異世界リハビリテーション ~勇者を引退した彼に、理学療法士の私ができること~
佐藤くん。
異世界召喚
第1話 ある日突然
それは、本当に突然のことだった。
いつもの朝。いつもの通勤路。自転車を漕ぎながら、私は今日の訪問スケジュールを頭の中で確認していた。午前中は田中さん、午後は川口さんと新規の患者さん。訪問看護ステーション「ひまわり」で働き始めて二年、ようやくこの仕事にも慣れてきた。理学療法士として、患者さんの人生に寄り添えることが、何より嬉しい。
桜並木を抜けて、いつもの交差点に差し掛かった時だった。
突然、視界が真っ白になった。
眩しい。何も見えない。自転車のハンドルを握る手に力が入らなくなる。体が宙に浮いているような、不思議な感覚。これは、夢? いや、夢にしては妙にリアルだ。
耳鳴りがする。キーンという高い音。そして、何か声が聞こえる。女性の声? いや、複数人? 何を言っているのか、わからない。言葉が、日本語じゃない。
どのくらい時間が経っただろう。数秒か、数分か、それとも数時間か。時間の感覚が、まったくわからなかった。
やがて、眩しさが引いていく。ゆっくりと視界が戻ってくる。
私は、目を開けた。
そこは、見知らぬ場所だった。
石造りの広い部屋。天井が高く、壁には豪華な装飾が施されている。床には、複雑な幾何学模様が描かれていて、それが淡く光っている。そして、私の周りには、見たこともない格好をした人たちが立っていた。
ローブを着た老人。甲冑を着た兵士たち。そして、中央には、美しいドレスを着た若い女性。
全員が、私を見ている。
私は、混乱した。ここは、どこ? この人たちは、誰? そして、私は、なぜここにいる?
「成功しました、エリーゼ様」
ローブの老人が、嬉しそうに言った。
「ようやく、召喚に成功いたしました」
召喚? 何の話だ?
ドレスの女性——エリーゼと呼ばれた彼女——は、私の方に近づいてきた。美しい金髪、青い瞳。まるで、お伽話の中のお姫様のような容姿だった。
「ようこそ、異世界の方」
彼女は、優雅にお辞儀をした。
「私の名は、エリーゼ・フォン・エルドラント。このエルドラント王国の第一王女です」
王女? 異世界?
私の頭は、完全に混乱していた。
「あの、すみません」
私は、やっとの思いで声を出した。
「ここは、どこですか」
「先ほど申し上げた通り、エルドラント王国です」
「エルドラント、王国」
「ええ」
エリーゼは、微笑んだ。でも、その笑顔には、どこか切羽詰まったものがあった。
「あなたを、召喚させていただきました」
「召喚」
「ええ。異世界から、この世界へと」
私は、自分の手を見た。確かに、ここにいる。これは、夢じゃない。現実だ。でも、信じられない。異世界召喚なんて、ライトノベルの中だけの話じゃないのか。
「なぜ、私を」
「それは、後ほど詳しく説明いたします」
エリーゼは、周りを見渡した。
「まずは、お部屋にご案内いたします。長旅でお疲れでしょう」
長旅? いや、私は一瞬でここに来たんだけど。
でも、確かに疲れていた。頭が混乱して、足元がふらつく。
「こちらへ」
エリーゼに導かれて、私は部屋を出た。長い廊下を歩く。窓の外を見ると、信じられない光景が広がっていた。
中世ヨーロッパのような街並み。石畳の道、木造の家々、遠くには城壁が見える。そして、空には、見たこともない色をした二つの月が浮かんでいた。
これは、本当に異世界なんだ。
私は、現実を受け入れざるを得なかった。
案内された部屋は、広く豪華だった。大きなベッド、立派な家具、窓からは美しい庭園が見える。でも、私にはそれを楽しむ余裕がなかった。
「少し、お休みください」
エリーゼが言った。
「一時間後、改めてお話をさせていただきます」
「あの」
「はい」
「私、元の世界に、戻れますか」
エリーゼは、少し躊躇した。そして、静かに答えた。
「必ず、お戻しします」
「...本当ですか」
「ええ。ですが、その前に、どうか、お力をお貸しいただけませんか」
彼女の目は、真剣だった。必死だった。何か、とても大きな問題を抱えているようだった。
「わかりました。まずは、話を聞きます」
「ありがとうございます」
エリーゼは深々とお辞儀をして、部屋を出て行った。
一人になって、私はベッドに座った。
現実感がない。まるで、夢の中にいるようだ。でも、ベッドの柔らかさ、空気の匂い、窓から聞こえる鳥の声、すべてがリアルだった。
異世界。
私は、本当に異世界に来てしまったのか。
訪問看護ステーション「ひまわり」は、どうなる? 田中さんや川口さん、患者さんたちは? 森下さんや山田さん、桐島さんや中村さん、みんなは?
不安が、押し寄せてきた。
でも、今は、まず状況を理解しないと。エリーゼが何を求めているのか、それを知らないと、帰る方法も見つからない。
私は深呼吸をして、心を落ち着けた。
大丈夫。きっと、何とかなる。今まで、患者さんたちの困難に向き合ってきた。諦めない心だけは、負けない。
一時間後、エリーゼが部屋に戻ってきた。今度は、一人ではなく、老人を連れていた。
「改めまして、私はエリーゼ・フォン・エルドラント」
彼女は、椅子に座った。
「こちらは、宮廷魔導師のメルキオールです」
老人——メルキオール——は、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。召喚の儀式を執り行わせていただきました」
魔導師。魔法使いってことか。本当に、ファンタジーの世界なんだ。
「まず、お名前を教えていただけますか」
エリーゼが聞いた。
「水野あかりです。日本から来ました」
「ミズノ・アカリ」
エリーゼは、何度か繰り返した。
「美しいお名前ですね」
「ありがとうございます」
私は、深呼吸をして、尋ねた。
「それで、なぜ私を召喚したんですか」
エリーゼは、少し俯いた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「五年前、この世界に魔王が現れました」
「魔王」
「ええ。強大な力を持つ、闇の支配者です」
エリーゼの声が震えた。
「魔王は、世界を恐怖に陥れました。多くの人々が犠牲になりました」
「...」
「そして、一人の勇者が立ち上がりました」
エリーゼは、窓の外を見た。
「彼の名は、アレン・ヴァルハイト」
「勇者」
「ええ。彼は仲間たちと共に、魔王の城へと向かいました」
エリーゼは、続けた。
「激しい戦いの末、アレンは魔王を倒しました。世界に平和が戻りました」
「それは、よかったですね」
「ええ。ですが」
エリーゼの目から、涙がこぼれた。
「アレンは、その戦いで深い傷を負いました」
「...」
「右腕と右脚に、重い障害が残ったのです」
私は、息を呑んだ。
「魔王の呪いと、戦いでの負傷。二つの要因が重なって、彼の体は元に戻りませんでした」
「治療は」
「この世界最高の癒し手たちが、力を尽くしました」
メルキオールが、重々しく言った。
「私も、あらゆる魔法を試しました。ですが、どれも効果がありませんでした」
「...」
「物理的な損傷は治せても、呪いによる神経の損傷は、この世界の魔法では治せないのです」
エリーゼは、私を見た。
「そこで、私たちは考えました」
「...」
「異世界には、この世界にはない知識や技術があるはずだと」
メルキオールが、頷いた。
「膨大な文献を調べ、召喚魔法の研究を重ねました」
「そして、ついに成功したのです」
エリーゼは、私の手を握った。
「水野あかり様」
「...はい」
「あなたの世界には、『リハビリテーション』という医療技術があると、古い文献に記されていました」
私は、驚いた。
「どうして、それを」
「数百年前、この世界と貴方の世界は、一度だけ交流があったそうです」
メルキオールが説明した。
「その時、こちらの世界の者が、向こうの世界の医療を学んだという記録が残っています」
「...」
「その中に、『リハビリテーション』という言葉がありました」
エリーゼは、真剣な目で私を見た。
「お願いです、水野あかり様」
「...」
「アレンを、助けてください」
私は、しばらく考えた。
勇者。障害。リハビリテーション。
確かに、私は理学療法士だ。リハビリの専門家だ。でも、異世界で、魔法も使えない私に、何ができる?
「あの、アレンさんの状態を、詳しく教えてもらえますか」
「はい」
エリーゼとメルキオールは、アレンの状態を説明してくれた。
右腕——肩から肘までは動くが、肘から先が動かない。握力もない。
右脚——股関節と膝は動くが、足首が動かない。歩行は杖があればなんとか。
痛みと痺れが常にある。
私は、頭の中で整理した。これは、末梢神経の損傷だ。魔王の呪いが、神経を傷つけたんだろう。
「治りますか」
エリーゼが、不安そうに聞いた。
私は、正直に答えた。
「完全に元通りになるかは、わかりません」
「...」
「でも、リハビリで改善できる可能性はあります」
エリーゼの目が、輝いた。
「本当ですか」
「はい。神経が完全に切れていなければ、機能を回復させる方法はあります」
「...」
「そして、たとえ完全には戻らなくても、残された機能を最大限に活かす方法もあります」
私は、エリーゼの手を握り返した。
「やってみます。アレンさんを、助けたい」
エリーゼは、涙を流した。
「ありがとうございます」
でも、私には不安もあった。
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「終わったら、必ず私を元の世界に戻してください」
「はい、約束します」
エリーゼは、深々とお辞儀をした。
「必ず、お戻しします」
私は、決意した。
この異世界で、理学療法士として、勇者を救う。
そして、元の世界に帰る。
それが、私の使命だ。
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