鞭使い

きのはん

鞭使い


「おい、鞭使い、ムチの奴、居たよな。出てこい。ご指名だ」

 管理の役人が張り上げた声が、俺を呼び出すものだと気付くのに少し遅れた。

「お前、お前。お前だよな、簿にあるムチの使える武芸者は」

 役人は俺を見つけると、他の連中と見比べながら近づいて来て言葉を続けた。

「お前。というかお前しか居ないよな、今ここでムチ得物えものにしている武芸者は。簿を見る限り、得物えものムチで記されていてここに寝泊まりしている武芸者はお前だけだった筈だしな。だから、お前だ」

 俺の顔と腰に巻いて携えた鞭を交互に見てからまた言った。

ムチの勝負がしたいんだそうだ、あの御仁ごじんがな」

 俺を見る目にも、あの御仁ごじん、とやらに対しても、どこか奇妙なものに対して俺には理解出来ないけどな、という気持ちを含んだ声の響きで、役人はその御仁ごじん、を肩肘を張るような身振りで示した。


 屋根と寝床のある場から出た所に、その男は立っていた。勝負の相手に俺を指名したという御仁ごじんとやらだ。

 体は俺よりも明らかに大きい。しかし、引き締まっている。剛健に引き絞られたような体つきの男だ。俺よりも年上に見えるが、肌には張りがある所から見て、良いものを食べて暮らす身分なのだろう。

 しかし金持ちなのかは分からない。死ぬ事もよくある武芸の勝負を挑んでくる金満家、というのは俺の故郷であったなら想像しにくいが、ここは王の令により武を重んじる西涛せいとうの国。この土地ならばそういう者も居るのかも知れない。

 大きな体を重ねておおう男の衣は分厚く小奇麗で、下品には見えない程度に金の刺繍も入っているから、金に困る者ではないのであろう。

 食事は薄粥続きの上に、すすけた衣一枚の俺とは大違いに思える。


 しかし、一つ共通するものがあった。ムチである。

 太い、長いものが巻いた状態で腰に下げられている。やや背の側に帯びているから細かい形は良く見えないが、あの形状は間違いなくムチで、それを手に馴染ませている事も立ち姿から自然に伝わる。

 こいつは、鞭使いだ。

 俺と同じ、ムチの使い手。



 ムチ、である。

 今も、俺の腰には巻いた状態で携えている、そして柄に触れると落ち着く事から大抵の場合は握り込んでいる俺のムチ。我が得物えもの。寝起きも共にしてきた体の一部。

 俺にとっては大切なものだ。俺自身と言っても良いかも知れない。

 

 とはいえど、昨今ではムチを兵の物、武器として用いる者はそう多くない。

 それも仕方の無い事である。なにせ、元々これは合戦かっせんで人をたおす事を目的として作られたものではなかったからだ。

 振り方を覚えれば大きな音が鳴る。その音で家畜を躾けるのに便利な道具だ。

 短い棒状のものならば馬に乗るのに使うのも良い。

 また、害を為す獣や罪人には打ち付けて痛みを与える処刑具や拷問具のようにも用いられるが、それはあくまでも素早く動く事の無い対象を打ち据えるだけのものだった。


 本来ならば、いくさで鎧をまとった敵を討つのには向かないし、素早く動く武芸者を相手に取って勝ちを得るのに向いた道具とは成りがたい。


 だがしかし、いつの時代にも奇才というのは居たもので、ある時代にはそれなりに長いムチを変幻自在に扱って無敗を誇った武芸の名手が居たという。

 その武芸者は合戦かっせんの場にもムチを用いて、挙げた武功は数知れず。その功績を以って一城の主にまでなったとの伝説がある。

 そして、いつの時代にも流行りというものは有るもので、その武芸者の名が響くにつれて、ムチを腰に携える武芸の修行者は数を増し、武功を立てて得たという地位に魅かれてか、鞭を戦法に組み入れた兵法を学ぶ者が増えたとも伝わる。


 そう伝わっている。

 少なくとも、俺は師からそう教わった。

 そしてその伝えの続きによると。


 やはり、いつの時代にも流行りにはすたりが有るもので、長いムチを巻いて腰に携える者は、今ではとんと見かけなくなってしまった。

 名手の名が響いていた時代が過ぎて、みんな気付いたのである。「これは扱い辛いし戦うのなら槍や剣で十分ではないか」という事に。

 名手の逸話も遠い昔の伝説となり、その城がどこに在ったのか、そもそも本当の話なのかも詳しく聞く事は無くなってしまった。


 おまけにいつしか「昔、腰に巻いたムチを下げて歩くのが流行ったらしいな」「恰好の悪い。何の意味が有るんだよ。牧童でも処刑人でもあるまいに」などとまでに言われる始末。

 世は世知辛い。かつては一世を風靡して弓、槍、剣と並び武の象徴になりかけた事もあった筈のムチではあったが、今となっては嘲笑の対象にさえなりかねないのだ。


 いや、分からない者には笑わせておけば良い。

 そういった者たちよりも苦々しく思うのは、ムチと名付けて武器としながら、巻く事もしなりを活かす事も無い鉄の棒きれを鎖で結んだような奇妙な棍棒を得物えものとして幅を利かせる幾人かの武芸者気取りが鞭使いとして戦場に出た事が話題となって、少なからぬ者たちの中では「ああ、これが武器として使うムチという物なのか」と印象付けられてしまいつつあるこの現状だ。


 俺自身、その棍棒をムチと呼ぶ者が往来でそれを振り回し、これが伝説の武芸だ、と吹聴する声が有るのを修行時代に買い出しに出た街で見た事が有る。

 酷いものだった。

 まず、あれはムチでは無いし、使い手も身のこなしを見る分に武芸者を名乗るに値するだけの稽古を積んでいないのは明白だった。

 足も腰も出来上がっていない。自らの体の重みを動きの基礎とする事も身に付いていない。得物えものに対して波のように力を伝えるわざの基本もその動きからは見て取れなかったし、そもそもが体の内側を練る鍛錬を積んでいないままに棍棒を振り回す姿は素人の喧嘩自慢が固そうなものを掴んで振り回すのと変わり無かった。



 その時は、あんなものが世間ではムチとされてしまっているのか、という暗澹とした気持ちを抱えて買い出しから戻り、師に見たものを簡潔に話してまた稽古に入った事を憶えている。

 あの頃の稽古は、足腰の鍛錬と重心移動、それに体内の練りと連動の訓練ばかりを命じられていて、ムチを手に取って操る方は短い時間しか許されていなかった。

 あの頃の師はよく言っていた。

「分からん奴には分からんものだ。それにな、人の世の流行りすたりを相手にしても自分の腕が上がる訳じゃ無し、今は基礎の鍛錬を続けるが良い事だ。自分の体を練り上げたなら、後はムチなど自然に振れる。体の重みがムチを支える。体の起こす波が自然にムチの先まで伝わるようになる。そうなればお前自身が本来のムチだ。何が本物かなど、気を煩わすまでも無くなる。その時お前がムチそのものになっているのだろうからな」


 そんな風に伝えてくれた俺の師も、五年前、俺に武芸の代を譲るとその翌年には世を去って、俺にはムチと磨いた技だけが残された。


 三年前になる。ムチわざを磨いて生きて来たからには、これによって武名を立てるのが、師から受け継いだ武芸を己自身とした者として生きる道かと考えて、故郷を離れ、武人を重んずると噂に聞こえた西涛せいとうの国までやって来たというのに、この国にあってもやはり武芸と言えば弓、槍、剣が主として幅を利かせていることは大して変わらず、それでも故郷に比べるならば幾らかは武芸のわざとしてムチも認識されていた。

 認識されてはいたのだが。

 その認識されているムチは、やはりと言うべきか、あの鎖で繋いだ奇妙な棍棒の方を指していて、俺が巻いて腰に携えている本来のムチは武芸の得物えもの、合戦においても武芸者同士の立ち合いにおいても他に引けを取る事が無い力を秘めている物なのだとはなかなか理解が得られない。


 これこそが、本来の、正当なムチなのに。余程の玄人くろうとでもないと分からないものなのか。

 相棒たるムチの柄を握りしめ、気を抑え込む。


 もっとも、何が本来のムチかと問うならば、それは大きな音を鳴らしたり獣や罪人への戒めに使うものの方だろう、と言われてしまえば言い返す言葉も無いのだが。


 何をするにも、上手く行かない時期はあるものだ。現に今。磨いたわざを活かす機会にはなかなか出会えず、常に腹が減っている。

 独り、長い旅を経てこの国に辿り着いてから、遠く俺の故郷にも武芸好きの変わり者として噂が届いていたほどに有名な西涛王せいとうおうが出した令にあずかってみやこを守るせきの番人に武芸者だと名乗り、得物えものムチだと簿に記し、役人の指示に従って武の芸ある者が住まう事を許された雨露をしのげる屋根と固い寝床だけがあるこの場に寝泊まりしているのだが、生憎の事に腕を認められる事がかなわない限り、食事は出ない。勿論の事、給金も。


 そんな訳で、俺は手持ちも少なくなってきて一日の食事も安い出店で昼と夕にとる薄い粥だけの日が続いている。


 続いているのだ。


 これはあぶない。

 何せ、故郷から持って来た路銀も、旅路たびじの途中で暴れ牛を抑えて礼にと受け取った銀の粒も、襲い掛かって来た盗賊から取り上げた金目の物も、ここでの暮らしを続ける中で殆どが粥に代わって胃に入り、かわやで外に出て行ってしまった。

 このまま行くと、胃に入る物も出て行く物もなくなって、立派な餓死者の出来上がりだろう。そうなる時も遠くは無いように思える懐具合だ。


 しかし痩せても枯れても武芸者たるもの、武のわざ以外を糧とするようでは半人前とそしられてしまう。

 そういうものなのだ。この世の中で、ことさらに王の令により武を重んじると聞くこの国にあってはなおさらだろう。



 そこに聞こえたのが「おい、鞭使い、ムチの奴、居たよな。出てこい。ご指名だ」というあの声だった。

 そして俺に挑戦しに来てくれた、御仁ごじんとか呼ばれるこの男。

 今、俺はようやく武芸者としてわざ西涛せいとうの地でふるえる機会に出会う事ができたのだ。


 俺はまた、挑んできてくれたこの男が携えるムチに目をやる。俺の体が、意志が、武芸者としてのそれが内側から起き上がって来るのを抑えられない。


 両足に力を入れてからまた抜いて、自分の体の重さと腰に携えている俺のムチを確認してから、役人の視線を背に受け男と共に広場まで出る。

 この土地で雨露をしのぐ寝床を与えられた武芸者は、挑まれたならば受けて立つのがそのしきたりだ。


 勝てば己の武名が上がり、褒賞が得られる。

 挑まれた闘いを拒むのならば簿に武芸者と記した事を罪とされ、西涛せいとうの土地にじゅうする事を禁じられてしまう。

 しかし、俺はしきたりとは別に、当然の事として挑戦を受ける。武名や褒賞とも、今回は別だ。


 心の奥では、この男が挑んで来てくれた事、俺を鞭使いとして指名してくれた事、何よりもムチムチわざを比べられる事に踊るような喜びがあった。それはどこか、誇らしさにも、暗い所から陽の光の下に出たようなおおらかさにも似て、奇妙な昂揚として感じられた。


 俺もムチ。相手もムチ。あの鉄製の棍棒ではない本物のムチ自体が得物えものとしては珍しいものなのに、まさか鞭使い同士で戦う時が訪れるとは。


 俺の歩みや表情に緊張とは真逆のものを察しての事だろう。広場で俺が男との間に距離を取って立ち、いざ構えんとする際に、立ち会い人として来ていた役人は、

「おい、本当に、いいんだな」

 と念を押すように確認を入れて来た。

「勿論だ。勝ち負けのはん、宜しく願う」

 そう返してから、向かう男に小さく礼をして腰のムチを足元に広げる。


 ゆうに俺の身の丈以上は有る長さの鞭だ。長い時をかけ油でめた革編みのムチ。腰に携えて持ち歩く為に束ねられて巻かれた姿から、手に握る柄より伸びて先端までの長さを開放した姿に変わる一時ひとときでさえも、本物のムチを見慣れない者には目で捉える事が出来なかったからだろう。

 役人だけでなく、広場に見物に集まった他の武芸者や通りすがりの人々もムチが広がっただけで、おお、と声を漏らした。

 当然に、その声を出させたのは俺だけでなく、同じ得物えものを展開させた目の前の男に対するものでもあったのだろう。携えていた鞭を広げるのも、俺と殆ど同時であったのだから。


「まだ、名乗っていなかったな。私はロウだ。お前の名前は?」

 男が名乗った。声は低く、落ち着いている。その足元に広がるムチには動きが一切無いが、十分な闘志が張り詰めているのが得物えものの方から伝わって来る。長さは俺のそれよりも、いくらか長い。

「ああ、失礼した。イ、だ。俺の名前は。聞き取りにくいかな。俺の名前は。発音が、独特だから」

 男のムチに気を向けたまま、名乗りを返す。

「『リ』だな。聞き取れたとも。じゃあ始めよう」

 聞き取れていないじゃないか、と言いたい所だがこの地ではよくある聞き取りの違いだから、慣れている。俺の故郷とは、発音自体が違うのだから仕方ない。

「ああ、始めよう」

 言い終えた時には、お互いに間合まあいを整え終えていた。

 そして同時に、動く構えも。



 地に広がっていた男のムチが、先端部から動いたように感じられた。

 俺はそれを見るよりも先に左に飛んで攻撃を躱す。

 男の握る柄、手元から動きが伝わっている筈なのに、ムチの先の動きの方が早く出た。少なくとも、そう感じられたし、それでもなおこの男が最初の一打を様子見に撃った事が俺には分かった。

 これはたまらん。見事な腕だ。


 そこで男は動きを止めて、俺を、視界に映る全体の中で静かに見つめる。こちらが次に出す反応に応じて返す形での術技を決めようと狙っているようだ。

 今の一打目には、躱した時にもムチくうを撃った時に先端部が発する破裂音が伴わなかった。

 放たれた先端部は、通常ならば伸びきったと同時に手元を引き戻すことにより対象を撃ち抜く瞬間にだけ爆発的な威力を示す。そのムチムチたる基本の仕事をしなかったのだ。

 しかしこの男、手加減をしている訳では無いだろう。放たれたままの先端部が俺の右足近くの地面に伸びたままの状態で降りている。やはり引きの動作を抜いているのだ。そして、これは意図的なものだ。


 この状態から、どう仕掛けるのか。いや、俺の方から攻め掛かるなら、如何にして攻めようか。相手のムチの攻撃に用いられる先端の部分はまだ俺の右足の近くだ。引き戻す気配も見えない事から、ここから既にこいつのわざは仕掛けが始まっているのであろう。

 俺は視界の中に相手の姿を外さぬままに、地に降りたままの先端部を意識する。


 その時に、おや、と気付く。

 とげが有る。

 この男のムチには、とげが生えている。

 付いているのではない。生えている。

 いばらムチだ。


 その機を突いて、右足近くから俺の頭部へ。ムチの先端部が高速で跳ね上がる。


 いばらって、こんなムチ、本当に存在したのか。いばらをそのままに武器としたムチ。子供時代の噂話みたいな伝説でしか聞いた事が無い。

 ムチとして十分な太さ、長さ、しなやかさ、丈夫さ、しなり。それらを適える材料のいばら自体が、どこで手に入るのかも想像が付かない。材料が手に入ったとして、どうやって作るのだろう。一体。これを。


 そんな事が頭を占めるが、俺の体は頭の中とは関り無しに自然な動きで攻撃を躱す。長年かけて磨いた動きは思考を離れ、自動的とも言えるものになっていた。まず重心を落として体勢を下げ、頭部への攻撃を地面に向かって沈み込むような感覚で上体も同時に折り曲げて避けた。

 破裂音。

 下げた頭のすぐ上だ。


 俺が躱せた事を感じ取る間に、くうを撃ったその先端は、引き戻される動きが殆ど感じられない速さで間を置かず上から真下へと向かい、俺の頭部を打ち下ろす動きに変わる。

 顔面を伏せかけていた俺にその先端は視界の範囲より外にあったが、見えた範囲で先端部へと繋がっている相手のムチの柄の近くが、操る手元が、まだ変わらずに伸ばしたままで活きた動きを続ける気配を見せていた。

 見たものを解釈する事より先んじて、無心の反射で躱し続ける必要を己の体が意識とは別に選択していた。体重によって自分自身が落下するようにして躱した動作をそのまま止めず、俺は斜め横の地面に向けて重心を流し、軌道を変えたムチの先端部から逃れるように体をひねる。


 破裂音。これも躱せた。

 しかし狙いを外しても、このムチの先端は地面には当たらない。

 使い手の絶妙な引きから生まれる張りによって制御され、また空中で動きを変えて俺の急所を追って来るということだ。

 俺は殆ど這いつくばるように上体を折りつつも、体を上手く畳むようにしていた事で足は膝をついてはいない。地面までの隙間は僅かだが、重心をそこからさらに落としてその場で独楽こまが回転するように全身をずらし、自分の体の重さを内側で波打たせるように柔らかく流し、片足を伸ばしてまた横に避けていた。そして次ぐ攻撃も伸ばした方の足に体重を流し込み、また体ごと地面に引かれながら位置をずらすようにして躱し続ける。

 躱した数だけくうが撃たれて鳴り続ける破裂音。

 防戦一方ではあるが、まだ一撃も喰らってはいない。

 け続ける俺の動きは全て無心だ。

 相手のムチの動きを頭で考えて動いていたら撃ち抜かれてしまう速さなのだから。


 細かく言えば、心の中に何も無いという完全な無心ではない。「いばら、本当にいばらだ、どう加工したら実用可能なムチになるのだろうか。あれを作れる武器職人なんて今の世の中に実在するのか」とかそんなことを気にしていたのだが。


 どれだけの回数連続した攻撃を躱し続けたのかも分からないままだが、破裂音が収まった所で変化を伴って続いていた攻撃が一旦収まったのだと感じ取り、俺は腰を上げて上体を戻し、軸になる足を替えてからまた立ち向かう構えを取り直す。

 男はムチの先を引き戻し、さあどうするね、とでも言いたげな顔をしていた。その佇まいは、出し物を楽しみに待っているようにも見える。


 俺は突然、攻められっぱなしで申し訳ないな。そんな気分に陥った。

 我ながら、それを不思議に思う。

 何に申し訳がないのだろうか、俺は。

 凄まじい武芸を示して見せたこの男に対してだろうか。

 け続けるだけの自分がだろうか。

 俺に武芸を仕込んでくれた師か。

 或いは、ムチとして振るわれていない俺のムチにか。


 分からない。だが俺は鞭使い。俺のムチに、仕事をさせてやらないと。


 切り替える。気持ちよりも、体の方を。

 構えは変えず、ほんの僅かに体を伸ばし、体の内側だけでそこからめる。全身を。そして体が浮かない程度に全身の伸びとめを同時に使って地面に沿ったまま足を後方へ滑らせて重心をずらし、瞬き一つする間だけで立ったまま全身を一歩分後ろに移す。前後の空間を滑り落ちる感覚だ。

 真横から見ていた見物人には、俺の立つ位置が瞬時に移動したと見えた事だろう。目の錯覚を疑ったかも知れない。そして正面に立つこの男には。

 頭の高さを殆ど変えず、足を明確に曲げ伸ばししないまま後ろに下がった俺の動きも、正確な距離も、捉えきれてはいないのだろう。

 そして、後退した俺の体とは別に大地に広がり置き去りにされたような俺のムチ。しかし握った柄から繋がっている俺のムチ

 その先端部。

 一歩分。限りなく短い時間に生じた俺の手元との長さの、引きとも言えない張りの変化が柄から動きの波として伝わると、斜め前方へ向かってムチの先端が跳ね上がる。

 俺のムチは相手のものより少し短いが、勝負の間合いには十分に足りる。

 先端から伸び上がる俺のムチ

 破裂音。

 顎先から額を掠めて男の頭上まで伸びきった。首を反らして躱しながら一瞬で俺との正確な距離を測り直すこの男。俺と同じで無意識なのだろう。躱してすぐにを空けず、反らした首を戻しつつ右側に飛んだ。


 どんな武芸者にも、自然に身に付く共通の癖が有る。

 己の身に付けたわざ、己が放つことの出来る術技は相手も同様に使うものだと体が備える。実際に相手がそれを使えるのかとは関係無しにだ。鍛錬を重ねた武芸者であるほどに、そうした反応をしてしまう。おそらく今こいつが右に飛んだのは、先にこの男が俺に撃ち込んだ連続攻撃の始まりにおいて、ムチの先端で俺の足元から頭部を狙い、俺に躱された直後には上から下へと軌道を変えて打ち下ろしたものと同じ変化の攻撃、この男が俺に放ったムチの動きを、今から続く俺からの連続攻撃として襲い来るものだと予測して、次に打ち下ろして来る攻撃を回避する動作が反射的に出てしまったものだろう。これは頭ではなく体が反応してしまうから、高い技量を持つ者であればこそ意識して止める事の出来ない動きの癖だ。


 しかし俺は打ち下ろさない。


 鞭使いであるが故なのか、こちらもこの男の癖が体で分かる。

 最初に一連の攻撃を受けただけでも、よく分かる。

 この男の攻めは、ムチが先端部まで伸びきった状態からの精妙無比なる操作によって体現される軌道の変化。上下左右、斜めの振りによる急所へ向かう攻撃だ。おそらく主に狙うのは頭部とあばら。余裕があれば、一撃での決着を狙わずいばらとげを搦めて相手の自由を奪う技法も備えているだろう。足への巻き付け等もあるかも知れない。


 分かる、分かるぞ。やはり俺は鞭使い。そしてこいつも鞭使いだ。

 だから分かる。

 こいつは、この男は、ムチの操作が巧過うますぎる。自在と言っても良いだろう。だからこそ、この男には俺の決め技が読めない筈だ。


 男は無意識のまま俺の攻撃を回避することに成功した、と感じた事だろう。

 そしてその次に、気付いた筈だ。癖として予測した範囲に、俺の鞭の先端が舞う姿は残像すらも見えない事に。くうを切る影も。続く破裂音も無かった事に。

 それは俺のムチが反応出来ない程に速かったからではなく。

 俺がこの男よりも操作に巧みだったという訳でもなく。


 只、俺はムチムチとして基本の通りに扱ったというだけだ。


 放たれた先端部は、伸びきったと同時に手元を引き戻すことにより対象を撃ち抜く瞬間にだけ爆発的な威力を示す。それがムチムチたる基本の仕事。

 伸びきった瞬間に引き戻す事で、ムチは剛直な槍と化す。


 俺のムチの先端は、男の胸の骨を真っ直ぐに撃ち抜いていた。


「見えなかっただろ?まっすぐに撃たれると、自分と相手を繋ぐ線か点にしか見えないからな。ムチは」

 既に俺の声が聞こえていない事は手応えで分かっていたが、同時に伝わっているような確信も有る。


 心の臓を守る骨は、胸でも背でも活殺の急所。

 だがこの男、体にしなりがあると見えたから、おそらく気絶で済むだろう。

 立ち会っている役人か、見物に来ている武芸者の中に、かつを入れられる奴も居るのだろうし、息を吹き返したら何か食べながらこいつとムチの話をしてみたい。

 勝ったのだから、褒賞も幾らかは貰えるだろう。

 奢ってやっても良いかもな。


 最初にくのは「いばらムチって、どうやって作るの?」だ。


 俺の故郷なら、そんな宝物ほうもつを手に入れられるのは望むもの全てを自在に出来る国王くらいのものだろうから。




〈鞭使い おわり〉















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