月の秤 ジャンル:SF
### 第一章:軽すぎる魂の測定
夜間飛行の最終便が空を切り裂く音も、今や遠い残響となった真夜中。古い天文台の屋上には、ただ一人の男、古書店主のサワムラ・ケイ(38歳)と、奇妙な道具が置かれていた。
道具の名は「月の秤」。真鍮とガラスの古めかしい天秤は、何も乗せていないのに常に微細な振動を続けている。それは、星の重力ではなく、ケイ自身の心の微細な怯えと共鳴しているかのようだった。
支柱に埋め込まれた青白い月の宝石は、秤が単なる測定器ではないことを示している。 それは、対象者の心の歪みを調整者の心へと転写し、処理させる、非人道的な「共鳴装置」だった。
ケイがこの仕事を引き継いだのは、祖父が心の重さを失い、静かに自死を選んだからだ。 祖父が最期に書き残したメモには、「もう、自分自身を支える重さが、何一つ残らなかった」とだけあった。ケイは、自分の心が年々軽くなっているのを感じていた。彼は、祖父と同じ末路を辿ることを恐れ、他人の心の調整を続けることで、自分の心の重さが底をつくのを必死に食い止めていた。
ケイは、携帯電話の画面に映し出されたメッセージを読む。
> 【測定対象者:タチバナ・ミサキ】
>
> 職業:若手起業家(AI医療ベンチャーCEO)。
>
> 測定理由:幸福度変動率が異常値を示すため。心質量:理想値の40%。
彼女は社員には異常なほど優しく、「理想の上司」と評されるが、その裏で自らを捨てた母親への赦しだけは拒絶し続けている。
ケイは、ミサキが常に身につけている銀のペンダントを秤の片皿に乗せた。月の宝石が静かに輝く。
ペンダントの皿が、理想の重さを示す空の皿に対し、急速に下降する。ミサキの心の重さの不足??それは、幼少期に自分を捨てた母親への憎悪の裏返しである「自己否定」だった。彼女は成功することで、自分を捨てた母親に「私は価値がある」と証明したかったが、母親に届かない成功は、かえって自己否定の空隙を広げた。
ケイはアンテナを展開した。今、彼が秤に与えるのは、ミサキが目を背けてきた「真実の欠片」だ。
### 第二章:重さの転写(フラッシュバック)
「アルテミス、ミサキの携帯電話に、彼女の母親の現在の居場所と、三年前に病死した事実を、匿名で送信しろ。『あの時のこと、謝りたかった』という一文を添えろ」
ケイが送信を指示した瞬間、秤の皿に乗った銀のペンダントは、揺れるどころか、一瞬にして重力を失ったかのように、わずかに浮き上がった。
そして、爆発が起こった。
月の秤の宝石が、青から血のような赤に変わり、警告音を立てる暇もなく、ケイの全身に電流のような激しい痛みが走った。
「ぐっ!」
ケイはアンテナの傍らに膝をついた。それは痛みではない。ミサキの心の重み、すなわち、彼女が抱える制御不能な憎悪と、嵐のような自己否定の質量が、秤を通じて彼の心臓に直接流れ込んできたのだ。
ケイの視界が歪む。
嗅覚: 鼻腔に、病院の消毒液と、腐った木の葉のような、古びた「死の匂い」が襲いかかる。
聴覚: 耳元で、誰かのすすり泣きと、遠いサイレンの音が鳴り響く。
触覚: 心臓が、金属の檻に囚われて絞られているかのような激しい圧迫感を覚える。
「お前が悪い、お前が悪い、お前さえ生まれてこなければ……」
ミサキの心の声が、ケイの脳内で響き渡る。その憎悪と自己否定は、ケイ自身の心の防御壁を簡単に突き破った。
――夜。雨。天文台の屋上。祖父が立った、その場所。
「父さん、なぜだ!?」
十年前。ケイは、祖父が自死した後の屋上で叫んだ。祖父のメモが、雨に濡れて滲んでいた。
「もう、自分自身を支える重さが、何一つ残らなかった」
今、ケイの心は祖父の末期と同じ「軽さ」に、ミサキの憎悪という「異物」を上乗せされている。彼自身の心の重さが急速に失われていく感覚に、ケイは嘔吐しそうになった。
「破壊、ではない……調整だ!」
ケイは、震える手で秤の皿を凝視した。ミサキの皿は、後悔の重みで一度最下点まで沈んだ後、制御不能な加速で、空の皿を遥かに超えて上昇していた。
### 第三章:孤独の代償
ケイは、呼吸の仕方さえ忘れたように、深く息を吸い込んだ。彼は、最後の道具である水晶の砂時計を掴み取った。砂が流れ落ちる代わりに、光の粒子が流れる。「時間の楔(くさび)」だ。
ケイは、もはや躊躇しなかった。このままではミサキは自滅し、ケイも心の軽さに飲み込まれる。
「アルテミス、楔を発動。目標、平衡。ケイの命の重みを、ミサキの過剰な後悔に転写」
ケイは、砂時計をペンダントの上で傾けた。光の粒子が、ケイの左胸から引き抜かれるように発光し、砂時計を経由してペンダントの皿へと吸い込まれていく。
体から熱が奪われる。それは物理的な質量ではない。それは、ケイが「古書店主として生きる時間」「未来への小さな希望」といった、彼自身の生命が持つ「時間」と「存在の密度」だった。
ミサキの過剰な後悔という重みが、ケイから削られた「時間」という許容量によって分解され、希釈されていく。
夜明け前の空が、東の地平線から薄い紫色に染まり始めた頃、奇跡は起こった。
秤は、中央の目盛りでぴたりと静止した。銀のペンダントが乗った皿と、空の皿が、完璧な平衡を保っていた。支柱の月の宝石は、青でも赤でもなく、静かで穏やかな、乳白色の光を放っていた。それは、祖父が最期に見たであろう、命の重みが抜け落ちた後の、冷たい虚無の色でもあった。
その光が、ケイの心臓の痛みを止めた。しかし、ケイは立ち上がることができなかった。全身に激しい疲労感が残る。
『アルテミス』が告げる。
> 【測定完了】タチバナ・ミサキ氏の心の重さ、理想値と一致。感情の嵐は沈静化。心の質量は回復しました。
ケイは、秤の皿から銀のペンダントを回収した。彼の掌で、ペンダントは氷のように冷たかった。
### 第四章:均衡の冷たさ
数日後。ケイはニュースを見た。タチバナ・ミサキは会社を辞め、三年前に母親が過ごした病棟でボランティアを始めた。世間は彼女の「献身」を称賛した。
だが、ケイには分かっていた。秤の平衡がもたらした、その冷たさを。
彼女は、憎悪と自己否定を失った代わりに、感情の波を失っていた。ボランティア活動は、純粋な愛や赦しからではなく、「二度と心のバランスを崩さないための、最も効率的な贖罪と義務」として行われていた。ミサキは、完璧な平衡を手に入れた、完璧な虚無の器になっていた。
天文台の屋上。
ケイは秤をケースにしまいながら、自分の心臓の奥底を確かめる。
『アルテミス』が静かにささやく。
> 【警告】サワムラ・ケイ氏の心質量、直近の測定で理想値の65%まで減少。目標値70%を下回りました。このペースが続くと、一年以内に危険域に達します。
「そうか。また、軽くなったか」
ケイは、夜空を見上げた。冬の大三角形が、彼を見下ろしている。彼は、自らの命の重みを削って、他人の心のバランスを買い取っていた。祖父の孤独が、今、ケイの肩に乗っている。
アルテミスから、次の測定対象者の情報が届く。ケイは、重くなった真鍮のケースに触れた。真鍮を握る指先が、微かに、止めどなく震えている。それは、祖父の運命への恐怖か、それとも課せられた使命感か、彼自身にも判断できない。ケイは夜空を見上げ、震える指を拭わず、次の仕事へと静かに向き直った。
(了)
次の更新予定
AI短編小説集 猿のタイプライター @Gemini_AInovel
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