あなたの能力にも、仮の名称を用意しました」
小百合は、視線を上げる。
「必要、ですか」
「現場が混乱しないために」
それも、正しい。
会議室に入ると、モニターに文字が映る。
《環境調律型・非干渉魔法》
説明文が続く。
干渉を最小限に抑え、環境の自律回復を促す――。
「便利な名前ですね」
小百合は、正直に言った。
主任は苦笑する。
「便利であることは、悪くない」
「……でも」
小百合は、椅子に座ったまま、足を揺らす。
「それは、“使い方”の名前です」
主任は、少しだけ考えた。
「違うと?」
「私が、何をしているかじゃない」
言葉を選ぶ。
「私が、何をしないか、です」
沈黙が落ちる。
霧島が、横から口を挟む。
「名前が先に立つと、
現場はその通りに動こうとする」
「……事故の芽になる」
主任は、深く頷いた。
「分かっています」
それでも、続ける。
「だが、名前がなければ、
現場は判断できない」
どちらも、正しい。
小百合は、少し目を伏せた。
「……なら」
小さな声で言う。
「私には、名前を与えないでください」
室内の空気が、変わる。
「前例がありません」
「例外は、もうあります」
分類不能。
その言葉は、今も生きている。
「名前がないと、
私は“使えない”かもしれません」
「それでも?」
「はい」
理由は、単純だった。
名前を持てば、
期待が生まれる。
再現しようとする人が出る。
そのとき、誰かが傷つく。
それは、戻すための魔法ではない。
会議は、結論を持ち帰る形になった。
帰り道、小百合は夕焼けを見上げる。
雲が、ゆっくり形を変えていく。
「怖くないのか」
霧島が聞く。
「……少し」
正直だった。
「でも、分かりやすくなるほうが、もっと怖いです」
霧島は、短く笑った。
「厄介な才能だな」
その言葉は、責めではなかった。
数日後、通達が更新される。
「特定技能の仮称付与を見送る事例あり」
理由は、書かれていない。
現場では、少し困り、
少し安心し、
それぞれが判断するようになった。
低層で不安定が起きたとき、
誰かが言う。
「香月さんを呼ぼう」
それだけ。
名前は、ない。
肩書きも、ない。
けれど、必要なときに呼ばれる。
小百合は、その距離がちょうどいいと思った。
名前を与えない選択。
それは、拒否ではない。
世界を、狭くしないための判断だ。
境界線のこちら側で、
香月小百合は今日も、
何者にもならないまま立っている。
それが、今の彼女の、いちばん強い在り方だった。
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