ヨネオのこと
伊藤テル
ヨネオのこと
昭和○年。古潟の片田舎。
日本はどんどん戦争にのめり込んでいっているらしいが、今はそれよりもヨネオのことで頭がいっぱいで。
ヨネオがまだ小さい頃はわたしの言うことを聞いてくれていたように思えるが、八歳を越えたあたりから一切わたしの話を聞かなくなり、好き勝手に行動するようになっていった。
家の周りで遊ぶこともあるけども、一人で遠くに行ってしまうことも多々あり、一日経って帰ってくるようなことも稀にだがあった。
そんな時は必ず泥だらけなんだけども、無傷で元気いっぱいで、何事も無かったように「おかあ! ただいま!」と言って帰ってくる。
ガッチリとした筋肉質な身体で暴れ回る、ヨネオはきかんぼうだ。
聞かん坊なのか効かん坊なのか漢字はわからないけども、どうやらどちらにしても活発な子という意味で。
夫のタロウいわく「それくらいのほうが頼りがいがある」と言うが、いつもどこかで喧嘩をしてきたと言うヨネオには内心ヒヤヒヤしている。
それはヨネオがケガをすることは勿論、ヨネオが誰かをケガさせてしまうのでは、ということもで、むしろ後者の気持ちのほうがわたしは強かった。
夕暮れになり、夕ご飯が完成し終える頃に帰ってきて、大きな声で「ただいま!」と言いながらすぐにちゃぶ台の前に座るヨネオ。
わたしが作る料理をまず一口食べて「うまい! うまいうまいの行列だ!」と叫んでからはいつものように喧嘩自慢をケラケラ笑いながらするわけだけども、ヨネオはいつも無傷で。ということは喧嘩相手のほうがケガをしていることは明白なわけで。
ヨネオの喧嘩自慢は話が派手なので夫も笑うし、食卓は明るいと言えば明るいけども、もし誰かのことを大ケガさせていたら……と思うと、何だかいたたまれなくなってしまう。
そのことで夫へ愚痴をこぼすと「弱いより強いほうがいいに決まっている。相手は弱かったからケガをするんだろう、弱かった人間のことを考える必要は無い」と言い切って、ヨネオが誰譲りかは火を見るよりも明らかだった。
対するヨネオの妹にあたる、長女のナツエと次女のフネは大人しい性格で、手の掛からない子たち。
その分というかなんというか、ヨネオは本当に良くも悪くも毎日が派手の連続で。うちの家庭は元気なヨネオの喋りでまわっていたと言っても過言ではない。
食卓はいつもヨネオの話で盛り上がっていたが、わたしはどうなんだろうと思うところはあった。
が、ただ一つ、疑念というかもしかしたら、という本当の答えにちゃんと気付いてからはヨネオの話を純粋に楽しむことがわたしもできるようになった。
その気付いたこととは、ヨネオがホラ吹き気質だということ。
全くの嘘を言っているわけではないけども、一を十にして喋るきらいがあるということは徐々にわかってきた。
だからもしかしたら喧嘩は実際にしたかもしれないけども、それは口喧嘩であり、殴り合いの喧嘩をしているわけではないのかもしれない、と。
ただしヨネオの口から発せられる喧嘩自慢は全て大立ち回りの激しいやり合いの話ばかりだけど。
でも本当のところはどうなんだろうか。ホラ吹きはホラ吹きであることは事実だけども、わたしが過剰にホラ吹きにしたいと思う部分もあるのかもしれないし。
いやいや結局のところ、ヨネオがどこで何をしているかなんて知る術が無いので、悶々と答えの出ないことを考えても仕方ないのかもしれない。
ヨネオは国民学校に通っているわけだけども、相変わらず勉強なんてそっちのけで遊んでばかり。
うちは畑や田んぼを持っていないので、年がら年中、子分を連れて外で遊びほうけている。
ヨネオは親分気質で、体はそこまで大きくなかったが、とにかく喋りが達者で頭の回転は早いほうで、口八丁手八丁で自分に従わせることに長けていた。
ある日、夕ご飯にデカい西瓜を持ってきた時に一体何事かと思えば、
「盗んできた! みんなで食おうぜ!」
と言って、あっけにとられてしまった。
わたしは叱ろうかとも思ったのだが、ヨネオがわたしの言うことを聞くわけもないので、どうやって盗んだのかなどの話を聞いて、どこの畑から盗んだのか特定ができたところで、そちらの家へ謝りに行こうと思った。
ヨネオは自慢げに喋り出す。
「あの家は見張りがいるからな! まずは子分を分散させて、注意を引くことにしたんだ!」
わたしは矢継ぎ早に、
「あの家ってどこの家なの?」
と直球で聞いたのがもう良くなかった。
ヨネオは変なところ機転がまわる子で、わたしがどの家か特定したら、西瓜を返しに行くとわかったんだろう。ヨネオは右斜め上のほうを見ながら、
「まっ、そんなことよりさ、ここからが面白れぇんだよ」
と前のめりになって語りだせば、夫も身を乗り出して聞きに入る。
そこからはヨネオの大立ち回りの話。
擬音を交えて多分大げさに喋りつつも、最終的には子分を使って見張りを転ばせて、田んぼの中に落として逃げ切ったという内容だった。
勿論作戦は全部自分が考えたと鼻高々で言い切った。
夫は大笑いして、ナツエとフネは『いいのかな』と少し不安そうな顔をしていたことがヨネオの癇に障ったのだろう。
ナツエとフネがまだ食べていなかった目玉焼きを丸呑みするかのようにヨネオは胃に流し込んでしまったのだ。
当然ナツエとフエは、
「おにいに食べられたぁ」
と泣いてしまうもので。すると夫が西瓜を切ってきて、
「ほら、ナツエもフネも腹が減っているだろ、この西瓜を食べて腹いっぱいになればいい」
と言いながら、テーブルに置くと、まずはヨネオが手に取って「うまい! うまいうまいの行列だ!」と叫び、夫も食べてうんうんと頷く。
ヨネオは目玉焼きが乗っていたそれぞれの皿に西瓜を乗せ、一言。
「うまいうちに食え!」
ナツエもフネもつい食べてしまったところで、ヨネオが一言。
「これでみんな西瓜泥棒仲間だ!」
その言葉に輪をかけて大笑いをする夫。ナツエとフネも少し戸惑っているようだが、やはり西瓜の瑞々しさと甘い香りの魔力には抗えず、そのまま食べ始めた。
わたしはさすがに食べる気がせず、食べずにみんなが食べ終えた皮を裏庭に捨てに行き、土をかぶせてバレないようにした。誰にって話だし、こんなの自己満足でしかないけども。
そんなヨネオには助けられることも勿論多々ある。
ヨネオはとにかく相撲が強かった。つまり喧嘩が強いことは確かに事実だった。
相撲大会が行なわれると聞きつけると、野も山も越えて、相撲大会へ出向く。
そこでヨネオは必ず優勝してきて、賞品をたんまりと持ってくるのだ。
夫は当然誇らしげだし、わたしも相撲はあくまで競技なので、自慢ではあった。
でもだ、ヨネオの話はこれで終わらない。
「まあ俺に敵無しなわけだが、俺のあまりの強さに大人の行司も疼いたみたいで、優勝が決まった瞬間の俺に不意打ちで張り手をかましてきたんだけども、それは全部受けきって、その行司も思い切り投げ飛ばしてやったぜ!」
と夕ご飯に鼻高々で言った。
さすがにそれはホラだと思った、否、ホラだとわかった。そんな大人がいるはずないからだ。
でもナツエとフネは「すごい」「すごい」と称賛して、さらにヨネオは上機嫌そうだ。
ヨネオは賞品を持ってくるので、優勝していることは本当だ。そもそも野も越え山も越えで行った先で勝つわけだから、体力も段違いだ。さらに言えば、優勝したのち、その賞品を盗られずここまで帰ってくるわけだから、とわたしが考えたところで、ヨネオが、
「でもこれだけじゃないぜ! その優勝賞品を盗もうという大人に囲まれたわけだが! 全員ぶっ飛ばしてやったぜ! 俺は相撲だけじゃなくて喧嘩も最高に強いんだ!」
と言い出して、ある意味考えていることがヨネオと一致してしまい、少しだけおかしくて吹き出してしまうと、ヨネオがわたしの顔を見ながら、
「おかあ! 本当なんだぞ!」
と声を張り上げたが、それは機嫌が悪くなって怒鳴っているといった感じではなくて、何だか嬉しそうな、楽しそうな感じでの、団らんというような声だった。
ヨネオの嘘なのか本当なのか分からない武勇伝は毎日尽きなかった。
地元の人間は誰も寄り付かず、川の底から手が伸びてきて溺れさせてしまうと言われている流れが急な場所も余裕で泳いで渡ってやったとか、本当だとしてもそんなことしなくてもいいのに、というような話をよくし、
「だから地元の連中からは泳ぎのサブだと恐れられているんだぜ! 俺はすごいんだぜ!」
と自慢していたが、これは”猿”の聞き間違いでは? と思ってしまった。勿論言わないけども。
また、子分が俺のことを奉ってきて、タバコを献上してきたから吸ってやった、案外うまくないもんだな、と笑いながら言うこともあり、それは嘘であってほしいと思っていたら、実際にタバコをすぱすぱ吸っている場面に遭遇してしまい、わたしのほうが目を逸らしてしまうと、わたしに気付いたヨネオが、
「おかあ! 何してるの!」
と何事も無く挨拶をしてきて、まあなんというか面の皮が厚いというか。
そんなヨネオはスクスク成長していき、ついに高等科を卒業した。
畑や田んぼを持っている家庭はそのまま農業をするわけだが、うちには無く、戦争には石油が不可欠ということなので、農業ができない家庭の子はみんな石油会社へ就職となった。
この地区は日本では珍しく石油が掘れる場所で、ヨネオは仕事に邁進した。
相変わらず、会社でも子分ができたとか、同期では俺が一番偉いんだ、など、嘘か本当か分からないことを言っている。
でも元気に仕事をしているということは、あながち大嘘でもないんだろうな、とは思っている。
そんな中、戦争というモノが庶民の生活のすぐそこまで迫ってきていた。
最初、畑や田んぼを持っていれば、食べることには困らないだろうからいいなぁ、と羨望の眼差しを向けていたが、徐々に取り立てというか納税が厳しくなり、農業をやっている家庭のほうがむしろカツカツになっていっているように感じられた。
対する石油会社のほうが重宝されているようで、わたしは畑や田んぼを持っていないことに少し引け目を感じていたが、今はむしろ無くて良かったと思うようになっていった。
そんなある日。
近所の畑や田んぼに従事していた子たちが根こそぎ戦争に駆り出されることとなった。
もう戦争の魔の手がここまできていたということに、その時に初めて察した。
じゃあうちのヨネオも、と内心ガタガタと震えていると、ヨネオは戦地ではなく、ボルネオ島へ行くこととなった。
石油会社に勤めている人間はその石油掘削技術から海外で戦争のための石油を掘ることになったのだ。
戦地じゃなくてホッと胸をなでおろす、なんてことはなく、むしろ海外に行くなんてとそっちのほうが危険だとわたしは思った。
なんせ海外は言葉が通じないだろう、いつ反乱が起きたっておかしくない。
戦地へ赴くなら兵隊は武器を持っているだろうけども、海外で掘削作業なら当然武器なんて持っていないわけで。
もしそこで何か起きてしまったら……とわたしが考えたところで、決まったことは覆らない。
個人の気持ちは戦時中、反映されることはない。
全て上が決めた通りに物事が動いていく。意志の尊重なんてものは無いのだ。ヨネオは有無言わさず海外へ旅立ってしまった。
最後にヨネオは、
「ま! 元気でやってくるよ!」
と元気に筋肉隆々な腕を振って家を出て行ってから、もう一度も会えていない。
国内の情報ならまだしも、海外の、ボルネオ島の話なんてラジオから流れることなんてなくて。
当たり前だ、国は国民が不安に思わないように情報統制している。
ボルネオ島で反乱が起きて皆殺しになりました、なんてこと、あったって言うはずがない。
結局国民は、国からホラを聞かされているんだ。
戦績は上々だ、日本国は快進撃を続けている、戦争に勝てる、そんな話ばかりラジオから流れてくるが、そんなはずはないと思っている。
ならどうして家の金具だけならまだしも、寺の鐘さえも奪っていくんだ。大切な偉人の銅像さえも溶かしてしまうんだ。
金属類は勿論、貴金属も全て回収し、手元には配給に使う点数しか残っていない。
その点数さえ、ちょっと米を買うだけでも、ごそっと点数は減り、正直年を越すことができる保証も無い。
その米も砂まじりの米で、むしろその砂がかさましになって満腹感を味わえるみたいな話になっているくらいだ。
わたしは白米をお腹いっぱい食べたい、なんて気持ちは非国民らしい。贅沢は敵だと。
きっとヨネオも向こうで何も食べられず痩せ細っていき、あんなに厚かった面の皮もペラペラに薄くなって、ならまだいいのかもしれない。
もしかしたらもう死んでしまっているのかもしれない、と考えてしまったら夜も眠れない。
思い出す。
思い出す。
思い出す。
”結局のところ、ヨネオがどこで何をしているかなんて知る術が無いので、悶々と答えの出ないことを考えても仕方ないのかもしれない”というわたし自身の言葉を。
思い出す。
思い出す。
思い出す。
それでもヨネオが元気に笑っていた日々を思い出してしまうんだ。
ヨネオが自由にホラを吹き、笑顔が絶えなかったあの食卓が思い出してしまうんだ。
ヨネオの口癖である「うまいうまいの行列だ!」というあの言葉が、あの頃の声のまま、脳内に響いてくる。
もうこの世にうまいうまいの行列なんてない。配給に並ぶ行列はあってもそこに美味しいモノなんてない。
あの言葉すら贅沢だったんだ、あの日々すら贅沢だったんだと、失って初めてわかる。
失う。
気付いたら瞳から涙がこぼれていた。
わたしの体の中にまだ塩気のある水分があったんだと思いながら、その涙を口の中に入れて、それすらも大切な食料とした。
わたしたちはひもじい生活をしている。きっとヨネオもひもじい生活をしている。
だから体は離れているけども、心は一心同体だ。
きっとどこかで生きている。それこそ痩せ細ってしまっているだろうけども、絶対に生きている。そう考えないとやってられなかった。
ラジオでは相変わらず日本軍が完全勝利とホラを吹く。こんなホラは全く面白くなくて。ヨネオのホラは本当に面白かった。
「相撲大会で優勝してさ! 四股を踏んだところで俺の四股が強過ぎて屋根が倒れてきてさ! でも俺は強いから負けた子をかばって全部受け止めてやったんだよ! で! 倒れた屋根は全部俺のチカラと指示でその日のうちに直したんだ! そのおかげで子分ができちゃってさ! 大人の子分もだぜっ? だから今度そこへ行ったら俺が相撲塾をしないといけなくなって大変なんだよなぁ!」
ホラを吹くならこれくらいのホラを吹いてほしい。ただ勝っている勝っていると言うだけ。どう勝っているから言いなさいよ。どう勝っているか説明できないということは負けているということなんでしょ?
連戦連勝のはずがない。今日もアメリカ軍がビラを上空から撒いてきた。戦争に勝っているのなら、アメリカ軍が上空へ飛んできたところで撃墜ができているはずだ。
それができずにこんな内陸までビラを配りに来れる時点で、日本軍はアメリカ軍の飛行機に何の対応ができないということだ。
いつ爆撃されるか、それとも焼夷弾なのか、わたしは、この地区内で石油掘りをしている夫と、家にいるナツエとフネと一緒に耐えているしかなかった。
だからなおさら一人だけ海外にいるヨネオに思いを馳せてしまう。夫もナツエもフネも一緒に家にいてくれるだけで心強い。でもヨネオだけはいないのだ。ここにはいないのだ。
いいやここにはいないだけで、向こうでは生きていて、と自分の心の中の文章でも、そういちいち言っていないと正気を保てなかった。
ちゃんと食べれているのだろうか、いやそもそも生きて……はいる! 生きている! そう考える! それは大前提! ……でももし日本がそこでもホラを吹いていたら。実はもうボルネオ島は戦禍に巻き込まれて、日本人は皆殺しに遭っていて、もう既にこの世にいなくて……ヨネオとはもう二度と逢えなくて……もし戦争が無ければきっと親子五人で楽しく生活していて、好きに食べ物を食べることができて、もしかしたら旅行などをしていたのかもしれない。そんな未来はもう無いのかな……なんて、弱気になっちゃいけない!
これは全て!
”結局のところ、ヨネオがどこで何をしているかなんて知る術が無いので、悶々と答えの出ないことを考えても仕方ないのかもしれない”ことだ!
わたしは生きる、家族も生きる、そしてきっと生きているヨネオを戦争が終わったところで迎えに行く、それしか考えない。
余計なことを考えている暇は無い。まずわたしがそれまで元気に生きていくことを考える。それしかない。
でもわたしは勿論、夫もナツエもフネも痩せ細っていく。当たり前だ。食べるモノが無いんだから。空き地という空き地は全てカボチャ畑になった。
戦争はどんどん激化していく。
というよりもどんどん失っていく。
最初はモノ、あらゆる金属や、作った農作物も全て奪っていく。
次は言葉、弱音や泣き言すら許されず、自分たちを鼓舞する言葉以外は存在してはいけなくなる。
最後に思考、もうこれでいい、こうなることが当然なんだと受け入れてしまう。
戦争は何もかも、人間らしさというものを奪っていく。極論、操り人形以外は要らないらしい。国の言う通りに動く人形がいっぱいいればいいらしい。女性は子を産むことを強要されるし、女性自身も子を産んで、国からもらえる点数を増やそうとする。
もしわたしたちに未来があるのなら、そんな世の中ではないことを願う。女性は子を産む機械のように言う人がいれば、ちゃんと非難されるような社会であってほしい。
勿論男性だって国の言う通りに戦地に赴かないといけない世の中にはなってほしくない。戦争は全てを奪う。ヨネオも奪われてしまい、もう日本にはいない。
でも知っている。誰かは得をしているって。
こんなつらい世の中なのにも関わらず、日本国内にも得をしている人間がどこかにはいる。だからこそ戦争は怖いんだ。自分だけは得しようと動く人間がいる。
その少数の得する人間のために、一般庶民は振り回される。そうならないためにも怪しい動きをする人間のことはしっかり観察しなければならないわけだけども、結局わたしの世代の人間はそれができなかったみたいだ。
とはいえ、わたしがダメだったなんて思わない。わたしには意見するほどのチカラが無かったから。未来は誰もが平等に言いたいことの言える世界ならいいなぁ、と思っている。
未来、未来って、未来のことを考えてしまうことは当然のことで、何故なら現実が地獄だから。
現実逃避と言うらしいが、頭の中だけならいいでしょう、と。
今の時代、親子間の手紙すら検閲される。
わたしはこう考えているが、夫がどう考えているかはわからない。ナツエとフネがどんな気持ちでいるかもわからない。
家でも激烈でいなければならない。誰がどこで何を聞いているかわからないからだ。
建物の金具も勿論全て回収されているので、家は隙間風がいつも吹いている、ということは声も筒抜けということだ。
ナツエやフネに、
「戦争で勝とう」
としか声を掛けられない自分が本当に情けない。
勝つはずないのに。今日も日本はつまらないホラを吹いている。
でも、このホラはどうやら本当らしい。
日本がポツダム宣言を受け入れるという話がラジオから流れてきた。
その九日後、日本は終戦宣言をし、戦争に負けたことにより、全てが終わったのだ。
いや始まったんだ。だって私も夫もナツエもフネも生きている。ということはやっとここから家族の物語が始まるんだ。でもヨネオは……生きている。ヨネオも絶対生きている。間違いない。そう思うしかなかった。
終戦から日本は慌ただしくなったが、決して嫌な喧騒ではなかった。新しく生まれ変わるわけだからそれくらい当然のことだ。ただし、相も変わらずヨネオの情報だけは聞こえてこなくて、夫はどこか、既に諦めているようだった。
食卓の会話は戦時中から引き続き無い。ヨネオがいた頃は毎日毎日本当に明るかったのに。
ナツエとフネも輪をかけて大人しくなってしまい。月並みだけどもヨネオはわたしたちの太陽だった、なんて過去形にするつもりは私には無かった。私は信じていた。
だってあんなに強かったヨネオが死ぬわけないって。反乱が起きていたとしてもヨネオだけは得意の相撲で生き残っているに違いない。
そんなある日。
ボルネオ島へ行っていた石油掘削作業員が全員日本へ戻ってくるという知らせが届いたのだ。全員という話なので、きっとそこにヨネオもいるはず。
その日は宴会気分で夕ご飯を家族四人で食べた。十分な食料も無く、何か特別な食事ができたわけではないけども、その分、心が満たされていたので料理の内容は何でも良かった。
ナツエとフネは喜びで大泣きし、夫はヨネオのホラ話を聞いたかのような大笑い、わたしは泣きながらも口角はあがっていた。
夜になり、ふと、向こうで死んでいたらヨネオはいないのでは、と一瞬考えてしまったが、すぐにそんな可能性なんて無いと思い込むことにした。
ついに当日。わたしは大きなリアカーを引いて、古潟駅まで行くことにした。
きっとヨネオは筋肉隆々なあの姿ではなくて、痩せ細っているだろう。相撲大会に出ようものなら、一回戦敗退ならまだいいほうで、栄養失調のせいで、相撲で負けた際には骨が二,三本折れてしまうような感じだろう。あの頃のような元気も無く、厚かった面の皮もすっかり見る影も無く、謙虚と陰鬱を履き違えたような虚弱体質になっているかもしれない。
だからわたしはヨネオをこの大きなリアカーに乗せて、引っ張って帰っていこうと思っている。
古潟駅に着くと、大勢の人たちが我が子の帰りを待っていて、人が本当にごったかえしていた。
あの日に刹那的に考えた”ヨネオはいないかも”という言葉が脳裏をかすめたけども、急いでそんなモヤは晴らすようにと頭をぶんぶん振るった。
それにしても、それにしても、だ。わたしはヨネオのことをヨネオだとわかるだろうか。なんせあの姿のヨネオしかわたしは知らないわけだから、見る影も無ければ気付かない可能性もある。
わたしだってそうだ。あの頃から比べるとずっと骨と皮ばかりになり、ヨネオがわたしのことをわたしと気付くかどうかわからない。
そんなことを考えていると駅に電車が到着して、歓声が巻き起こった。
この声に負けないように名前を張り上げなければ、と喉を整えるように咳払いをしようとしたその時だった。
咳をしようとしたはずなのに、わたしの口からは何の音も出ていなかった。何故なら……!
「おかあ!」
ヨネオが右手をあげながら、わたしに駆け寄ってきたのだ!
――わたしは今”ヨネオが引くリアカーに乗せられながら”話を聞いている。
「ボルネオ島はさぁ! 豚肉とかは無いけども、とにかくヤシやらココナッツとかいっぱいあってさぁ! やることも石油掘削しかねぇから太っちゃったぜ! うまいうまいの行列でさぁ!」
そう、ヨネオは丸々太っていたのだ。
筋肉隆々で相撲が強かったあの頃からは見る影も無く、まるで本物の相撲取りのようにでっぶりと……。
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最後に後書きを書かせてください。それにはちゃんと理由があります。
それはこの話が実話ベースだからです。ヨネオとは私の父親の父親で、要は私から見ると祖父にあたる人物です。
戦後八十年ということもあり、戦争の話を書こうと思い立ち、戦争の記憶を残すという意味合いで父親に祖父の話を聞きました。
その結果がこれでした。戦争には行かず、ボルネオ島で石油掘削作業に従事し、太って帰ってきた、が答えでした。逆におかあを引っ張って帰ってきたの部分はホラかもしれない、とのことです。
祖父が太って帰ってきたことも、ホラ吹きだったことも事実です。ちなみに母親にも祖父の話を聞きましたが、目が悪くて戦争には行かなかったようです。
私には語り継ぐ戦争の話はありません。そういう人もいます。
とは言え、普遍的な部分を語り継ぐことは可能で、今回の戦時中の知識は長岡の空襲という本を拝読し、得た知識です。
誰かが語り継いだ戦争の話を覚えることも語り継ぐことになると思っています。
戦争は避けなければならない事柄ですが、過去の戦争から逃げることはしていけないと思っています。しっかり戦争のことを勉強し、こんなことが二度と起きないようにしなければならないと思っています。
(了)
ヨネオのこと 伊藤テル @akiuri_ugo5
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