鞭使い
きのはん
鞭使い
「おい、鞭使い、
管理の役人が張り上げた声が、俺を呼び出すものだと気付くのに少し遅れた。
「お前、お前。お前だよな、簿にある
役人は俺を見つけると、他の連中と見比べながら近づいて来て言葉を続けた。
「お前。というかお前しか居ないよな、今ここで
俺の顔と腰に巻いて携えた鞭を交互に見てからまた言った。
「
俺を見る目にも、あの
屋根と寝床のある場から出た所に、その男は立っていた。勝負の相手に俺を指名したという
体は俺よりも明らかに大きい。しかし、引き締まっている。剛健に引き絞られたような体つきの男だ。俺よりも年上に見えるが、肌には張りがある所から見て、良いものを食べて暮らす身分なのだろう。
しかし金持ちなのかは分からない。死ぬ事もよくある武芸の勝負を挑んでくる金満家、というのは俺の故郷であったなら想像しにくいが、ここは王の令により武を重んじる
大きな体を重ねて
食事は薄粥続きの上に、
しかし、一つ共通するものがあった。
太い、長いものが巻いた状態で腰に下げられている。やや背の側に帯びているから細かい形は良く見えないが、あの形状は間違いなく
こいつは、鞭使いだ。
俺と同じ、
今も、俺の腰には巻いた状態で携えている、そして柄に触れると落ち着く事から大抵の場合は握り込んでいる俺の
俺にとっては大切なものだ。俺自身と言っても良いかも知れない。
とはいえど、昨今では
それも仕方の無い事である。なにせ、元々これは
振り方を覚えれば大きな音が鳴る。その音で家畜を躾けるのに便利な道具だ。
短い棒状のものならば馬に乗るのに使うのも良い。
また、害を為す獣や罪人には打ち付けて痛みを与える処刑具や拷問具のようにも用いられるが、それはあくまでも素早く動く事の無い対象を打ち据えるだけのものだった。
本来ならば、
だがしかし、いつの時代にも奇才というのは居たもので、ある時代にはそれなりに長い
その武芸者は
そして、いつの時代にも流行りというものは有るもので、その武芸者の名が響くにつれて、
そう伝わっている。
少なくとも、俺は師からそう教わった。
そしてその伝えの続きによると。
やはり、いつの時代にも流行りには
名手の名が響いていた時代が過ぎて、
名手の逸話も遠い昔の伝説となり、その城がどこに在ったのか、そもそも本当の話なのかも詳しく聞く事は無くなってしまった。
おまけにいつしか「昔、腰に巻いた
世は世知辛い。
いや、分からない者には笑わせておけば良い。
そういった者たちよりも苦々しく思うのは、
俺自身、その棍棒を
酷いものだった。
まず、あれは
足も腰も出来上がっていない。自らの体の重みを動きの基礎とする事も身に付いていない。
その時は、あんなものが世間では
あの頃の稽古は、足腰の鍛錬と重心移動、それに体内の練りと連動の訓練ばかりを命じられていて、
あの頃の師はよく言っていた。
「分からん奴には分からんものだ。それにな、人の世の流行り
そんな風に伝えてくれた俺の師も、五年前、俺に武芸の代を譲るとその翌年には世を去って、俺には
三年前になる。
認識されてはいたのだが。
その認識されている
これこそが、本来の、正当な
相棒たる
何をするにも、上手く行かない時期はあるものだ。現に今。磨いた
独り、長い旅を経てこの国に辿り着いてから、遠く俺の故郷にも武芸好きの変わり者として噂が届いていたほどに有名な
そんな訳で、俺は手持ちも少なくなってきて一日の食事も安い出店で昼と夕にとる薄い粥だけの日が続いている。
続いているのだ。
これはあぶない。
何せ、故郷から持って来た路銀も、
このまま行くと、胃に入る物も出て行く物もなくなって、立派な餓死者の出来上がりだろう。そうなる時も遠くは無いように思える懐具合だ。
しかし痩せても枯れても武芸者たるもの、武の
そういうものなのだ。この世の中で、ことさらに王の令により武を重んじると聞くこの国にあってはなおさらだろう。
そこに聞こえたのが「おい、鞭使い、
そして俺に挑戦しに来てくれた、
今、俺はようやく武芸者として
俺はまた、挑んできてくれたこの男が携える
両足に力を入れてからまた抜いて、自分の体の重さと腰に携えている俺の
この土地で雨露をしのぐ寝床を与えられた武芸者は、挑まれたならば受けて立つのがそのしきたりだ。
勝てば己の武名が上がり、褒賞が得られる。
挑まれた闘いを拒むのならば簿に武芸者と記した事を罪とされ、
しかし、俺はしきたりとは別に、当然の事として挑戦を受ける。武名や褒賞とも、今回は別だ。
心の奥では、この男が挑んで来てくれた事、俺を鞭使いとして指名してくれた事、何よりも
俺も
俺の歩みや表情に緊張とは真逆のものを察しての事だろう。広場で俺が男との間に距離を取って立ち、いざ構えんとする際に、立ち会い人として来ていた役人は、
「おい、本当に、いいんだな」
と念を押すように確認を入れて来た。
「勿論だ。勝ち負けの
そう返してから、向かう男に小さく礼をして腰の
役人だけでなく、広場に見物に集まった他の武芸者や通りすがりの人々も
当然に、その声を出させたのは俺だけでなく、同じ
「まだ、名乗っていなかったな。私はロウだ。お前の名前は?」
男が名乗った。声は低く、落ち着いている。その足元に広がる
「ああ、失礼した。イ、だ。俺の名前は。聞き取り
男の
「『リ』だな。聞き取れたとも。じゃあ始めよう」
聞き取れていないじゃないか、と言いたい所だがこの地ではよくある聞き取りの違いだから、慣れている。俺の故郷とは、発音自体が違うのだから仕方ない。
「ああ、始めよう」
言い終えた時には、お互いに
そして同時に、動く構えも。
地に広がっていた男の
俺はそれを見るよりも先に左に飛んで攻撃を躱す。
男の握る柄、手元から動きが伝わっている筈なのに、
これはたまらん。見事な腕だ。
そこで男は動きを止めて、俺を、視界に映る全体の中で静かに見つめる。こちらが次に出す反応に応じて返す形での術技を決めようと狙っているようだ。
今の一打目には、躱した時にも
放たれた先端部は、通常ならば伸びきったと同時に手元を引き戻すことにより対象を撃ち抜く瞬間にだけ爆発的な威力を示す。その
しかしこの男、手加減をしている訳では無いだろう。放たれたままの先端部が俺の右足近くの地面に伸びたままの状態で降りている。やはり引きの動作を抜いているのだ。そして、これは意図的なものだ。
この状態から、どう仕掛けるのか。いや、俺の方から攻め掛かるなら、如何にして攻めようか。相手の
俺は視界の中に相手の姿を外さぬままに、地に降りたままの先端部を意識する。
その時に、おや、と気付く。
この男の
付いているのではない。生えている。
その機を突いて、右足近くから俺の頭部へ。
そんな事が頭を占めるが、俺の体は頭の中とは関り無しに自然な動きで攻撃を躱す。長年かけて磨いた動きは思考を離れ、自動的とも言えるものになっていた。まず重心を落として体勢を下げ、頭部への攻撃を地面に向かって沈み込むような感覚で上体も同時に折り曲げて避けた。
破裂音。
下げた頭のすぐ上だ。
俺が躱せた事を感じ取る間に、
顔面を伏せかけていた俺にその先端は視界の範囲より外にあったが、見えた範囲で先端部へと繋がっている相手の
見たものを解釈する事より先んじて、無心の反射で躱し続ける必要を己の体が意識とは別に選択していた。体重によって自分自身が落下するようにして躱した動作をそのまま止めず、俺は斜め横の地面に向けて重心を流し、軌道を変えた
破裂音。これも躱せた。
しかし狙いを外しても、この
使い手の絶妙な引きから生まれる張りによって制御され、また空中で動きを変えて俺の急所を追って来るということだ。
俺は殆ど這いつくばるように上体を折りつつも、体を上手く畳むようにしていた事で足は膝をついてはいない。地面までの隙間は僅かだが、重心をそこからさらに落としてその場で
躱した数だけ
防戦一方ではあるが、まだ一撃も喰らってはいない。
相手の
細かく言えば、心の中に何も無いという完全な無心ではない。「
どれだけの回数連続した攻撃を躱し続けたのかも分からないままだが、破裂音が収まった所で変化を伴って続いていた攻撃が一旦収まったのだと感じ取り、俺は腰を上げて上体を戻し、軸になる足を替えてからまた立ち向かう構えを取り直す。
男は
俺は突然、攻められっぱなしで申し訳ないな。そんな気分に陥った。
我ながら、それを不思議に思う。
何に申し訳がないのだろうか、俺は。
凄まじい武芸を示して見せたこの男に対してだろうか。
俺に武芸を仕込んでくれた師か。
或いは、
分からない。だが俺は鞭使い。俺の
切り替える。気持ちよりも、体の方を。
構えは変えず、ほんの僅かに体を伸ばし、体の内側だけでそこから
真横から見ていた見物人には、俺の立つ位置が瞬時に移動したと見えた事だろう。目の錯覚を疑ったかも知れない。そして正面に立つこの男には。
頭の高さを殆ど変えず、足を明確に曲げ伸ばししないまま後ろに下がった俺の動きも、正確な距離も、捉えきれてはいないのだろう。
そして、後退した俺の体とは別に大地に広がり置き去りにされたような俺の
その先端部。
一歩分。限りなく短い時間に生じた俺の手元との長さの、引きとも言えない張りの変化が柄から動きの波として伝わると、斜め前方へ向かって
俺の
先端から伸び上がる俺の
破裂音。
顎先から額を掠めて男の頭上まで伸びきった。首を反らして躱しながら一瞬で俺との正確な距離を測り直すこの男。俺と同じで無意識なのだろう。躱してすぐに
どんな武芸者にも、自然に身に付く共通の癖が有る。
己の身に付けた
しかし俺は打ち下ろさない。
鞭使いであるが故なのか、こちらもこの男の癖が体で分かる。
最初に一連の攻撃を受けただけでも、よく分かる。
この男の攻めは、
分かる、分かるぞ。やはり俺は鞭使い。そしてこいつも鞭使いだ。
だから分かる。
こいつは、この男は、
男は無意識のまま俺の攻撃を回避することに成功した、と感じた事だろう。
そしてその次に、気付いた筈だ。癖として予測した範囲に、俺の鞭の先端が舞う姿は残像すらも見えない事に。
それは俺の
俺がこの男よりも操作に巧みだったという訳でもなく。
只、俺は
放たれた先端部は、伸びきったと同時に手元を引き戻すことにより対象を撃ち抜く瞬間にだけ爆発的な威力を示す。それが
伸びきった瞬間に引き戻す事で、
俺の
「見えなかっただろ?まっすぐに撃たれると、自分と相手を繋ぐ線か点にしか見えないからな。
既に俺の声が聞こえていない事は手応えで分かっていたが、同時に伝わっているような確信も有る。
心の臓を守る骨は、胸でも背でも活殺の急所。
だがこの男、体に
立ち会っている役人か、見物に来ている武芸者の中に、
勝ったのだから、褒賞も幾らかは貰えるだろう。
奢ってやっても良いかもな。
最初に
俺の故郷なら、そんな
〈鞭使い おわり〉
鞭使い きのはん @kinohan
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