第2話
第六章 PCの時間が語るもの
家に戻ると、俺は真っ先に机の引き出しから新品の外付けHDDを取り出した。銀色のシールに日付と目的を書き込む——「201X-03-○○/茉莉・作品一式アーカイブ」。
「バックアップは三箇所。家、クラウド、持ち出し用。どれか一つ壊れても物語は死なない」
俺が言うと、茉莉は小さく笑って、ノートPCの電源を入れた。
フォルダを開けば、整然と積み上がった階層が現れる。novel/short/、long/、ideas/、trash/。中でも目を引くのは長編フォルダの世代管理だ。onyx_v001.txtから始まり、同名のv002、v003……延々と。更新日時は、受験の隙間、部活の合間、真夜中の十五分を惜しんだ痕跡でびっしりと連なっている。
「ねえ、見ないでね。内容」
「見ないよ。見るのは“時間”だけだ」
俺はコピーの前に、タイムスタンプの一覧をテキストに吐き出した。いつ書き、いつ直し、いつ諦めずに戻ってきたか。数字の行列が、茉莉の生活そのものを語り始める。移行は“更新日時を保持”にチェック。ミラーリングは片方向、削除はしない。念のため、クラウドにも暗号化して上げ、USBには耐衝撃ケースを付けた。
「名前の付け方、決めようか」
「え?」
「大きな節でvを上げる。細かい手直しはrで刻む。例——onyx_v012r03.txt。あと“今日の分”が分かるように、日付タグも付ける」
「……プロみたい」
「プロのやり方を真似るのは悪くない。やり方が先に心を守ることもある」
俺はスクリーンショットで階層と日付を保存し、メモに転記した。中学の優秀賞原稿の原型が、十五の春より以前から連続していること。その後も派生短編や没ネタに枝分かれしつつ、一本の幹に戻ってくること。内容を覗かずとも、時間の“連鎖”だけで、オリジナルの連続性は示せる。
「弘樹、これって、証拠になる?」
「“結果”より“執筆の軌跡”が強い。思いつきで盗れるものには、この密度の時間は残らない」
プリンタが唸ってログの紙束を吐き出す。茉莉はそれを抱え、胸に当てた。
「ありがとう。——でも、私、書くから。証明のためじゃなくて、書きたいから」
「分かってる。これは盾で、刃じゃない」
最後に、俺は外付けのラベルにもう一行、書き足した。Keeper_01。物語の番人は、派手な戦いをしない。ただ、黙って、積み重なった“時間”を落とさないよう抱えて歩く——それが、この夜に俺が選んだ役割だった。
第七章 大学期の大賞と連続する線
春の雨が止んだ夜、茉莉のノートPCに着信音が跳ねた。件名は「最終候補通知」。送り主は大手レーベルの編集部。
「……震える」
小さく笑った茉莉の指先が、しかし確かに次のフォルダを開く。long/onyx_v012r07/。俺が提案した規約どおりの枝番が、大学一年の春から今夜まで揃っている。vは節目、rは微修正。日付タグが点線のように続き、やがて「合評」「推敲」「最終稿」に重なる。
翌週、オンライン面談。編集者は画面越しに言った。「設定の核は揺るぎません。語り口だけ、もう半歩読みやすく」。茉莉はメモを取り、作業窓を二分割。左に本文、右にコメント。履歴には、外部相談の記録も並ぶ。Claude_log/202X-06-14.md——比喩の重なり、語尾の整理、段落の切り方。助言は“方向”であって“答え”ではない。茉莉はそれを受け、自分の語彙で書き直す。
夏、候補通過のメールが来た。俺は静かにバックアップ計画を更新する。クラウドの世代保持数を増やし、外付けはKeeper_02を追加。提出版はonyx_v015_final.txt、ただし“提出用”のコピーで、創作の原本系譜は別に守る。提出時のZIPに同封されたreadme.txtには、参照した資料と自分の着想源を簡潔に記す。曖昧な“影響”を“盗用”にねじ曲げられないための、茉莉なりの前置きだ。
秋、受賞発表。結果は“大賞”。拍手と同時に、編集部とのやり取りがさらに増える。表紙案、販促文、校正シート。メールの件名が階段のように連番で上がっていく。[ONYX-PRJ] 01_帯コピー案、02_サンプル配布OK、03_増刷判断。
その下で、創作フォルダには相変わらず数字が増える。大賞は頂点ではない。ただの通過点として、v016が静かに刻まれる。
「弘樹、私、やっと“スタート地点”に立てたのかな」
「最初からそこに立ってた。ただ、証明の灯りが点いただけだ」
連続する線は、結果の王冠ではなく、執筆の足跡でできている。茉莉は画面を閉じ、机の脇に置いたKeeper_01/02を一度撫でた。守られているのはデータだけじゃない——書き続ける意志そのものだ。
第八章 再接近――物語は一方通行から始まる
地元コミケの準備会議。折り畳み机の上で、搬入表と配置図が重なり、蛍光ペンの矢印がいくつも走っていた。大橋恭子は事務局の腕章を外すと、控えスペースで湯気の立つ紙コップを綾に手渡した。
「永沢さん、例の“パクリ疑惑”、ちゃんと時系列でメモっておきなさい。声は弱者のうちに整えるのよ」
恭子は「字書き」の顔に切り替わる。彼女は地元の同人大手、PRも台本もそつがない。綾はうなずき、スマホのノートを開いた。そこには「あの子は私の“鬼隠”を“鬼桜”に換骨奪胎した」という独白が延々と綴られている。
その夜、恭子は半藤正英に電話を入れた。
「正英くん、永沢さんはね、誤解されやすい子なの。強く見えるけど内側は傷だらけ。茉莉さんの周りに“大人の整理”が必要だわ」
受話器の向こうで、正英は静かに相槌を打つ。商社の広報/IRで数字を磨く彼にとって、「説明可能な物語」を用意することは日常だ。綾の語りは粗いが、弱者/加害の単純図式は、世間に早く馴染む。
「……なるほど。では、事が大きくなる前に“橋”をかける。僕が間に入ろう」
それからの数週間、“善意”の連絡が茉莉へ届いた。正英は柔らかな文面で「わだかまりを解きたい」と持ちかけ、恭子はイベント運営の名目で「場を整える」と申し出る。ふたりの言い回しは巧みに似ていた。責任の主語を曖昧にし、事実認定を棚上げにしたまま、“家族で収める”方向だけを押し広げる。
裏側では、恭子のクラスタで物語が編まれていく。打合せメモには、見出しが並ぶ——〈誤解された天才・永沢綾〉〈寛恕の作家・赤松茉莉〉〈未来志向の婚約者・半藤正英〉。
「ブランドは、まず“善意”から始めるの」
恭子は合評の席でそう言い、綾の肩をそっと叩いた。綾は守られたような錯覚に安堵し、何度も同じ主張を反芻した。彼女が見たい“正しさ”だけが増幅され、他の音は消える。
一方、正英の頭の中で、数字が並ぶ。炎上リスクの最小化、スポンサーの目、姓で束ねた“家族ユニット”の利便性。善意に見える配慮は、同時に最短経路の合理でもあった。
「誤解は丸く。成果は一つに」
彼のメモにはそう書き添えられる。まだこの時点で、彼は自分が“擁護”ではなく“誘導”をしていることに気づかない。気づかないまま、茉莉の創作と人生を“整理可能な資産”として見積もり始めていた。
再接近は、謝罪からではなく、段取りから始まった。片側だけの物語を、社会に通る形式へ。善意の衣を着せ替えながら、計画は静かに歩き出す。
第九章 見えない腹案――“善意”の衣の下で
再接近の裏側で、別の書類が静かに増殖していた。タイトルは柔らかい。「家族協力メモ」「円滑運用のための覚え」「ユニット活動方針」。どれも“善意”の衣をまとい、角を落とした言い換えで満ちている。
〈創作に関わる決裁は“家族名義のユニット”で合議〉
〈収益・印税は一旦ユニット口座に集約し、家計設計上の優先度へ配分〉
〈既存原稿は表現クオリティ向上の観点で“共同リライト”可能〉
文面は求心力をもつが、主語が曖昧だ。誰の作品か、どこまで“共同”なのか、肝心な線だけが霞んでいる。
大橋恭子のPCには、表向きの進行表とは別に、非公開のカンバンがあった。
〔TO DO〕“家族ユニット”命名/ロゴ案/SNS開設
〔NEXT〕 過去作の棚卸し→タグ付け「再編集候補」
〔NOTE〕 「茉莉→執筆に専念」言い換えテンプレ(家事・妊活の“両立支援”を前面に)
列の端には、薄い灰色で「法務チェック」とだけ書かれたカードがぶら下がる。開けば、共有ドライブへのリンク。そこにはプリナップ草案の控えがあり、末尾に付箋が三つ。
「“権利帰属”はユニット運用の規約で別定」「差分原稿は“監修者”表記で調整」「家族全体のブランド毀損行為の禁止」
永沢綾はチャットに断片的な台詞を投げる。
「私の方が“語り”は上手いから、茉莉ちゃんの設定は活かして磨く感じで」
恭子は即座に整える。
「“磨く”→“品質担保”。語彙はやさしく、主旨は強く」
やり取りは、茉莉の創作を誰かが縫い替える前提で、穏やかに前へ進む。
半藤正英は、別のタブでスプレッドシートを眺めている。列見出しは「プロジェクト名/担当/進捗/露出計画」。担当には“綾・恭子(監修)・茉莉(原案)”とある。原案——その単語は便利だ。成果だけを取り出して“ユニット”に並べる時、作者の輪郭を薄くする。
彼は独り言のようにメモする。
「誤解は丸く、成果は一つに。アカウント統合で管理コスト↓」
そのころ、弘樹は式場の裏動線で司会台本を写真に収めていた。差し替え指示の余白に、小さく“姉妹和解のサプライズ”とある。姉妹? 茉莉には姉はいない。いや、ここでの“姉妹”は比喩だ——永沢綾との“和解演出”。
胸の奥で、何かが冷たく沈む。和解という名の合意。その場で“共同”が固定されれば、茉莉の執筆は一挙に“家族ユニットの資産”へ飲み込まれる。善意の衣のまま。
計画の本音は、どの文にも一度も書かれない。書かれない代わりに、言い換えが増える。原案、監修、品質担保、家族運用、合意形成。言葉が柔らかくなるほど、境界は硬くなる。
見えない腹案は、まだ誰にも直言されない。だが、準備は完了している。ロゴ、台本、覚書、そして拍手の段取りまで。次に必要なのは、たった一つ——“うなずき”だけだ。
第十章 家族の“守り”と妹の揺らぎ
茉莉は、いつもより湯飲みを強く握っていた。台所の蛍光灯が白く滲み、湯気が眼鏡の縁を曇らせる。母・日向子は何も聞かない。ただ味噌汁をもう一杯よそい、机の端に置く。父・誠は新聞を広げたまま、肝心な紙面を裏返し、視線を外した。家の中に、言葉にならない“守り”が積もっていく。
その夜、茉莉はぽつりと言った。
「正英さんはね、“綾さんは誤解されやすいだけだ”って。恭子さんも、公に謝らせるんじゃなくて、うまく収める形を考えてるって……」
弘樹は頷く。否定も断罪もしない。
「一次情報、か」
かつて高校の屋上で見た光景、保健室の時計、顧問の曖昧さ――すべてを思い返しながら、彼は箸を置いた。
半藤正英の語りは滑らかだった、と茉莉は続ける。いじめは“子どもの行き違い”で、拡散された動画は“編集の偏り”。綾は“表現が不器用な善意の人”で、和解の場さえ整えば、過去は“事故”として閉じられる。披露宴の演出も、その“第一歩”。
言い換えの階段が、彼女の迷いを少しずつ上へ押し上げる。過去を直視する毎に胸が痛むなら、柔らかい言葉へ身を委ねたい――その誘惑を、弘樹は責められなかった。
夜更け、弘樹は自室で外付けHDDを机に並べた。中学の頃のフォルダ、タイムスタンプが縦にのびる作業履歴、大学期のドラフト、編集部とのメール。結果ではなく、執筆の“過程”が残した微細な足跡。
(結論で人は争う。けど“途中”でなら、嘘はつきにくい)
彼は独りごち、スキャンの進捗バーを見守る。家族が守るのは、沈黙のままの肯定だ。では自分が守るべきは何か――“証拠の順序”だと、もう決めていた。
居間に戻ると、父が短く言った。
「茉莉、お前のせいじゃない」
それだけで、十分だった。茉莉は眼鏡を外し、泣き笑いの顔で頷く。彼女は揺れている。正英の一次情報は、痛みから逃れるための渡し船に見える。だが、渡った先に何が待つかまでは教えない。
弘樹はポケットのICレコーダーを指で撫でた。まだ再生はしない。ただ、必要な時に必要な“順番”で開くと決める。感情で殴り合えば、茉莉がまた傷つく。
家族の守りが沈黙なら、兄の守りは手続きを整えること――そう胸の内で言葉にして、彼はPCの電源を落とした。翌朝、式場で写真に収めるべき“差し替え”のメモが、必ずどこかにあるはずだと確信して。
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