鏡のない朝

ラッシュ

第1話

朝が来た。

ぼんやりと目が覚め、また一日が始まった。

重い腰を持ち上げ、いつものようにまず洗面台へ向かい、顔を洗う。

この家の洗面台には鏡がない。洗面台どころか、この家のどこを探しても鏡がない。一日を、自分の姿を見ずに過ごすためだ。


私は自分の顔が嫌いだ。醜いからなのか、理由はわからない。ただ、見ると気分が悪くなる。鏡がないせいか、寝癖が酷くとも、髭が剃り残されていても気づかない。私のそばを横切る人が、妙な視線を私に向けてくるのは、そのせいだろうか。


今日は雲が空を覆い、光が部屋の隅まで届かない。だからといって、外に出かけるわけでもない。私は働いていない。趣味も何もない。したがって、家にいても何一つすることがない。


数年前までは働いていた。しかし父親が死に、その遺産がすべて私に相続された。父親は金をかなり貯め込んでいた。おかげでもう働く必要がない。


だからといって、人として良かったわけではない。

私の父親は、妻に平気で暴力を振るう男だった。父親は、私にもよく暴力を振るおうとした。しかし、そのたびに母親が私を庇った。


母親は強かな人だった。しかし、私と二人きりの時は違った。よく泣きながら、「あんなふうには、頼むからなるな。常に人を思って生きろ」と、私に洗脳をかけるかのように言い聞かせた。


私はその時、父親への怒りも、母親への感謝の気持ちも抱かなかった。それどころか、母親のことを鬱陶しいとさえ思っていた。私は、昔から、ずっとそうだった。


道端に生えている美しい花も、私は何食わぬ顔で踏みにじった。父親が人に誇れる存在でないのと同様に、私自身もそうだった。


もし誰かが、私に人を思う気持ちがあるかと問うなら、私は少しためらいながら「ない」と答えるだろう。

この世のすべてがくだらなく、すべてが私にとってどうでもいいのだ。


私はただ、寝て、起きて、食べてを繰り返す。そしてその生活の中で、自分を変えてくれる何かを望み、ただ待っている受け身な存在だ。


そんなことを考えながら時間を過ごしていたとき、ふと部屋に掛けてあるカレンダーが目に留まった。そこには印がつけてあった。今日は、母親の誕生日だった。


仕方がなく、外へ出かける。幸い、空はぼんやりと曇に覆われている。

私は家を出て、十分ほど歩き、花屋に着いた。


どんな花にしようかと迷っていたが、一輪の花が目に入った。

私は白いガーベラを一本だけ買った。なんとなく、一本で十分な気がした。母親は花が好きでいろんな花を育てていた。その中でも、白いガーベラは母親のお気に入りで、よく私に笑顔で見せていた。


そんなことを思いだしながら、私は墓地に着いた。そして一つの冷たい墓の前に、白いガーベラを供えた。冷たい墓の前に立ち尽くしたまま、私は十年前の日を思い出していた。




まだ子供の頃、私は澤田に、今の考え方を変えるにはどうしたらいいのか聞いてみた。澤田というのは、中学の時の同級生だ。澤田は「日記を書けば、少しはお前の考え方もマシになるんじゃないか?」と答えた。


だが、その一か月後の日に、それは起きた。


学校から帰宅し、家に上がった。

おかしい。いつもは母親が駆けつけてくるのに、今日は違う。靴が残っているため、家にいるのは確かなはずだった。


私はそんな疑問を抱きながら自室に入った。

女が倒れていた。

もう冷たくなっている。


顔を見てみた。母親だった。


机の上には、私の文字が残されていた。なぜそうなったのか考えようとしたが、うまく言葉にならなかった。私はその場に座り、ただ何も感じないまま、光が宿っていたはずの目を見つめながら、時間が過ぎるのを待っていた。


悲しくもなかった。涙すら出なかった。


後になって、父の叫び声を聞いた。

あのとき、父親が見た光景の中にいた私は、一体どんな表情をしていたのだろう。


次の日の朝、学校へ向かう途中で澤田が話しかけてきた。


「おはよう」

「おはよう」

「その、最近調子どうだ?」

「変わらないよ」

「そうか、無理してないよな?」

「別に」

「そうか。まあ、気楽にいけよ。じゃあ」

「ああ」


そのまま、澤田は走っていった。




突然、冷たい風が吹き、私ははっとした。

少し考えすぎたようだ。空がだんだんと暗くなり、肌寒くなってきた。そろそろ帰ろう。


墓地から離れようとしたとき、澤田にばったり会った。


「おお、久しぶり。最近調子はどうだ?」

「悪くはないよ」

「墓地から出てきたけど、墓参りか?」

「そうだな」

「まあ、気楽にいけよ」

「ああ」


澤田は軽く頷き、どこか安心したような顔をしていた。


「亡くなった後も、その人を思いやることは大切だ」


私は返事をすることができなかった。

澤田は「じゃあまたな」と言い、ゆっくりと去っていった。


私はその背中を見送りながら、何も思わず立ち尽くしていた。

風が冷たく吹き、墓地の静けさが周囲を包む。

白いガーベラが揺れる。


私は視線をそこに落とし、またしばらく立っていた。

再び冷たい風が吹いた。


今度こそ、帰ろう。


私はゆっくりと家に帰った。道中、何も考えることができなかった。ただ、さきほどの澤田との会話を反芻していた。


澤田は確かに「思いやる」と口にした。

私が本当に、人に、母親に対して思いやりを持ったのか。


いや、私は何もなく、暇だから墓参りに行ったはずだ。

だが、もし。

もし私が、無意識のうちに誰かを思うことができたのなら。


私は変われたのか。

ずっと待っていた時が、今日この日に来たのか。


私は惹きつけられるように、十年前、母親が冷たくなっていた部屋へ向かった。部屋は埃まみれで、ずいぶんと汚れていた。しかし、部屋の中は何も変わっていなかった。


十年前の今日、母親は冷たい肉片となった。

そして同時に、母親の誕生日であった。

食卓には、昨日と同じ食材が並んでいた。

特別なものは、何一つなかった。



ふと、机の上に、開いたまま放置されていた日記に目を向けた。

それを手に取り、埃を払って最初から読み始める。


中には、私の文字があった。

拙く、感情のない文章が、数ページだけ続いていた。何を書いたのかは、ほとんど覚えていなかった。


最後のページをめくろうとしたとき、指先に違和感を覚えた。

紙の端に、折り目がついている。


そっと広げると、そこには私の字ではないものがあった。

見覚えのある筆跡だった。


――あんなふうにはならないで。

――常に人を思って生きなさい。


短い言葉だった。

それだけで、十分だった。


私は日記を閉じた。

胸の内の何かが、音もなく消えていた。


変われたはずの自分は、最初から存在していなかった。


日記を元の場所に戻し、私は部屋を出た。

廊下を歩きながら、手に何も持っていないことに気づく。

白いガーベラは、もうここにはない。墓地に置いてきたからだ。

それでいいはずだった。

だが、胸の奥に、わずかな違和感が残っていた。

それが何なのか、私は理解できなかった。


洗面台の前に立つ。

引き出しが、わずかに開いていることに気づいた。

こんなところ、使った覚えはない。

中には、使っていない歯ブラシと、埃を被った薄い板があった。

それを裏返すと、割れてはいない鏡だった。

私は、それを元の場所に戻した。

電気を消し、寝室へ向かう。

母親の誕生日は終わった。

感謝も、後悔も、残らなかった。

それでも。

あの白い花を、私は最後まで覚えていた。

そしてまた、いつもの朝を待つ。

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