「香月小百合、探索者になる」

塩塚 和人

第1話 増えた居場所

 朝の教室は、相変わらず少し騒がしい。

 窓際の席に座る香月小百合は、ランドセルから教科書を出しながら、周囲の声をぼんやりと聞いていた。


「昨日さ、駅前のダンジョン前、すごい人だったよ」


「また増えたんでしょ? 探索者」


 その言葉に、小百合はほんの少しだけ指を止める。

 顔には出さない。

 もう、それが癖になっていた。


 ダンジョンが日常の話題になることは、珍しくなくなった。

 ニュースでも、ネットでも、会話の端に当たり前のように出てくる。


 それでも――。


 小百合にとって、あの場所は「話題」ではない。

 今も続いている、別の時間だ。


 放課後。

 学校から直接、支所へ向かう日だった。


「無理しなくていいからね」


 玄関で、母はいつも同じ言葉をかける。

 小百合は、同じように頷く。


「はい。今日は、短い時間だけです」


 支所に着くと、受付の職員がすぐに気づいた。


「あ、小百合ちゃん。今日は第三ダンジョンの低層だよ」


 “探索者”ではなく、“小百合ちゃん”。


 その呼び方が、ここでは定着してしまっている。


 奥の打ち合わせ室には、見慣れない顔があった。

 二十代前半くらいの男女が三人。

 装備は新しく、動きに無駄がない。


「紹介するね。新しく配属された若手チームだ」


 朝倉が言う。


「彼女が……?」


 一人の青年が、小百合を見て言葉を濁す。


「ええ。香月小百合さん。今回の低層安定化の確認をお願いする」


 青年は一瞬、困ったような顔をした。


「……子ども、ですよね?」


 小百合は、何も言わない。

 朝倉が代わりに答える。


「そうだよ。でも、現場では一番安定した判断をする」


 納得しきれない空気が、部屋に残った。


 ダンジョン内部。

 低層は、以前よりも人の気配が増えていた。


「記録、更新されてますね」


 若手の一人が端末を操作しながら言う。


「魔力濃度も安定。問題なさそうです」


 小百合は、歩きながら壁に手をかざした。


 数値には出ない、わずかな引っかかり。

 乱れではないが、積み重なれば歪みになる。


「……少しだけ、立ち止まってもいいですか」


「え? 数値は正常だけど」


 青年が言う。


「今は大丈夫です。でも、このままだと……」


 言葉を探して、小百合は続ける。


「戻りにくくなります」


 若手チームの一人が、首をかしげた。


「戻る、って?」


 小百合は、答えなかった。

 説明しても、伝わらないことがあると知っている。


 代わりに、その場にしゃがみ込み、目を閉じた。


 魔力を、動かさない。

 ただ、感じる。


 通り道が、少しだけ狭くなっている。

 誰かが無理に進み報告し、また次の誰かが同じことをする。


 ――増えたんだ。


 人も、足跡も。


 小百合は、ほんのわずかに魔力を流す。

 広げるのではなく、ほどく。


「……終わりました」


 何も変わらない景色。

 数値も、ほぼ同じ。


「今の、意味ありました?」


 青年が、正直に聞いた。


 小百合は、少し考えてから答える。


「今日は、何も起きません」


 青年は言葉に詰まった。


「それって……」


「いい結果です」


 朝倉が、静かに言った。


 帰還後、若手チームは評価シートを前に悩んでいた。


「成果、なし……?」


「でも、安全は確認された」


「確認、というより……」


 言葉が続かない。


 霧島が、報告書に目を通しながら言った。


「“何も起きない状態を維持した”。それでいい」


 若手の一人が、小百合を見た。


「……あの、失礼なこと聞いていいですか」


「はい」


「どうして、そんなやり方なんですか」


 小百合は、少しだけ目を伏せる。


「ここは……」


 一度、息を吸ってから言った。


「帰る場所だからです」


 理解されたとは思わない。

 でも、否定もされなかった。


 帰り道。

 夕焼けの中、小百合は歩く。


 学校。

 家。

 ダンジョン。


 居場所が、増えた。


 全部を完璧にこなすことはできない。

 でも、どれも手放さなくていい。


 そのことに気づいたとき、胸の奥が少し軽くなった。


 境界線は、まだある。

 けれど、小百合はそのどこにも追い出されていない。


 増えた居場所を、静かに抱えたまま、

 今日も日常へ戻っていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る