言葉が先に触れてしまった

江藤ぴりか

言葉が先に触れてしまった

    言葉が先に触れてしまった


 来てしまった、東京。

 しかも東京ビッグサイト。今日はコミケの小説版、文学フリマを目的にやってきた。


 近年、文フリは混雑するという。私は混雑するのは、勘弁だ。ゆったり事前調査なしに本を選びたい。

 時刻は十五時。ビッグサイトから帰る人は紙袋片手に疲れ切った様子だ。


 私はさっそく会場に入る。

 人の波は落ち着き、憔悴しきった出店者の顔。これなら立ち止まっても話しかけてこないだろう。そう安心していた。


 通路の人波が途切れている箇所があり、一瞬足を止めた。

 ワインレッドのクロスの上には、同じ背表紙の文庫が三冊、きちんと揃えられている。

 タイトルは抽象的で、内容は分からない。不自然なくらい整っている女の子の表紙に、十八禁のシールが貼られていた。

「グロいのかな? それとも……」

「ああ、いわゆる官能小説ですよ」

 私の独り言に出店者は返す。

 疲れ切った様子も見せない六十歳前後の男性。姿勢が良く、笑顔が丁寧すぎるほど整っている。

「あ、なるほど」

 私は表紙の女の子を眺めたまま、呟く。

「ええ、そうですね。ただ、いわゆるエロ小説とは少し違うんですよ」

 彼はそう言って、間を置いた。

「官能というのは構造なんですよ。感情と身体の配置。その関係性をどう描くかで――」


 説明は自然に、饒舌じょうぜつに続いた。

 比喩が多く、言葉が滑らか。私は相槌を打ちながら、文庫を一冊、指先で押さえた。

「長く書かれているんですか?」

「もう、だいぶになりますね。ゲーム黎明期れいめいきのころからTRPGもやっていて、物語というものをずっと考えてきました」

 黎明期、という言葉だけ少し宙に浮いた気がする。

 そして、彼は自嘲気味に続けた。

「自分は、サリエリみたいなものです」

 視線をそらし、顎に拳を当てた。

「天才ではない。でも、分かる側ではある」

 私は内心、どっちの文脈だろうと考え、曖昧に笑い返す。


 ふと、目に入った横には、小さな札が立っていて「既刊、ケンドルでも読めます」と書かれていた。

「ケンドルでも出版されているんですね」

「ええ。紙は手に取ってもらうためのもので。読むのは電子でいい。数字は……まぁ、本質ではないですから」

 私は文庫を閉じた。装丁そうていは生成AIなだけあって綺麗だ。それに、文字も読みやすい。

「この、『有象の欲』をもらえますか?」

「はい。五百円になります。もしよければ、ケンドルも見てやってください」

 彼はお釣りの五百円とともに名刺とノベルティの栞をくれた。

 栞には「欲に溺るる、人の玲瓏れいろうさよ」とのひと言と、青い薔薇。


 玲瓏……玉のように輝くさまなので、合っているのか? 分かった気になっていいのか、私は迷子になってしまった。



 大阪に戻った私は、疲れで眠れない夜を持て余していた。

「寄る年波としなみには勝てぬ……ってあの人みたいな言い回しかも」

 ぼんやり、あのサリエリおじいさんを思い出す。

「そうだ、一冊だけ買ったんだっけ」

 あのあと、時間は無情にも過ぎいき、私は会場を見回ることが叶わなかった。少し、計画が崩れたことに苛立つが、これも人の縁というものだろう。


「官能小説は……私も書いたことあったっけ。三本だけ書いて、苦痛だったな」

 ウェブの海に解き放ったそれは、数カ月経った今でも誰かが読んでくれている。嬉しいような、嬉しくないような複雑な気持ちだ。


 パラパラとページをめくり、読み進める。

 物語は不満を抱える女性社員が緊縛師と出会い、SMの世界に溺れていくというものだ。

「でも、比喩多めで何がなんだか……」

 文は整っている。でも、こういうものを読む人を混乱させるような表現の羅列。難しい語彙を使って、身体よりも言葉が立つような、そんな印象だ。

 読み終わり、感じたのは語彙を調べなくちゃな……という感想だった。


名取彼多なとりかなた』という筆名の書かれたSNSの名刺を取り出し、彼に感想をDMで送ってみる。

『本日、というか昨日はありがとうございました。ケンドルも買ってみることにします。主人公の女の子と緊縛師の出会いは鮮烈でした』

 簡潔に。でもちゃんと読んでますというアピールも押さえて。


 私はここで眠ってしまった。眠剤は効くなと思いながら、スマホを見ると、DMが。

 タップし飛び込んだのは、文字の圧だった。


 ご丁寧なご感想、ありがとうございます。

 昨日は会場でお話しできて嬉しく思いました。あの時間帯に立ち止まってくださる方は、正直あまり多くないので。

 ご指摘の「出会いが鮮烈だった」という点ですが、あれは意図的にそうしています。

 官能というものは、行為そのものよりも「踏み込む瞬間」に宿ると、私は考えていまして。

 身体が触れ合う前、言葉が先に身体を縛る——その順序を崩したくなかったのです。

 おそらく読みづらさを感じられた部分もあったかと思います。

 比喩が多く、語彙が前に出てしまうのは、私自身の癖でもあり、また限界でもあります。

 感覚的なエロスを直截に書く才能は、正直なところ、若い書き手のほうが優れているでしょう。

 私はどちらかと言えば、「理解してから興奮する」側の人間でして。

 そのため、どうしても文章が構造寄りになってしまう。

 官能を情動ではなく、配置として捉えている、と言い換えてもいいかもしれません。

 よく「それはエロ小説なのか」と聞かれます。

 私自身、その問いには今でも明確に答えられていません。

 ただ、身体を書くことから逃げているわけではなく、言葉でしか触れられない身体がある、と信じて書いています。

 ご感想の中にありました違和感や引っかかりも、もし時間があれば、ぜひそのまま大切にしていただければと思います。

 読み手の中に残るものがあるなら、それが答えだと、私は思っています。

 また何かお気づきの点があれば、遠慮なくお聞かせください。

 長文になってしまい、失礼しました。


 きょうびの「おじさん構文」でもこの圧には負けるだろう。なんといっても、感想に対しての返事が創作論とは。私が書き手というのは伝えていない。読者は創作論より、創作背景に興味を持つと思うのだが……。私がズレているのか。


 どうしようか。返信は送るべきか? これは迷ってしまう。

 とりあえず、今日は寝かせて考えることにしよう。



 翌朝。私はDMの内容を熟読する。

「なにが言いたい? この人はいったい……」

 私のつぶやきに、夫が起きてしまう。

「……?」

「あ、ごめん。起こしちゃったね」

 私は無言で文の構造を理解しようとする。

 感想に対する言及は前半のみなので、読んでない訳ではない。でも話したいことが創作論で、誰かに聞いてほしいという承認欲求が見える。――そうか。


 作家というのは自分の世界を大切にする。それがあの空回りようなのだろう。

 私は彼と書き手というのは秘密にしてやり取りを続けた。

「いちばん読まれた作品はどれですか?」

 この問いは、彼を刺激するものだった。


 どれが一番読まれているか、ですか。

 そうですね……正直に言えば、私はあまりその問いを信用していません。

 読まれる、というのは非常に曖昧な言葉です。

 ページを開いたのか、最後まで目を通したのか、あるいは数行で閉じられたのか。

 数字はそれらをすべて同列に扱ってしまう。

 若い頃は、私もランキングや売上を気にしました。

 ですが、ある時期から分からなくなったのです。

 多くの人に消費されることと、少数の人に深く届くことは、同じ価値なのか、と。

 官能表現というのは、特にそうです。

 刺激が強いものほど、瞬間的には読まれる。

 けれど、あとに何が残るのか。

 身体の反応なのか、言葉の手触りなのか。

 私は後者を選びました。

 それは逃げだと言われれば、否定はできません。

 ですが、言葉を尽くして構築した官能は、時間を置いてから効いてくるものだと信じています。

 ですから、「一番読まれた作品」を答える代わりに、「一番、理解されるまで時間がかかる作品」を書いている、そう言ったほうが、私には正直です。

 売れること、届くこと、残ること。

 それらは似ているようで、まったく別のものです。

 どれを選ぶかで、書き手の姿勢は決まる。

 私はたぶん、要領の悪い選択をしてきました。

 けれど、その不器用さだけは、今さら捨てられないのです。


 私は少し納得しかけ、違うだろとひとりでツッコミを入れていた。

 そして「なるほどです。誰かに届けるのがいちばんですもんね」とだけ返したのだった。



 返信は昼くらいに届いた。


 そうですね。誰かに届ける、というのは大事なことだと思います。

 官能というのは、誤解されがちですが、単なる性的描写の強度ではないんです。

 むしろ僕は、官能とは“理解した瞬間に立ち上がる感覚”だと考えています。

 たとえば、行為そのものを書かなくても、なぜその人がそこに至ったのか、どんな思考や躊躇があり、どこで踏み越えたのか、そこまでを論理的に積み上げることで、読者の中に自然と熱が生まれる。

 僕はそこを一番大切にしています。

 感情をそのまま垂れ流すのではなく、一度分解して、構造として提示する。

 そうすることで、読み手は〝自分で理解した〟という感覚を持てる。

 その主体的な理解こそが、官能だと思うんです。

 だから、わかりやすさよりも必然性ですね。

 なぜこの言葉なのか、なぜこの順番なのか。

 そこが伝われば、過激である必要はない。

 もちろん好みはありますし、直感的な官能を否定するつもりはありません。

 ただ僕は、書き手として、興奮を説明できない状態が少し怖いんです。

 届けるというのは、感情そのものではなく、その感情が生まれる〝仕組み〟まで含めて、だと思っています。


 私はこの返信には、開いた口が塞がらなかった。

 そこまで聞いてない。私は相手から返信がないように送ったつもりだ。どうやら伝わらなかったらしい。


 作者は独りよがりで、本当に自分の作品が面白いかどうか、気になってしまうものだ。

 かくいう私も「本当に面白いのか?」と思いながらネットの海に作品を放流している。

 私は書きたいものを書くだけだ。読者がどんな感想を抱こうと自由であるべきだ。解釈は人それぞれだ。

 特に趣味の範疇で、無料公開しているうちは、読者のニーズは気にしなくていいだろう。だが、想定読者がいる公募やウェブコンテスト、商業作家は多少、読者のニーズを気に留めておいたほうがいい。


 家事を終えた私は、ノートパソコンの前にいる。

 今日も気の向くままに小説をつづるのだ。





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この物語はフィクションです。

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