【第4章:一九九三年への予言 ――オデロの死に先駆けて】

 バーニィは戦うことを選んだ。だがその結末について、私たちは冷徹にならねばならない。この作品における彼の死には、戦略的な意味は一つもなかった。


 この作品におけるバーニィの死には、戦略的な「意味」は一つもなかった。

 彼の命懸けの特攻によってコロニーへの核攻撃が阻止されたのであれば、それは富野由悠季的な英雄譚サーガとして成立しただろう。

 しかし本作は、その僅かなカタルシスさえも許さない。

 劇中、バーニィがミンチになった直後、アルの父親が新聞を読みながら呟く。「核搭載の艦隊が投降して、攻撃は中止になったそうだ」と。

 そう、バーニィが戦わなくてもクリスが彼を殺さなくてもコロニーは助かったのだ。

 ここにあるのは運命的な悲劇ですらない。単なる連絡不全とタイミングのズレが生んだ、凄惨なだ。


 この「無意味な死」といえば、ある少年の名が浮かぶ。

 一九九三年のTVシリーズ『機動戦士Vガンダム』に登場する、オデロ・ヘンリークだ。

 彼は最終決戦の最中、ネームドキャラですらない雑兵モブの流れ弾に当たり、誰に見守られることもなく唐突に死んだ。

 世界を救うためでも誰かを守るためでもない。ただ「そこにいたから死んだ」というドライな不条理。これは「黒富野」と呼ばれる時期の富野由悠季が到達した、戦争描写の極北である。


 だが思い出してほしい。

 『0080』が制作されたのは一九八九年。あの『Vガンダム』が放送される四年も前のことなのだ。

 当時の富野由悠季は一九八八年の劇場版『逆襲のシャア』において、まだ「希望」を描いていた。アムロとシャアの対立の果てに、人の意思の光サイコフレームが共振し、地球に落ちる小惑星を押し返すというを肯定していたのだ。


 ここに『0080』という作品の持つ、空恐ろしい先見性が浮かび上がる。

 高山文彦監督らスタッフたちは、富野がまだ「ニュータイプの奇跡」を信じようとしていたその直後に、あえてその希望を全否定してみせたのである。

 「奇跡なんて起きない。想いは通じない。人はわかり合えずに殺し合い、後にはミンチだけが残る」

 彼らは一九八九年の時点で、四年後の富野が到達することになる絶望(Vガンダム)足を踏み入れていたのだ。


 バーニィの死は、後のオデロたちの死のである。

 いや、富野作品における死が、たとえ無惨でも「戦争の狂気」を告発する役割を持たされているのに対し、『0080』のそれはもっと質が悪い。

 なぜならこの悲劇は防ぐことができたからだ。

 アルがもっと早く真実を話していれば。クリスとバーニィが一言でも会話していれば。

 ちょっとしたボタンの掛け違いで人はゴミのように死ぬ。

 そこにドラマティックな意味など存在しない。あるのは圧倒的な「徒労感」だけだ。


 エンターテインメントにおいて、「死」とは最大の感動ポルノだ。視聴者は登場人物の死に涙し、そこに価値を見出そうとする。

 だがスタッフたちはバーニィを犬死にさせることによって、その「感動」すらも拒絶した。

 「お前たちはこの死に感動したいのか?バーニィが死んでよかったと思いたいのか?残念だったな、この死は何の役にも立たなかっただ」

 テレビ画面からそう突き放された時、私たちは行き場のない痛みを抱えることになる。

 その痛みこそが富野由悠季が叫んでも叫んでも届かなかった「戦争への嫌悪感」の、最も純粋な結晶ではなかったか。


 このOVAは「Vガンダムへの予言書」ではない。

 神・富野由悠季が長い苦闘の末にようやく辿り着くことになる境地を、若き反逆者たちが一足飛びに掠め取ってしまった完全犯罪の記録なのだ。

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