第4話
第十六章 三点パッケージ――証明は「執筆」で
桜の間。扉が閉まる音が、議場の鐘みたいに短く響いた。支配人が最初に口火を切る。「本件は祝宴保全のための事実確認と合意形成に限ります。録音は式場で行い、外部拡散は禁じます」
親族代表として、父・誠と母・日向子、半藤家の両親、正英、恭子、そして茉莉と俺。椅子の脚が絨毯を撫でる音だけが静かに重なる。
俺は鞄から三つの封筒を出し、テーブルに横一列で置いた。
「順に開けます。結論より過程、噂より手触り。――“結果ではなく、執筆で”証明できます」
一つ目。クリアファイルから、フォルダ一覧のプリントを差し出す。
「茉莉の原稿ツリー。中学三年の“短編_鬼桜.txt”から、大学期の長編プロット、受賞作の稿段階、最新版のv025まで。PC本体と外付けHDD、買い替え時の移行ログで時系列が繋がります。AIアシスタント『Claude』への相談履歴と編集部メールのヘッダ情報も一致。――“盗れる”構造ではなく、“積む”構造です」
支配人が黙って写しを受け取り、控えに回す。
二つ目。俺は屋上見取り図と部活動名簿の写しを重ねた。
「卒業直前の“謝罪”集合。柔道部を中心にした招集の痕跡、録画役の端末ID、裏垢の投稿時刻。十一時三十分、体育館側階段の出入り記録と一致します。叔父が職員室に行く予定だった時間と重なったため、俺が代理で校内にいた。介入は過剰ではなく、危険の除去。ここに当日の保健室記録」
誠が小さく頷く。日向子はハンカチを握りしめた。
三つ目。小型レコーダーから、十秒だけ流す。
『結婚したら夢はやめて、出産に専念してよ』
声は正英のものだ。彼は姿勢を崩さず、ただ目だけを細めた。
「――文脈がある」と正英。
「文脈ごと保存してます。必要なら全編を」俺は淡々と返す。
恭子が台本を叩く。「誤解です。“家族ユニット”でブランドを一つにする話を――」
「その“ユニット”が、茉莉の名義と収益と判断権を奪う仕組みになっている。プリナップ草案の修正履歴に、“創作活動は家計管理下”という文言が差し込まれていた。編集者でもない人間が、いつ、なぜ入れた?」
恭子の視線が泳ぐ。「善意よ。守るため」
「守るために、まず奪わないことだ」
正英が両掌を見せ、調停者を演じる。「世間は複雑を嫌う。シンプルに収めよう、ね?」
「シンプルに。“執筆した人が持つ”。それが原則」俺は言い切った。
支配人が議事を整理する。「確認事項は四点。①著作の帰属は新婦個人、②婚姻に伴う創作の強制停止を求めない、③虚偽の発信を禁じる、④本日の費用は新郎側負担――以上で合意できるか」
俺は最後の封筒を押しやり、赤い線の引かれた一文を示す。「これが抜けるなら、この場では決められない」
沈黙の中で、茉莉が顔を上げた。
「私は書きます。結婚しても書くし、しなくても書きます」
“執筆”という単語が、部屋の温度を一度下げ、そして上げた。正英の微笑は動かない。だが、頬の筋肉だけが遅れて強張る。恭子は視線をテーブルに落とした。
証明は終わった。あとは、署名という“行為”が、どちらの物語に線を引くかだ。
第十七章 言い換えと火消し――「家族ブランド」の罠
沈黙の幕を、半藤正英が最初に押し下げた。椅子の背にもたれ、笑みだけを残したまま声色を変える。
「誤解が積み重なっている。ここは“対立”ではなく“調整”でいきませんか。創作は続けていい。ただ、運用を“家族ブランド”に一本化するだけだ。収益や法務の窓口を家に……いや、ユニットに寄せる。安全のためです」
言い換え――所有を“運用”に、拘束を“安全”に。
大橋恭子がすかさず台本を繰る。「炎上は作品を焼きます。発信は一本化、メッセージは私が監修する。芳名は“家族の顔”として守る。だから、プリナップの文言は誤解よ、“家計管理下”は税務の整理に過ぎないわ」
俺は封筒の複写を恭子の前へ滑らせる。該当箇所には赤線。
「その行は三日前、あなたのアカウントから挿入されてる。編集履歴のタイムスタンプ、式場打合せの直後。さらに“ブランド一本化”の草案、半藤側のフォルダに“KAORU_asset”って名前で保存されてた。資産は資産で、著作は著作。混ぜるのは管理じゃなく、吸収だ」
正英が指を鳴らす仕草で空気を整える。「世間は複雑を嫌う。――だからこそ、シンプルに。“揉めてない”ことにしよう。控えめな一文で出す。『体調不良のため本日の挙式は延期』。費用はこちらが全負担、どう?」
茉莉が小さく首を振る。「延期じゃなくて、判断が要る」
恭子が表情を柔らげて近づく。「茉莉ちゃん、和解ってね、勇気なの。綾ちゃんも勘違いに気づくはず。今は“家のため”に落ち着こう?」
「和解は、私の作品を書き換えない人とするよ」茉莉の声は震えず、低い。
俺は続ける。「証拠は“途中”――いや、執筆の連なりで立ってる。Claudeの相談ログ、編集部往復メール、PCと外付けHDDの時刻、三地点が一致。恭子さんの差し込みや、ユニット化の台本とも噛み合って“誰が何をしたか”が見える。火消しより、線引きだ」
正英は微笑を崩さず、視線だけを鋭くする。「線の話をするなら、こちらにも線がある。招待客、スポンサー、取引先。情報は統制しないと皆が傷つく。――ねえ支配人?」
支配人は首を横に振った。「本室の方針は変えません。事実確認と合意形成のみ。虚偽の公表はお控えください」
恭子が最後の矢を射る。「ならば覚書に“家族ユニットの広報監修”を一行――」
「要らない」茉莉がはっきり遮った。「書くのは私。話すのも私。家族は、私を“代表”にしないで」
正英の頬が一瞬だけ引きつる。言い換えは、もはや効かない。
火消しの水は、紙に染み、赤線だけをより鮮明にした。
第十八章 合意破談――覚書の線
支配人が静かに机を入れ替え、白紙のフォームと黒い万年筆を置いた。「本件は“延期”ではなく“合意による中止”として処理可能です。双方で確認された項目を覚書に落とし込みます」
半藤正英は口角だけで笑い、頷いた。「いいだろう。条件を聞こう」
俺は三点に絞って読み上げる。
「一、費用は新郎側全額負担――会場費、演出、印刷物、ゲスト返礼まで。
二、対外広報は式場定型の一文に限定し、虚偽・名誉毀損の発信を双方禁ずる。
三、茉莉の創作・著作・データ・アカウントへの一切の関与を断ち、預けている素材・原稿・媒体は“原状回復”で即時返却、私的コピーの削除を誓約」
大橋恭子が眉を上げる。「その“原状回復”に、私の加筆分のクレジット放棄まで含むと?」
「加筆は無断だ。放棄じゃない、無効だよ」俺は淡々と言う。「編集履歴も添付する」
正英がペンを転がしながら口を挟む。「第ニ項の“虚偽”の線引きは?」
「事実に基づく一次資料で裏付けられない断言はしない、でいい。こちらは証拠を持っている。そちらは“沈黙”を守れば済む話だ」
父の誠が咳払いした。油の染みた指先で眼鏡を押し上げ、短く頭を下げる。「娘を、商品にしないでくれ。それだけだ」
母の日向子は隣で手を重ね、「茉莉は、茉莉の名前で生きます」と結ぶ。茉莉は頷き、まっすぐ正英を見る。「私の執筆は、誰の条件にもならない」
支配人が条文を清書し、サイン欄を示す。正英はわずかに息を呑み、先にペンを取った。躊躇は数秒、インクの線が紙を走る。恭子も続く。
俺と茉莉、父母が順に署名し、最後に支配人が受領印を捺す。乾いた音が、終わりの印だった。
「大広間にはどう伝えますか」支配人が尋ねる。
「『双方協議の結果、本日の挙式は取りやめ。お詫びと御礼を以て散会』でお願いします」俺は答える。「撮影自粛と返礼の導線も」
戸口の向こうで、恭子が小声で電話に火消しの指示を出し、正英は結び目の緩んだネクタイを握り直した。こちらは封筒を整え、USBを内ポケットに戻す。
終わった――ではなく、切り分けた。茉莉の作品も、名も、ここから先はもう誰の“家族ブランド”にも入らない。俺たちは控室を出る。廊下の空調はひんやりと均一で、紙のインクが乾く匂いだけが、確かな自由の証拠だった。
第十九章 大広間の収拾と、それぞれの帰路
控室の扉が開くと、ホテルマンが歩調を合わせて先導した。大広間のざわめきはまだ浅く波立っている。司会者が台本を胸に抱え直し、支配人と目配せすると、マイクに口を寄せた。
「本日はご臨席まことにありがとうございます。先ほど、両家協議の結果、本日の挙式は“中止”とさせていただく運びとなりました。今後の予定につきましては、式場係員の案内にお従いください。恐れ入りますが、写真・動画の撮影、SNS等での発信はお控えください」
空調の音が一瞬だけ大きく聞こえた。誰かが小さく息を呑み、別の誰かがナフキンをたたむ。拍手は起きない。けれど怒号も起きない。スタッフが段取りよく動き、祝電台の前にパーティションが立つ。受付卓ではご香典と引き出物の精算振替が淡々と進み、ゲストは誘導票の色で順に待機室へ流れていった。
俺――赤松弘樹は、茉莉、父の誠、母の日向子と並んで一礼した。言葉は足さない。沈黙は逃げではなく、合意した「境界線」の履行だ。最前列の親族席で、伯母が目だけで「あとで電話ね」と合図を送る。うなずき返すと、ホテルマンが小声で説明を添えた。「返礼品はそのままお持ち帰りいただきます。ご移動はこちらへ」
半藤正英は遠巻きの親族に囲まれ、うつむきがちにネクタイをいじっていた。大橋恭子はスマートフォンを耳に当て、舞台袖でPRの火消しを続けている。永沢綾の姿は見えない。さっき、控室前の角で一度だけ視線が交わり、彼女は唇を噛んで俯いた。追わない。追わせない。それが今日の結論だった。
廊下に出ると、支配人が封筒を差し出した。「覚書の控えと、費用清算の受領証です」
「ありがとうございます」母が受け取り、父が短く頭を下げる。油で荒れた指先が、紙の角をそっと撫でた。
「……腹、減ったな」父の照れた一言に、茉莉がふっと笑う。「お昼、まだだもん。近くで何か食べて帰ろう」
「そうだな。温かいものを」と母。俺は頷き、内ポケットのUSBの重みを確かめる。それは剣ではない。ただ、茉莉の明日を守る鍵だ。
エレベーターを待つ間、社交辞令のような慰めがいくつか通り過ぎ、俺たちは丁寧に受けて流した。ドラマは舞台の上で終わらせ、客席にこぼさない――式場が最後まで守ってくれた作法に、静かに礼を言いたくなる。
自動扉が開き、冬の光が差し込む。風は冷たいが、肺の奥まで澄む感じがした。タクシー乗り場に向かいながら、茉莉が小声で言う。「弘樹。ありがとう」
「礼は原稿でくれ」
「うん。書くよ」
茉莉はマフラーをきゅっと結び直し、まっすぐ前を見た。その横顔に、もう“誰かのブランド”は映っていない。家族は肩を並べ、同じ向きに歩き出す。
さあ、帰ろう。温かい昼飯と、各自の机のある場所へ。そこから先は、それぞれの手で続きを書く。
第二十章 執筆は続いていく(エピローグ)
昼下がり、家に戻ると台所には湯気が立っていた。父・誠が鍋のふたを開け、母・日向子が茶碗を温める。式場の白い照明の下では言えなかった言葉たちが、味噌汁の香りにほどけていく。黙って食べ、食器を重ね、深呼吸。そこでようやく、家の空気が家の温度に戻った。
食後、俺――赤松弘樹は書斎の机にUSBを並べた。黒い樹脂の小片が三本。一本は茉莉の原稿フォルダのミラー、一本は資料、一本は通信履歴と受信メール。ノートPCを開き、NASと外付けに同じ階層を作る。差分バックアップを流し、ログを保存。画面の右下で、緑のチェックが一つ、また一つ点る。
扉のところで足音が止まった。「入っていい?」茉莉が顔をのぞかせる。
「どうぞ。座れ」
彼女は椅子に腰を下ろし、膝の上で指を結んだ。少し赤い目で笑う。
「……怖かった。けど、言えてよかった」
「ああ。言葉は道具だ。正しく研いで、正しく使えば、誰も傷つけずに鎖だけ切れる」
俺はモニタを示す。「ファイル名の規約、もう一度統一しよう。oni_sakura_long_vの後ろは三桁。作業日は頭に2025-12-26_。改変はブランチで分ける」
「了解、編集履歴は脚注じゃなく別紙にする」
「そう。それからクラウドの共有権限。閲覧のみ。書き換え権限は君の端末だけ」
「うん」茉莉は頷き、マウスを握った。キーが鳴る。v025がv026になる。日付が刻まれ、時刻が走る。それは“証明”ではない。ただ、ここから先を生きるための足跡だ。
スマホが震えた。画面には式場支配人からの簡潔な文面――覚書のPDF、費用負担の明細、情報発信自粛の確認。続いて、弁護士から“何かあれば連絡を”の定型句。俺は「受領」とだけ返し、通知を切った。
窓の外では、雲の切れ間から夕日が差す。光がフローリングを斜めに渡り、茉莉のキーボードに金色の帯を落とす。
「弘樹」
「ん?」
「ありがとう。……私、書くね」
「書け。食べて、寝て、また書け。締め切りは敵じゃない。味方にするんだ」
彼女は小さく笑い、画面に戻る。句読点が進み、段落が生まれ、削除線が走る。迷って、戻して、また進む。執筆はいつも、その繰り返しだ。
玄関の方から父の咳払い、母の笑い声。生活は平音で続く。ドラマは舞台で終わり、家には日常が戻る。それでいい。いや、それがいい。
俺は最後のUSBにラベルを貼った。《BACKUP_IS_LOVE》。冗談だ。けれど、半分は本気だ。守るとは、派手に戦うことじゃない。手順を決め、積み重ね、何度でも復旧できるようにしておくことだ。
茉莉がエンターキーを叩く。保存音は鳴らない。ただ、タイムスタンプが一行、静かに伸びた。
「行こうか、晩飯の買い出し」
「うん。帰ったら、もう一段落書く」
「いいね」
ドアを開けると、冬の空気が頬を刺した。薄く白い息が、すぐに空へ溶ける。俺たちは肩を並べて歩き出す。明日のページは白紙だ。だからこそ、好きな言葉から始めればいい。
執筆は続いていく。ここから先は、俺たちの速度で。
パクラー~すりかえられない物語~ スズシロ @kirakiradaihuku
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