ペールブルーの距離で

ペールブルーの距離で

 包みを開いて。

 無言でせかされ、キョウコは包みのリボンに手を伸ばした。消えものではないな、と直感する。

 なめらかな空色のリボンがテーブルに落ち、包みの口が開きかける。さらに促されて、のろのろ包みを開いた。

 薄い青色のマグカップだった。繊細な植物の意匠が施されている。物の価値に疎いキョウコにも、一目で安いものではないとわかる。

 胃の腑がぐっと下がる感覚。

 テーブルをはさんでニコニコしながら反応を観察しているヒビキをそっと見上げた。キョウコが口を開くより先に、ヒビキはなにがしかのブランド名を口にした。銀色のナイフを連想させ、その印象だけがカフェの隅の席に残った。窓の外は雪が降り積もり、陽光を反射してきらきらと眩しい。

「ティーカップは使わないって言ったけど、キョウコも普段マグカップは使うでしょ? このデザイン、イメージぴったりだと思ったんだよね」

 キョウコは両手を顔の前で合わせた。どこまで表現していいだろうか、探りながら、眉を上げ、目を見開いて驚きを表現する。

「こんなの、もらっていいの」

 胸の底に、マグカップが沈み、めりこんでいく。


 キョウコはヒビキへの誕生日プレゼントに少しいい紅茶の茶葉を選んだ。けれどヒビキはこうしてキョウコの誕生日プレゼントにマグカップを選んだ。普段の生活に、日常に食い込むタイプの贈りもの。

 そうやって好意を表明してくれることは、決して悪いことじゃない。

 でも。

「私があげたいから、あげるの。キョウコはただ受け取ってくれればいい」

 ヒビキはさらりと笑った。けれど笑んだまま次のキョウコの言葉を待っている。

「ありがとう」

「いいよ。きっとキョウコは喜んでくれると思った! 今度おすすめの紅茶あげるから、絶対このマグで楽しんでね」

 ヒビキはキョウコの反応に満足そうだ。それを見てキョウコは安心した。

 ——私は間違えていない。

 キョウコは冷めかけた紅茶のカップを唇に当てた。本当は、紅茶よりコーヒーのほうが好きだ。

「そうだ、おすすめの紅茶の種類と、紅茶の美味しい淹れ方、おしえたげる。ほんとは茶葉で淹れてほしいけど、面倒ならティーバッグでいいからさ」

 ヒビキはスマホをサッと操作した。キョウコのスマホにメモやURLが次々送られてくる。


 ヒビキは包みを縛っていた空色のリボンを指に絡めてはもてあそび、言った。

「キョウコはこんなペールブルーが似合うよ。この色のセーターとか、カーディガンとか、ないの?」

「あんまり明るい色は好きじゃないかな」

「でも、似合うから。じゃあ、こんど一緒に買い物に行こう。キョウコにいちばん似合う服を選んであげるよ。そしたら、絶対に気が変わるから」

 ついに、キョウコはありがとうを言わずに曖昧に濁した。

 キョウコはヒビキになるべくなら嘘をつきたくなかった。けれど、ヒビキと話しているとキョウコはなにが真実でなにが嘘なのかわからなくなる。


 カフェからの帰り道、ミルク色の空を電線が横切っている。

 空のように自分がぽっかり欠損したかのような感覚をキョウコは味わっていた。ヒビキはいま、別の友人とランチに行っている。キョウコと会ったあと、別の友人たちと遊ぶ予定があったのだ。

 そう、ヒビキは社交的で人気者だ。それなのに、ほかの友達と会う前にわざわざ時間を作ってくれた。私の誕生日に会ってくれて、誕生日プレゼントまで用意してくれた。

 これ以上ほかに何を望めばいい?

 ヒビキはキョウコを、友達だと言った。それも、大好きな友達だと。

 それをキョウコは覚えている。ヒビキは素直に、開けっ広げにそう言った。きっとヒビキ自身は忘れているだろう、そういうことにたいした意味はない、キョウコはそう判断していても、ときどきその言葉が頭の中で鳴ることがあった。

 このときもキョウコの頭の奥で、大好きな友達、がカキンと鳴った。

 かき消すように雪をつかむ。

 キョウコは凍った歩道を慎重に歩きながら、あのリボンの色——春の日にきれいに晴れた空の色をした服を、自分が身に着けているところを想像した。そして、違うと思った。私の好みではない。そんな服を着る私は、きっと、私とは少し違う。


 冬の午後、唯一の窓は東向きで、ワンルームの部屋は昼下がりなのにうす暗い。

 キョウコは肩から滑らせるようにバッグを下ろし、コートを脱いだ。ストーブを点け、部屋着に着替えたら、どっと疲れが押し寄せてくる。

 バッグをいびつに歪ませていたマグカップを引っぱり出し、流しに置いた。湯と洗剤で洗い、ふきんで拭く。会社に持っていこうかという考えが一瞬浮かんだけれど、すぐ却下する。植物の青い柄が、うす暗がりのなかでなお一層青く沈んで見える。

 ひどく疲れた、とキョウコは思う。この妙な疲れ方はなんなのか。頭がかすみがかったようで、呼吸が重い。

 ある予定を、キョウコは思い出していた。都会で働いている河野さんと、年末に帰るから会おうと言われている。キョウコはストーブの温風を頬に浴びながら、長い溜息をついた。


 外はすでに暗い。仕事を終えてすぐ車で駅に向かった。河野さんは黒っぽいダウンとデニムパンツという出で立ちで駅のロータリーに現れた。停車スペースに車を停めると、すぐにキョウコを見つけて近づいてくる。

「わざわざすみません、駅まで迎えに来てもらって」

「いえ、久しぶりです。せまい車でごめんなさい」

「とんでもないです、助かりました。荷物引きずって歩かなくて済んだから」

 車を走らせ、まっすぐ居酒屋に向かう。車内では会話が途切れなかった。無理に話題を探さずとも、自然と河野さんが場をつないでくれる。キョウコはありがたく感じた。

 河野さんは、忘れないうちに、とお土産をくれた。きれいな柄の包装紙の箱で、お菓子らしかった。


 料理が次々に来て、分けて食べる。

 グラスが空になり、新しいグラスが運ばれてくる。

 だんだん河野さんの舌が回り始めた気がする。キョウコはそれに立ち会っている。

 いいな、と思う。こんなふうに、私にお酒を飲めとすすめずに目の前でほろりと酔ってくれる人がいるのは。

「でね、ポチったんですよ。そしたら届いたのが布地も色も全然イメージと違って。ネットショッピングで大失敗したの初めて」

「うわあ、それって返品できないんですか?」

「なんか勉強代だなと思って勝手に納得しちゃった」

 ふとキョウコはヒビキに言われたことを思い出した。

「あの、河野さん。私にペールブルーの服って似合います?」

「んん?」河野は目を細めて体を引いた。「色味によるんじゃないですか? 少し緑寄りの薄い青なら似合うかも」

「なるほど」

 ヒビキが指に絡めていたあのリボンの色は、どんな青だっただろう。思い出せない。

「なんでです」

「いや、知人に言われて」

「うーん、ペールブルーって薄い青ですよね? どっちかっていうと暖色系のイメージかな、加賀見さんは」

「なんか、その知人によると私は寒色系っぽいイメージみたいです」

「うーん、私の考える加賀見さん像とは違いますね」

 河野さんはフォークの先でオリーブを転がした。

 短い沈黙が下りる。

 決していやな沈黙ではなかった。

 キョウコは自由に息ができるのを感じた。危険はなかった。当たり前のことが当然に整っていた。

 河野さんの前では自然に存在できることに、キョウコは気づいた。

「ねえ河野さん」

「なんです」

「もしよかったら、来年もまた会ってくれませんか」

「いいですね。また連絡します」

 河野さんはにっと笑って、グラスの赤ワインを飲み干した。


 河野さんを実家まで送ってから、キョウコは自分のアパートへ帰った。帰省する準備は途中で、キャリーケースが部屋の中央に開いたままになっている。キョウコは水を一杯飲み、ため息をついた。明日は年内最後の出勤日だ。

 スマホを開くと、メッセージが続けて入っていた。

 ヒビキからだった。

『ちょっと話せない?』

『このカーディガンキョウコに似合いそうじゃない?』

『セールだよ』

『これクリスマスプレゼントにするね』

 貼られたURLに飛ぶと、空色のカーディガンがセール中だった。値引きしても普段キョウコが買う服よりも高い価格帯のものだ。

 キョウコはお返しのことを考え、そして、胸の底に熱いものが突沸するのを感じた。それは怒りだった。キョウコはスマホをベッドに放ると、目をつむった。大きく息を吸い、時間をかけて吐く。顔を覆い、頬を強く押した。

 だめ押しでもう一度深呼吸すると、キョウコはベッドのスマホを再び取り上げた。そして、震える指で返信を打つ。

『もう注文した?』

 すぐに既読がつく。

『したよー』

『今かけていい?』

 着信音が鳴る。通話ボタンを押す。

「あの、クリスマスプレゼントって何?」

「え? キョウコその色好きでしょ?」

 そんなことは、一度たりとも、言ったことがない。

「勝手に決めないで」

 口から飛び出した言葉が案外強くて、キョウコは自分でも驚く。

「待って、何、突然?」

 ヒビキはおどけている。

「ごめん、受け取れないから。キャンセルしといて」

 通話を切ると、ぎゅっと目をつむる。鳴るスマホを放置して、キョウコは浴室に向かった。


 冷静になるまで返信はできないとキョウコは思った。

 だから初めて、積み重なっていくヒビキの通知を無視した。

 翌朝は風があり、午後から吹雪に変わった。退勤時間には外は真っ暗で、ほぼ真横に雪片が流れるのだけが見える。キョウコはうんざりした。しかしここさえ越えれば実家でぬくぬくと正月休みが過ごせる。こたつや半纏、そして実家の猫のことを思い浮かべようとする。しかしヒビキのことが邪魔をする。

「みんなも早く上がってよ。お疲れさま。よいお年を」

 キョウコは上司が退勤するとすぐにパソコンを閉じた。


 外は吹雪だった。早く帰りたい。それなのに、車のドアを開けようとするとキーホルダーしかなかった。

 鍵がない。キョウコは血の気が引くのを感じた。

 会社に戻り、バッグをひっくり返した。キーホルダーの留め金が緩んで、バッグの中で鍵がばらばらになっていた。バッグの底に家の鍵はあったが、車の鍵だけがない。

 ひきだしを開けたり、廊下を這うように探してみるけれど、どこにもない。朝に落としたのかもしれない。だとすれば、雪に埋もれて見つかるはずがない。

 キョウコは愕然としながら、家まで歩いて帰ることに決めた。家になら予備の車の鍵がある。

 覚悟を決めたら、ただ歩くだけだ。


 キョウコはマフラーを頭と首に巻き付け、吹雪の中を歩み出した。事務所は郊外にあり、車通りはあるが、人が歩いていない。空は暗くよどんでいるが、雪があるぶんほの明るい。

 威勢よく歩き始める。すぐに雪で足を取られる。指先が冷え、タイツの先が濡れてくる。

 肺が冷たい。まつ毛に雪が落ち、マフラーの隙間にも入ってくる。

 車が雪をはねる音とエンジン音、規則的な足音と、自分の息の音だけで世界が満たされる。

 そのとき、ぽこん、という音をキョウコは聞いた。

 放置してもよかったが、なんとはなしにキョウコは吹雪の中で手袋を外し、スマホを引っ張り出した。

 メッセージが連なっていく。

『昨日はごめん』

『でもキョウコが、』

『私のこととか、嫌だったら』

『友達続けられないかな、なんて思って』

 なんで。

 なんでそうなる。

 キョウコは右手で額を押さえた。

 こんどは着信音が鳴り始める。もちろんヒビキからだ。

 それどころではなかった。今すぐ家に帰って予備の鍵を見つけなければならない。車を取ってこなければならないし、家を片付けて、荷物を詰めて……

 ヒビキの話を聞いている場合じゃない。こっちにも事情がある。すべてがヒビキを中心に回っているわけじゃないのだ。

 それなのに、キョウコは重い指で受話ボタンを押した。

「ごめん、後で連絡するから」

 返答はなく、かわりに妙に据わったような声が響く。

「私はキョウコのことが好きだよ。ほんとうに大好きなの。ねえ、私のことは好きじゃないの?」

 今それどころじゃない、と叫び出したかった。風がひゅうひゅうと耳たぶのあたりで鳴っている。

「なんでそうなるの? 私いつヒビキのこときらいって言った?」

「きらいじゃないの? じゃあ、私のこと、好き?」

「そうだよ」

 ノイズ混じりに、ヒビキがほっと息を吐いたのが聞こえた。

「じゃあ、大丈夫だ、よかった」

 何が大丈夫なのかさっぱりわからない。

「クリ……レゼント……くなるけど……住所に……くから」

 車が音を立てて走り去り、汚れた雪がキョウコにはねる。はっきり聞こえない。

「とにかく、じゃあ、また」

 何か恐ろしいものから逃れるように、キョウコは終話ボタンを押した。

 自動販売機の光がキョウコの右半身だけを照らしていた。

 吹雪が少し和らいでくる。

 スマホの画面が暗くなる。疲れが全身に降りかかって、キョウコは今にもくずおれそうに感じた。


 アラームを設定せずに眠ったので、翌朝目が覚めたのは昼前だった。

 いつも朝食べるトーストとコーヒーを摂り、静かに流しへ片付ける。蛇口をひねって湯を出し、スポンジを取ると、自然とヒビキのことが頭にのぼった。

 あんなにわけのわからないことを言われたのは初めてだ。

 わけがわからない、と思うのに、怒りの熱でめまいがする。

 ――どうして私はこんなに怒っているのだろう。

 ヒビキからもらったマグカップを洗う。

 あれは、今までキョウコが知らなかったヒビキだった。

 マグカップが、きし、きしと鳴る。

 泡を落としてよく見た。

 ペールブルーのマグカップの取っ手のところから、胴の半ばまで、蔦の模様とは違う灰色の線が入っている。

 ひびだ。

 注意して見なければわからないほどのひび。

 捨てなければ、とキョウコは思った。

 湯がマグカップからあふれ続ける。

 キョウコはこれから起こる痛みを想像した。

 けれど、惜しいと思わなかった。




〈了〉

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